そのカタチはがらんどうのはずなのに
イツキにとって、一か月前から夜は憂鬱な時間だった。
陽が沈み、世界が闇に浸される。
以前は文明の光が支配していたのに、今ではその欠片もない。
産まれた時から見続けて常識として認識していた景色が奪われた衝撃は、彼の根幹を揺らした。
明けない夜はない、そんな言葉さえ信じられなくなるほどに。
加えて悪夢のこともあった。
あの日の悲劇を、自身の罪を見つめ直すと胸が詰まる。
忘れてはいけないことだというのはわかっていても、感情は理性を凌駕する。
しかし今だけはそんな夜の憂鬱さを忘れていた。
「聞きたいことが多すぎるな……」
あれからイツキとイヴは完全に日が暮れたのをうけ、《ヴィレッジ》に戻った。
なによりもまずは情報把握だ。生き残るために話し合わなければならない。
しかし立ち話をするには疲れすぎていて、イツキはエントランスロビーにあるイスに腰を下ろす。
「とりあえず、適当に座ってくれ」
イツキはイヴに座るよう促すが、イヴはじっとイツキを見つめるだけで、その場を動こうとしない。
「どうかしたか?」
「イツキ様の言う『適当に座る』とは、どの位置に、どのように座ることを指しているのでしょうか」
「……正面の椅子に、俺と向かい合うように座ってくれ」
具体的に指示することで、ようやくイヴは動き出す。
関節部分に何か不具合があるのか、手足の動きはぎこちなく、歩く速度も遅かった。
イツキの二倍ほどの時間をかけてようやく席に着く。
「どうした? どこかおかしいのか?」
「その質問は『おかしい』の定義が曖昧です。また、問われている内容も不明瞭です」
心配の言葉にも無表情のまま定義を問うイヴを見て、イツキは苦笑いを浮かべた。
「……質問を変える。どうしてそんなに歩くのが遅いんだ?」
「関節の可動域に異物が混入しています。現状のプログラムでは想定されていない負荷がかかり、駆動に支障が出ています」
質問する側が、曖昧な問いを立てなければイヴの返答は明瞭だ。
「異物……《時間結晶》か」
「除去が困難の為、現在、異物を前提とした新たな制御プログラムを作成中です。これにより、標準性能の80%ほどの駆動性が確保されます」
「作成中って、プログラムを自分で組めるのか?」
「はい。私はボトムアップ型AIとして構築されていますので、問題に対し自己改造という解決策を立案、実行することができます」
「いやそう言う意味じゃなくて……まあ、いいや」
「制御プログラム作成にかかる時間は、残り七分五十七秒です。作成を中止しますか?」
「完成すれば動きやすくなるんだろ? だったらそのまま続けていいよ」
「ありがとうございます。プログラムを作成することによるパフォーマンスへの影響はありません。どうぞ命令ください」
イヴが恭しく頭を下げると、彼女の艶やかな黒髪に付着した《時間結晶》が輝く。その姿を見てイツキは浮足立つ感覚と同時に違和感を覚えた。
それは幼馴染のアイカが絶対にしなさそうな行動を、同じ姿の〝モノ〟がしているというのも原因ではある。
しかしそれ以上の原因もあった。
以前にテレビで見たイヴと、今のイヴがあまりにも違いすぎていたのだ。
「前に見た時はもう少し人間らしいというか、柔軟性のある受け答えができていた気が……」
『適当に座る』『どこかおかしい』
人間ですらはっきり定義できない曖昧な言葉。
それらの意味を理解できたからこそ、イヴの存在は物議を醸したのだ。
「イツキ様が感じられている違和感は、恐らく私のデータが損失されたことが原因だと思われます。私の基盤は量子コンピュータで構成されていますので、一度電源を失うとデータを内部に保持できません。データを保存する記憶領域もありますが、現在稼働できるのは基礎データを保存していたものだけです」
「そういえば、初期化がどうとか言ってたな」
先程、再起動した際のイヴの言葉を思い出す。
イツキは一介の大学生だ。
工学部の情報工学系を専攻していて多少成績は良かったが、すべてを理解できるほどの専門性は持ってはいない。
そんな彼が先のシステムメッセージで理解できたのは、『初期化した』と『バックアップ復元に失敗した』ということだけだった。
「じゃあ、今のイヴは工場出荷状態ってわけか」
「厳密には違いますが、データに関してはイツキ様のおっしゃる通りです。あらかじめ入力されていた基礎データと初期設定だけでは、複雑で曖昧な意味を持つ人間の言葉に対応しきれません。再起動によりデータ収集とフレーム構築が可能になりましたので、いずれ以前の私と遜色ない反応を返せるようになるはずです」
聞きたかったことは山のようにあった。
しかしすべて解答不能といわれては肩を落とさずにはいられない。
「いずれ……ね。曖昧な言い方だ」
「申し訳ありません。私がこれから触れていく情報量によって計算結果に大きな違いが出てしまうので、お伝えできないのです」
「ああ、いいよ、別に。どうせ意味のないことだし」
人間社会で円滑に活動するには、人間らしさ、人間性といったものを模倣する必要があったかもしれない。
しかし今はもう、社会を形成する人間は残っていないのだ。
そう。残っている人間はイツキだけ。
目の前の人型は、人間ではない。
その事実にイツキの心は沈む。
忘れていた地獄を思い出し、イツキが口を閉じると、まるでその瞬間を待っていたかのようにイヴが口を開いた。
「イツキ様、質問をしてもよろしいでしょうか」
「……いいよ、なんだ?」
「ありがとうございます」
イツキが許可すると、イヴは自身の機体に付着した《時間結晶》を指差した。
「これはなんという物質でしょうか? 私の基礎データには鉱物系の情報もありますが、そのいずれとも一致しません。外見的特徴は水晶に似ていますが、性質はまるで違います」
「ああ、そうだな。それも含めて、何が起こったのか、まとめて説明するよ」
初期化されたのなら、一か月前に何が起こったのか知らないはずだ。これから先、共に過ごすことを考えると説明をしておくべきだろう。
そう思ったイツキが口を開くと、言葉を発する前に彼の腹が大きな音を立てた。
思い出してみれば朝食以来、何も食べていない。
先程までは疲労の方が勝って空腹は気にならなかったが、今ではすっかり逆転していた。
思わずイヴに目を向けた。
相変わらず無表情なその姿を見て、逆に羞恥心を刺激され、仄かに顔が熱くなる。
一か月ぶりの羞恥心だった。
「お腹が空いているのですか? それなら先に料理を作りましょうか」
彼の様子から体の調子を判断したのか、イヴはそう提案した。
「いや、ありがたいけど……使える食料はほとんどないぞ」
「食材が無いのなら無いなりに作れますので問題ありません」
「そうなのか……というか、料理できるのか?」
「はい。料理その他、一通りの家事は出来るようになっています。」
「……アイカのやつ、さてはイヴに家事やらせてたな。あいつ、研究以外だと割とものぐさだったしなぁ」
イツキの顔に思わず苦笑いが浮かぶ。
幼馴染のよく知った一面がイヴを通して伝わってくるようで、少し懐かしい気分になった。
「それではキッチンをお借りします」
「場所はわかるか?」
「帝都大学の設備に関してのデータもありますので、把握しています」
イヴはそう言って立ち上がる。先程のぎこちなさを忘れさせるほど、滑らかで自然な動きだった。
*
非常用の保存食を調理して食べるというのは、以前にも試みたことがあった。
結果は芳しくなく、イツキは後悔とともに二度と調理をしないことを誓っている。
だからイヴが料理をすると言った時、その言動も相まって不安を抱いていた。
しかしそれは杞憂だったようで、イヴはきちんと料理を成し遂げた。
どうやって作ったのかわからないほどに見事な中華料理だった。
食材は貴重だからあまり使わないで欲しいとイヴに言っておいたのだが、本当にそのようにしてくれたようで、今日拾った食材の十分の一以下しか減っていない。
イツキは驚きつつも、料理を食べながら、これまでの一か月について説明した。
《時空間移動装置》の実験が失敗したこと。
《時間結晶》が溢れ、世界が滅んだこと。
《時間結晶》の性質についてのこと。
もうこの世界には、自分しか人間が残っていないこと。
話せば話すほど気が滅入るような事実を、努めて淡々と伝え続けた。
それに対するイヴは努めるまでもなく平常で、時折定義の確認をしながら聞いていた。
「――というわけで、その結晶は壊せないうえに生き物が触ると増えて飲み込もうとするんだ。だから、それを俺にぶつけないように気を付けてくれ」
「了解しました」
言葉を選んで説明すれば、イヴはきちんと理解した。
むしろその性能を遺憾なく発揮して、言葉以上のことを理解する。
「ああ、それとイヴの電源は大学の無線給電を使っているから、大学外には出ないほうがいいぞ」
「それについては問題ありません。一度電力が供給されれば、内部発電機と合わせて一年間は電力無しで行動できます」
「へえ、便利だな……じゃあ、なんであの時は電力切れになってたんだ?」
「私にはわかりかねます」
「まあ、そうだよな」
意味のない質問だった。
生産性のある問いができなくなった時点で彼は自身の疲労を自覚した。
時計を見れば、時刻はとっくに二時を回っている。
「……今日はこれくらいにするか」
イツキは立ち上がると、軽く伸びをして、階段を指差した。
「とりあえず、俺はもう寝るよ。イヴも空いている好きな部屋使っていいから休んでおけよ。一応、俺の部屋は402号だから、なんかあったら来てくれ」
「お気遣いありがとうございます。ですが、私に休息は必要ありません」
「……ああ、そうか。アンドロイドだもんな。疲れたりしないか」
どうやら本格的に頭が回っていないらしい。
アンドロイドは休息らしい休息がいらない。そんな当たり前のことすら頭から抜けていた。
「でも、やっぱり部屋に行ってくれよ。一晩中ロビーに立ってるとか想像したら落ち着いて眠れない」
しかしイヴの機能を思い出してもなお、イツキは自身の感情を優先させた。
いくらモノだとしても、人の姿、それもアイカと同じ見た目をしているのだ。
他のモノと同じように扱うのは何となく嫌だった。
「では何号室を使えばいいですか?」
「好きな部屋……じゃ、ダメか。じゃあ、俺の隣の403号室にしよう。そこなら何かあった時にすぐに呼べる」
具体性を求められイツキは指示を出す。既に何度も繰り返したやり取りだった。
「わかりました」
「ああ。それじゃあ部屋を教えるから、一緒に……いや、案内はいらないんだったか……」
話を終え、部屋に戻ろうとイヴに背を向ける。
四階までの長い道のりにうんざりしながらも階段に足をかけた、その時だった。
「イツキ様は何のために私を再起動したのですか?」
「……え?」
予想していなかった質問に、一瞬思考が止まった。
思わず振り返って、イヴを見る。その瞳は揺るぎなくイツキを見つめていた。
イブを再起動した理由。
考えてみればイツキ自身、自分が何のためにそれをしたのかよくわかっていなかった。
イヴがいれば新しい情報を得られるかもしれないとか、現状を打破する方法を立案できるかもしれないとか、理由らしきものは確かにあった。
しかし、そのどれもが本命ではないような気もする。イツキは理由のつかない自分の行動に頭を悩ませた。
世界に残った、たった一人の人間。
その孤独がもたらした感情の意味をまだイツキは理解できていなかった。
だから、違うとわかっていながらも、彼はそれらしい言葉を言うことしかできない。
「何のためって……それは、まあ、倒れていた人がいたら、助けるのが普通だろ?」
「私は人ではありません」
イツキの言葉をイヴは柔らかに否定する。
「ですが、イツキ様は優しい人なのですね」
しかし、彼の心意気までは否定しなかった。
イヴは微笑むように口元を緩めた。それはデータとともに失われたはずの人間らしさだった。
「え……今、笑ったか?」
イツキが尋ねると、イヴは首を傾げ、不安そうに眉を顰める。
「イツキ様を観察して『表情』を学習しました。まだサンプルが少ないので、多くの表現はできないのですが……間違っていましたか?」
短時間で表情とその意味を学習したという事実にイツキは舌を巻く。
もちろん人間と同じ形と骨格があれば、同じように振る舞うことはできる。
だがサンプルの少ない中で適切な表情を選び再現するには、ただの筋肉の動きが人間社会でどのような意味を持つのか、正確に理解する必要がある。
彼の知るどんな機械でも不可能だったそれを、イヴはあっさりと成し遂げた。
「いや、間違ってない。今は、その表情で合ってる」
しかし超技術の産物を目の当たりにしても、イツキの心にそれほど驚きはなかった。
むしろ、あるべきところにあるべきものが収まったような、安堵にも似た感情を抱いていた。
「そうですか。よかったです」
吸い込まれそうな目を細めてイヴは嬉しそうに笑う。
それはまるで人間のような、心からの表情に見えた。