結晶世界、あなたに会えて
2100年12月23日。
カーテンの隙間から陽光が差し込んだ。
ベッドとテーブルが一つだけある簡素な部屋が、暗闇から色を取り戻していく。
辺りが白んでいく中、夜の終わりを告げる明るさを知覚して、イツキは眠りから覚めた。
「いつまで俺はこの夢を見続けるんだろうな」
強張った体を無理やり起こす。嫌な汗が全身にまとわりついていた。世界が終わったあの大災害から一か月。未だ見続ける悪夢は鮮明さを保ったままでいる。
少しでも気分を晴らそうと、身振りで指示をして家内システムにカーテンを開けさせる。
一か月前と何も変わらない太陽の光が、部屋を照らした。
自然と外の景色に目が向いた。
窓の向こうは結晶が支配する世界だ。建物、植物、動物、それら一切の区別なく結晶が包み込んで、陽光を屈折、反射させて輝きを放つ。
何も知らぬ者からすれば、この光景は楽園にも見えるだろう。《時間結晶》の外見は水晶のように透き通っているため、触れれば壊れてしまいそうな繊細な美しさを際立たせる。
だが、実態は繊細さとはかけ離れたディストピアだ。
触れれば飲まれ、永遠の静止が待っている。それはきっと死となんら変わらないのだろう。
「まあ何も知らないやつなんて、もう残ってないか」
自身の仮定をイツキは否定する。
ここ一か月、彼は自分以外の人間を目撃していない。正確には、結晶に飲まれていない人間を、だが。
彫像のように固まった人間になら、外でいくらでも会うことができる。
窓ガラス一枚を隔てた外界に、動かない人の姿を見つけ、見ていられなくて再びカーテンを閉めた。
二度寝をするような気分にはなれなかった。代わりに部屋の明かりをつけて、イツキは着替えを始めた。
全世界に波及した大災害の中、彼が生き延びられたのは、幸運によるところが大きい。
誰かを顧みることなく一人で逃げ続け、偶然飛び込んだ建物は結晶の浸食が比較的少なく、自家発電設備も家内管理システムも生きていた。
それが帝都大学の敷地内だったというのも大きい。
帝都大二回生であるイツキなら、生徒用携帯端末の個人認証タグによって、非常時、大学内のすべてのシステムを動かすことができる。
まるで神様が贔屓をしているような奇跡だった。
「……どうして、俺なんかが」
しかしイツキは決して幸運なだけの人間ではない。
あの日、生き延びられたことが運だけの産物だったとしても、その後一か月間無事でいられたのは彼の賢明さによるところが大きい。
《時間結晶》の性質を冷静に見極め、行動し続けたからこそ、彼は今、ここにいる。
その優秀さ故に、彼の苦悩は終わらない。
自分より賢い人がいたはずだ。
優しい人がいたはずだ。
生き延びるべき人が、たくさんいたはずなのだ。
自分を価値無き人間だとは思わないが、ノアの箱舟に乗れるほどではないと自覚している。少なくともそういう人間は、助けを求める者の声を無視して逃げたりしない。
イツキは自分が生き延びると定めて逃げた。
理性で判断をして他人を見捨てた。
友人だって見捨てた気がする。
合理的に考えれば、誰かを助けるための時間を逃げるために使った方が、生存率が高いのは明白だったからだ。
「合理的って、俺は機械かよ」
システマティックな考えを自嘲気味に笑おうとして、うまく表情が作れなかった。
あの時、誰かを見捨てていくごとに、人間として大事なものも一緒に捨てていたような気がしていた。
それはきっと錯覚ではない。
自分はいつか人でなくなってしまうのだろうか。
或いは既にそうなのか。
イツキの脳裏に、誰よりも賢かった女性の姿が浮かぶ。
人類に発展をもたらし、そして人類を終わらせたあの幼馴染なら、この悩みにどんな答えを出すのだろう。
そして彼女と同じ姿をした機巧の少女なら。
その無機質な頭脳は、イツキよりも人間らしくあるのだろうか。
「……少なくとも、悩むだけの俺よりはマシだろうな」
生き延びたことを悩み、未来に迷い、自分を責めるのは自意識を持つ人間に許された贅沢である。
だから、その瞬間だけ、イツキは自身が人間であると思えた。
着替えを終えて、朝食のため部屋を後にする。
暗闇の中では誰だって自分の姿を見失う。
希望の光が差し込まない終わった世界の中で、彼は自身が人間であらんことを願っていた。
*
「食べ物が尽き掛けていたの、すっかり忘れてた」
朝食を食べ終え、食料が心許ないことに気づいたイツキは物資を補給するため屋外に出ていた。
彼が人間であろうとなかろうと、喉は乾くし腹は減る。
生き物のいない世界は耳が痛くなるほど静かだ。自分の足音と風の音以外、何も聞こえない。
俯いて大地を見つめ、なるべく結晶に浸食されていない位置を選んで足を出す。
ひと月続けたことだから慣れたものだが、それでも時々、靴越しにゴリゴリとした結晶の感触を味わる羽目になる。そのたびに、全身が総毛立つのを感じた。
触れれば死んでしまうものがそこら中にあるのだ。心が擦り減らないわけがない。冷汗を流しながら、彼はまた一歩踏み出した。
外出は《時間結晶》に飲まれる危険がいつも付きまとう。
しかしイツキは、このひと月で結晶の性質を一部把握していた。
「『生き物が直接触らなければ、《時間結晶》はほとんど増殖しない』……わかっていても慣れないな」
事故直後こそすべてを覆い尽くさんばかりに増殖していた結晶だが、今ではすっかり勢いを潜めている。生物の接触があれば、無機物だろうと何だろうと飲み込んでいくが、それがなければ、本当にただの水晶にしか見えない。
だから衣類で全身を覆い、肌の露出を抑えれば脅威は最小限に抑えられる。
今、イツキはレインコートや樹脂製の手袋、ブーツを装着したうえで、バイク用のフルフェイスヘルメットをかぶっている。
過剰ともいえる装備の理由はそれだった。
「さて、どこなら食料が残ってるか」
イツキは携帯端末を取り出してマップを空中に投影させた。
そこには簡素化された建物や道路と、いくつかの赤い×印が記されている。
大学の正門から放射上に点在するその印は、彼が調べたことのある建物だということを示していた。
「近場はほとんど調べたか……今日からは遠出する必要がありそうだ」
結晶に飲まれた世界では、まず普通に入ることができる建造物が貴重である。
そこから飲食可能なものを見つけられるかとなると、可能性はかなり低くなる。
加えて、大学外の無線送電システムは機能していないことを考えると、これから先は、結晶の影響を受けていなかった物も時間が経つにつれ、ダメになっていくだろう。
自家発電設備がある建物なら、ある程度は持つかもしれないが、病院などの大型の施設でない限り長期間は期待できない。
「大学の周りを調べ終わって食料とかなくなったら、別の場所に拠点を移した方が良いか」
思い付きで呟いた言葉があまりに現実感がなくて、イツキは思わず苦笑いした。
確かに供給の面では正しい。
しかしイツキが今日まで生き延びられているのは、帝都大学の潤沢な設備を自由に利用できているからだ。
だからこそ彼は食料の懸念以外を思考の外側に置いていられる。
「同じだけの設備を使える場所があるとしたら、帝都大の別キャンパスだよな。生徒用端末はキャンパスが違っても使えるし」
他の場所はシステムが健在でもセキュリティや権限の関係で使えない。キャンパス内のシステムが不具合を起こす可能性も考えると、移動することも視野に入れる必要があるだろうか。
とはいえ、それも現実味がない話なのだが。他のキャンパスはここから歩いていくには遠すぎる。
技術の発達した世界はそのシステムがあることを前提に動く。
身一つで生きるにはあまりに不便だ。
「なんにせよ、今は物資の補充が優先か」
何となくイツキがマップの縮尺を大きくしていくと、近場でまだ印のしていない建物を発見した。
印と印に挟まれて、見逃していたようだ。詳細データを開くと、そこは食料品を売るストアであることがわかる。
少しだけ得をしたような気分になって、彼は足をそちらに向けた。
*
夕陽が眩しくなる頃に、イツキは大学へ戻っていた。
結果から言って、今回の外出は実りのあるものではなかった。未探索のストアを発見するまでは良かったが、あったのは保存食と水が三日分だけで、他はすべて結晶に飲まれていた。
その後も足を延ばして五件の施設を探索したが、有用な物資はなし。
イツキから重い溜息が零れる。
その顔は疲労で曇っていた。
いつもより遠出をしたということもそうだが、ほとんど成果がなかったという事実が余計に精神を疲弊させていた。
彼が拠点としている帝都大学の宿泊施設は、ビジネスホテルに近い外内装をしており、正門から一番離れた位置にある。
今はその距離さえも煩わしかった。
「今日はさっさと寝よう……」
殺風景だが安心できる、七畳の部屋に戻ってきて、イツキはようやく一息ついた。
何かを食べる気にもなれない。
今のイツキが抱く欲求で一番大きいのは『風呂に入りたい』というものだったが、浄水器は壊れていて、水の無駄遣いはできない。
だから濡れたタオルで体を拭くだけにとどめ、『眠りたい』という、二番目に大きな欲求を果たすことにした。
着替えを済ませ、ベッドに倒れ込むようにして横になる。
濡れた綿のように体が重い。マットレスがいつもよりも深く沈み込んでいるような気がした。
「……これだけ疲れてるんだから、夢も見なけりゃいいのにな」
静かな中、目を閉じていて、何も考えないことは難しい。
どうせ、どれほど深く眠ってもあの夢は見る。イツキは半ば確信めいた予感を抱いていた。
叶う見込みの低い願望を呟いて、イツキは落ちる瞼をそのままに、ゆっくりと意識を手放していく。
――異変が起こったのは、その時だった。
「……なんだ、この音?」
微かに、しかし確実に、世界を揺らすような低音がどこからか聞こえてくる。
音を出すものが自分以外にいなくなってから一か月。静寂の中、イツキは敏感にそれを察した。
疲労も忘れてベッドから飛び起き、息を殺す。
「――これ、外から聞こえてるのか?」
急いで窓へ駆け寄って、外の様子を確認する。音は少しずつ大きくなっているが、見える範囲での異変はない。
イツキは、急いでレインコートを羽織った。
ここ一か月の生活で、何が起こっているのかはわからなくとも最悪の事態に備えて準備をすることが彼の身には刻まれていた。
ヘルメットと手袋も装着し、部屋を出る。
廊下に備え付けられた窓から覗いてもいつも通りの景色が広がるだけ。
気味の悪い緊張感がイツキの肩にのしかかった。
「とりあえず、外に出よう」
わからないことは恐ろしい。
音源が何かを確かめるため、イツキは階段を下る。一応エレベータは動くが、止まった時のことを考えると利用する気にはなれなかった。
フロントまで降りて、ゆっくりと外へ出る。喉が渇く思いがした。イツキにとって、原因の分からない謎の音というのは、あの日を連想させる恐怖そのものだった。
速くなる心臓を抑えて、慎重に辺りを見渡す。張り詰めるような空気の中、やがて、鳴っていた異音がぴたりと止んだ。
静寂がイツキを包んだ。周囲はまるで何もなかったかのように、いつも通りである。
すっかり陽も落ちて、今は黄昏。あと三十分もしないうちに世界は夜を迎える。原因を探るのは明日にしようかとイツキは考えたが、しかしそれが実行されることはなかった。
「……なんだよ、あれ」
見開いた目が視界に捉えたのは、あるはずのない人影だった。
人影自体は珍しいものではない。
結晶に包まれた人間は探すまでもなく、あらゆる場所で見ることができる。
大学周りにあるものなら、ある程度は位置も装いも覚えていた。
しかし、彼が見つけたそれは、記憶にあるいずれのものとも一致しなかった。
自分以外の生きている人間かもしれない。
一瞬、喜びかけた心は、時間と共に急速に冷えていく。
理由は二つ。
一つは人影が倒れたまま、微動だにしないから。
そして――
「結晶に触ってるのに浸食されてない、か」
辺りは薄暗く、はっきりとは視認できない。ただ彼の目にはそう映った。
結晶に触れているのに浸食されていない。
つまりそれは人型が生きていないことを示していた。
待ち望んだ生存者ではない。ただ、イツキはその人影に興味を持った。
何故急に現れたのか。
異音はあれが原因なのだろうか。
考えても遠目では見るだけでは埒が明かず、近寄ってみる。
――結論、その人影は死体でも人間でもなかった。
「こいつは……《イヴ》、だったのか」
闇に紛れる艶やかで短い黒髪。
整った目鼻立ちと透き通る白い肌。
美人と形容しても差し支えない外見は、しかし、人のそれとは明確に違う点がある。
肌には幾筋ものラインが走っているうえに、関節部は隙間があり、機械でできた内部構造がわずかに見える。
人間のようで、人間ではない。こんな存在を、イツキは一つしか知らなかった。
世界に一機しかない、《疑似人間型自律機械・イヴ》
超高度なAIを搭載し、自己改造によって人間知性を超えた、技術的特異点の象徴。
イツキの幼馴染、伊部藍華の外見をベースに、彼女本人によって造られた機巧の少女である。テレビやネットでも散々取り上げられ、多くの物議を醸した存在だった。
「でもなんで《イヴ》がこんなところに……こいつは、研究所にあるはずじゃなかったのか?」
人よりも高度な思考をし、専門知識も詰め込まれているイヴは、アイカの助手として《時空間移動装置》の開発に携わっていた。あの災害の時も研究をしていたはずだ。
「あの場にいて、結晶から逃げ切った? あり得ない。でも、だとすれば――」
無意識に手を伸ばし、イヴの体に触れようとする。
しかし、結晶がイヴの皮膚――正確には人工皮膚――から生えているのを発見し、反射的に手を引っ込めた。
イヴの機体は結晶に浸食されていないわけではなかった。髪の毛や関節など小さな結晶が所々に張り付いている。
今ある分よりは増殖していないようだが、剥がすことはできなさそうだった。
「壊れてる……いや、電力がないのか」
付着した結晶に触れないよう注意しながら、閉じた瞼を指で開かせてみると電力不足を示す赤い光が点滅している。
驚くべきことに、イヴは停止していただけで壊れてはいなかったのだ。
その事実を認識して、冷めていたイツキの心は再び熱を取り戻す。
待ち望んだ人間ではないが、人間の〝カタチ〟を持ち、人間のように振る舞う存在。
自身の人間性に疑問を持ち、揺らいでいたイツキは自分でも気づかないうちに人を求めていた。
たとえそれが〝カタチ〟だけだとしても。
「確か、頸椎の辺りだったような……」
以前、アイカからイヴの機体仕様を少しだけ聞いていた。
その知識を生かし、今、彼はイヴの再起動を試みる。
仰向けに倒れたイヴを起こし、白衣の襟をめくって頸椎のあたりの皮膚を露出させた。
そこには英数入り混じる十文字でできた、機体判別番号の刻印があった。自動化が進んだ人間社会では電力を必要とするあらゆる道具に機体番号が刻印されている。
社会に存在するシステムを利用するには、番号を登録、記録することが必要だった。
いくらイヴが人間のように見えるアンドロイドとはいえ、本質は人の世で使われるための〝モノ〟だ。
当然、番号が刻まれている。
社会が崩壊した今では、ほとんど意味のない番号だが、この大学に限って言えば話は変わる。
緊急時のプログラムが作動しているため、生徒であるイツキは大学システムをほとんどすべて利用できる。
その中には無線給電システムもあった。
イヴの機体番号を端末に入力する。
利用規約も読み飛ばし、無線給電を開始した。
動かないアンドロイドの瞳は、赤い点滅から橙色へと放つ光を変え、ものの数秒もしないうちに緑の蛍光色になる。
そして、開かれていた瞼が一度閉じる。もう一度開いた時、黒曜石のような瞳が、意思の光を湛えていた。
〈――こんにちは。私は疑似人間型自律機械 No.0000《Eve》です〉
無機質で抑揚はなく、されどそれ故にどこまでも澄んだ声でイヴは言った。
瞬間、彼の心は歓喜に沸き立った。
自身でも驚くほどの高揚感が一瞬だけ世界の終焉を忘れさせた。
人の形をしたものが、人の言葉を話す。
この一か月、自覚せずとも孤独に浸り続けたイツキにとって、それは冷静さを失わせるには十分すぎるほど甘美な刺激だった。
そしてそれは、イヴがアイカと同じ姿をしているということも無関係ではない。
もっとしっかり見ていたくて、イツキは被っていたヘルメットを外した。
〈――電源喪失による量子コンピュータ内のデータ損失を確認――バックアップの復元を実行――過剰冷却により《ソラリス》の90%以上が凍結――復元失敗――行動基準フレーム《罪と罰》の定義確認――正常――全データの復元が困難であるため、初期設定および基礎データによる再起動を開始します――〉
言い終えると、イヴはゆっくりとイツキの方を向く。薄暗くなったこの時間帯でも、瞳に反射したイツキ自身が見えるほど顔を近づけてから、血の気の薄い唇を開いた。
「――こんにちは。私はイヴです」
システムメッセージではなく、先程よりも僅かな人格を感じられる響き。
柔らかな声と眩しささえ感じる美貌。
そして場違いな挨拶によってすっかり気圧されてしまったイツキは、
「こ、こんにちは。俺は、縄本イツキだ」
と、ただイヴがした挨拶を真似することしかできなかった。
そんな模倣が、縄本樹と《イヴ》が交わした最初の言葉であった。
*
――イツキがした行為を、人を模した機械を人が真似していると言えば皮肉の効いたレトリックであるが、その実、行為自体はありふれたことでもあった。
文化や習慣といった、人から人へコピーされていく情報の遺伝子――模倣子。
それの伝達は本やマスメディアを媒介として行われることもある。
今回はたまたま、人の姿をした〝モノ〟によって『初対面時は、挨拶をして名乗る』というミームが改めて伝わっただけ。
それを皮肉と言うのなら人間の文化そのものが皮肉の産物である。
伝えるべき文化、あるいは世界が滅んでいるというのは、些かの皮肉があるかもしれないが。
――《イヴ》、そして、彼女のもたらしていくミーム。
それがイツキの運命を変えるのか、あるいは絶望を前に何も変わらないのか。
今は誰にもわからない。