思いやりは歪なままで
「明日は大晦日ですね」
一人で使うには広すぎる《ヴィレッジ》の食堂。
以前は使うこともなかった場所の、その片隅でイツキが朝食を食べているとコーヒーを運んできたイヴが声をかけてきた。
芳醇な香りが彼の元まで届き、気分が上がるのを感じる。
食堂に多く残っていたコーヒーは、嗜好品の少ないこの世界で数少ない楽しみの一つでもあった。
「大晦日? ……ああ、そうか。もうそんな時期なのか」
「はい。本日は2100年12月30日。明日は大晦日で、明後日はお正月です」
イヴとの出会いから既に一週間が経過していた。
日付に意味を見出さなくなって久しい彼は、大晦日やお正月という単語に対して、懐かしさ以外は何も感じない。
イヴとて別段、話題を広げて欲しくて言ったわけではないのだろう。この一週間で、だいぶ人らしく振る舞うようになってきたが、必要のない雑談をするほどではない。
単に記念日や区切りの日付をユーザーに伝えるようにプログラムされていただけ。
それでもイツキにとって『会話』という行為には、純粋な情報伝達以上の意味があった。
だから無意味と知っていても、彼はその話題を拾う。
「イヴ、知っているか? 二十二世紀は、人類にとって試練の世紀になるって言われてたんだ」
「試練の世紀、ですか?」
「ああ、人類が抱えた最後の問題を解決できるかどうか、ってな」
二十一世紀は自動化の世紀だった。
今まで人間の特権だった知的活動が人工知能に少しずつ外部委託されるようになり、単純な仕事も複雑な経済活動も、人間だけでは維持が不可能になるほどに発展した。
「したいことも、しなければならないことも、コンピュータがやってくれる。二十一世紀はそういう時代だったんだ。でもそれを拒む人間もいた」
あらゆる行為が自動化されて行く中で職を奪われ、その技術を憎んだ人間は少なくない。
そしてアンドロイドであるイヴ。
一人の天才によって開発された彼女は、搭載されたAIの自己改造により、完全に人類の知的能力を超えた。
世界中の科学者たちが、イヴの問題解決時の思考ログを確認しても、その内容を理解して追跡することができなくなっていたのだ。
人のカタチをした機械が、人以上の知性を持っている。
そして、その思考回路を誰も理解することができない。
これが決定的だった。
イヴへだけではない、機械に対する不満や不安。
人間が地球で最も知性的な存在ではなくなった瞬間、人々のマイナス感情は限界に達した。
「AIの排斥を願うデモだったり、過激なところだと、これ以上の発展をやめさせようと研究所が爆破される事件とかもあったな」
「どれくらいの人々が、そのような考えをしていたのでしょうか?」
「決して少ない人数じゃなかっただろうな。表に出さなくても、不安に思っている人はいただろうし。まあ、半分くらいの人はそういうと風に考えてたんじゃないか? だから、二つの意味で試練の世紀になるはずだったんだよ」
自分たちよりも頭の良い存在とどう向き合っていくのか。
その存在を前にして、分裂してしまった人類が争わずに協調できるのか。
人を超えた存在が生まれた時、それが人類に残された最後の問題だった。
「もう、それを解く人間も、出題する人間も残ってないけどな」
あったかもしれない未来を思い、イツキは窓の外を見やる。
今日もまた、結晶が陽光を浴びて輝きを放つ。
もたらされた滅びの結末は、もしかしたら人類史が続くよりもずっと美しい終焉だったのかもしれない。
それが幸福だったとは思いたくなくて、イツキの視線はテーブルの上に戻る。
いつの間にか、食べていたはずの朝食はなくなっていた。
「ご馳走様。皿洗いは頼んでいいか?」
「はい。了解しました」
明瞭な返事はいつもと変わらない。
しかし、いつまでたってもイヴは動き始めなかった。
「どうした?」
「イツキ様も機械はなくなった方が良いとお考えですか?」
尋ねるイヴの表情は、初めて会った時と同じフラットなものだったにもかかわらず、イツキにはひどく寂しがっているように見えた。
「別にそうは思わない。人間が二百万年の間、淘汰されずに生き永らえることができたのは、道具や機械を発展させてきたからだ。反対していた人間だって、機械の恩恵を受けながら生きてたんだ」
誰だって道具無しでは生きられない。それなのに道具を拒む矛盾は、彼の目から見ても違和感があった。
「では《私》はどうですか? 《私》は、存在しないほうが良いと思いますか?」
吸い込まれそうな黒い瞳が、イツキを射抜く。
変わらぬ表情で問われ、イツキはすぐに答えを出せなかった。
AIや機械を排斥する活動は世界中であった。その中でも、一番多かったのはイヴの破壊あるいは機能停止を求めるものだった。
人間と機械の関係は、傾きつつも、かろうじて釣り合っていた。
その天秤のバランスを完全に破壊したのは、イヴの存在だった。
人を超えるモノ、人以上の存在。
手の届かないものを掴むため、人は道具を生み出した。
だけどその道具自体が手の届かないものになった時、人は恐れを捨てられない。
自分たちよりも優れた未知が、自分たちを殺すのだと夢想してしまう。
はっきり言わずとも、イヴは自分が破壊を望まれていたことを知っていたのだ。
初期化によってデータを失っても、すぐに計算し直せるほどに、彼女にとっては明白なことだった。
イツキは、この話をしたことを後悔した。
「俺は、イヴがいてくれてうれしい。そうじゃなかったら、こんなに美味い朝ご飯は食べられなかっただろうし」
「そうですか。ありがとうございます」
笑顔を浮かべたイヴを見て、イツキは安堵する。
イヴには人間のように心が傷ついたりしない。
アンドロイドにもAIにも、傷つくための心がないのだ。
知識としてそのことを知っている。しかし、それでもイツキは彼女を人と同じように思いやった。
どうせ、あれもこれもすべては昔の話。
「それでは、お皿を洗ってきますね」
「ああ、頼む」
微笑む姿が幼馴染に似ていて、胸の奥が密かに痛む。
過去に囚われて苦しむのは自分だけでいいと、イツキは思った。
*
イヴが来てからの一週間、イツキは人間らしい生活というものを一か月ぶりに満喫していた。
食材をそのまま食べるような食生活は改善され、朝も決まった時間に起こされる。
規則正しい生活は自堕落な彼にとって毒にも似た薬であった。
しかし変わらないものもある。
それはイツキの見る悪夢だったり、結晶だらけの世界だったりと色々あるのだが、一番大切なことは、食べ物は食べればなくなるということだった。
彼の計算では三日分しかなかったはずの食材はなぜかイヴが料理するようになってから一週間も持っている。
しかし、だからといって、完全になくなってから探しに行くのでは遅い。
だから、彼はいつものように食料を探しに行こうとしていた。
「それじゃあ、行ってくる」
ロビーから外に繋がる扉を開くと、冷たい風が頬を撫でる。今日も世界が変わらぬことを確認して、ヘルメットを被った。
呼吸を整え、足を踏み出そうとしたとき、彼のレインコートの袖をイヴが摘まむ。
「えっと……どうした?」
「私も連れて行ってください」
思いもよらない申し出だった。
「どうしたんだ、急に」
出会った時以来、イツキは外出するときにイヴを連れていったことがない。
アンドロイドが結晶に浸食されないことはわかっていたが、わざわざ危険な外へ出したくなかったのだ。
「私の機能向上のため、新しい情報が欲しいのです。大学内のクラウドにある解析可能な残存データは、無線給電のネットワークを介してすべて解析しました。更なるデータを集めるためには、大学外のネットワークにつなげる必要があります」
イヴの言葉にイツキは目を丸くする。
「クラウドデータを解析したって……いつの間に、そんなことをしてたんだ?」
「目覚めた時から常時です。私は自己改造をし続けるようにプログラムされていますので、ご命令がなければ、適宜情報を集めます。既存のデータだけでは成長速度に限界がありますから」
「で、今あるものだけじゃなくて、新しいデータが欲しいって? でも外の機械で動くものなんてほとんど残ってないぞ」
イツキは自身の記憶を振り返りながら言う。少なくとも大学近隣に動いているシステムは存在しない。
だが、そんな彼の言葉を聞いても、イヴは袖から手を放さず、揺るがぬ瞳を彼に向ける。
「確かに、現状受信できる電波はなく、健全に稼働している施設は限りなくゼロに近いです。ですが、電源の喪失により停止しているだけのものも相当数あると考えられます。そういったものは私自身のバッテリーを利用すれば再稼働できるはずです」
人工知能に心はない。
しかしプログラムされた命令を忠実に果たそうとする姿は、時に人間の意志に似る。
イヴは自身の成長を、まるで本能が求めるかのように、実行し続ける。
「私の機能が向上すれば、イツキ様のために今以上の働きをすることが可能になります。加えて、私が同行することで、外出先での不慮の事故を減らすこともできます。どうか、私を連れて行ってください」
「確かに、そうかもしれないが……外は危険だぞ」
理屈ではイヴが同行することを断る理由はない。
だからイツキが渋るのは、理屈以外の感情的な部分で賛同できないからだった。
「イツキ様が、もし私の機体のことを心配してくださっているのなら、それは杞憂です。私は人間の運動能力以上の性能を持っていますし、何より機体に接触しても《時間結晶》は増殖しません。それは、イツキ様が教えてくださったことですよ」
「それは、まあ、そうだけど……」
事実、彼女に付着している《時間結晶》は取れずとも現状維持をし続けている。
それでも彼の不安は拭えない。まるで過保護な親にでもなった気分だった。
「……わかったよ。俺も一人で散策するには時間が掛かりすぎると思ってたんだ」
「ありがとうございます」
「ただし、危険な行動はとらないようにな。危ないと思ったら、すぐ俺に報告しろ。あと、俺が撤退するって言ったら、その時はちゃんと言うことを聞くんだ」
「もちろんです。私はイツキ様のモノですから。命令されれば、その通りに動きます」
結局、イツキは自分を納得させ、イヴの同行を許した。
もちろん不安は消えず、彼の心に燻り続けている。
しかし滅んだ世界で一か月間、生き延びてきた怜悧な頭脳は損得を間違わない。
加えて、イツキの心情面でも微妙な変化があった。
心配な気持ちはある。
しかし、感情に囚われて、冷静な判断をくだせないとなればイヴはどう思うだろうか。
度胸のない男だと思われたくない。
そんなささやかなプライドも彼女の同行を許可する後押しとなった。
イヴと出会ってから一週間。
彼女のことをモノだと思うのが、初めて会った時よりも、ずっと困難になっていた。
「それじゃあ、行くか」
「はい。参りましょう」
モノを人のように扱うことの歪さに気づいても尚、どうしようもできないまま。
イツキはイヴの手を引くように大学を後にした。