〇の〇〇
長い間お待たせしました。
ー1ー
私は彼女の方へゆっくりと歩を進めた。
ー久しぶりだね。
今更そんな当たり前のことを言って何になる。
ー元気にしていたかい。
今目の前で膝を抱えているではないか。
ー会いたかった。
…それは言いづらい。
ーでは…
ああ、それだ。それが良い。
私は彼女の前に屈み、少し赤みがかった右手を差し出した。
「どうやら大変疲れているようだ。手をお貸しましょうか。」
照れ隠しだろうか。いや、勇気を出すべきは今じゃない。しかし、どこからか「臆病者」と怒鳴りつける声が聞こえたような気がした。
ー2ー
顔を上げると彼がいた。その事実に私は感涙極まり涙を流しそうになった。いや、私の目の前に彼の赤くなった手が現れなかったら、きっとそのまま無責任にも涙を流していただろう。
その手は彼が公園に長時間滞在していた何よりの証拠だ。私が階段で右往左往していた間も、彼が私を待ち続けていたことを裏付けるものだ。ならばこのことを隠してはならない。
私がここへ来たのは彼に謝罪するためだ。ならば、更なる罪を重ねてはならない。
私は彼の手を取り、しかし顔を上げず彼に向かって贖罪した。
「ごめんなさい。私は階段を登っている途中で一度、悪い夢を見たの。今のままじゃあなたの顔をまともに見られないわ。」
私の突然の謝罪に彼は動揺しただろう。しかし、私の告白を彼は真摯に受け止めた。そして独白を聞き終えると私の手を解き、そのまま私の手を握り返した。
「その夢なら私も見たよ。階段付近に足跡が多くあっただろう。心の奥底でもしかしたら君が来ないんじゃないかと思ってしまったんだ。階段の方へつい足を運んでしまうほどにね。」
その言葉に驚き、思わず顔を上げてしまった。彼と目が合う。何も言えぬ私に彼は微笑みかけた。
「今日はそんなことを言うために来たんじゃないだろう。なら気にすることはないさ。」
言うと同時に彼は私の体ごと手を持ち上げた。そしてそのまま私を近くのベンチへ誘導した。
そんな彼の姿に普段の自分達を思い出したからだろうか。私の心は軽口を叩けるほどに和らいでいた。
「この流れなら私たちは抱擁しあうべきじゃないかしら?」
「…あれは男同士だっただろう。」
そう言う彼の顔は先ほどより紅潮している気がした。
ー3ー
結局、私は彼に連れられるまま公園の中央にあるベンチに腰を下ろした。石造のベンチは年季を感じさせながらも一切の破損がなく、如何にこの公園が人気のない場所であるかを雄弁に語っているような気がした。
ふと隣に目を向けた。彼はベンチに座るなり下を向いて、時々空を見上げ何かを確認する素振りを見せながら機会を窺うように私の方を度々見ていた。そんな彼の様子に私はふととある雨の日のことを思い出した。
やがて彼は意を決したのか、ゆっくりとこちらに体の向きを変えた。
「私は…いや、私が今から伝える言葉はきっと君のこれからの人生観を大きく変えることになると思う。」
私は驚愕した。彼は実に謙虚な人間である。そんな彼がこんな大胆な発言をしたことに対し、これから起きることの規模の大きさに身震いした。
そして、そんな私を気遣ったのだろうか。彼は次のように続けた。
「だから先に君の話を聞かせてくれないか。」
「…そうね。」
私は立ち上がった。それから、
「ごめんなさい。」
彼に対して頭を下げた。
彼は何も言わなかった。私が緊張のあまり言葉に詰まっているのを理解し、待ってくれているのだろう。私は一拍置いてから次の言葉を発した。
「私はあなたに謝れない。」
ー4ー
思い返してみれば、なんて矛盾した言葉だったのだろう。彼の目も大きく見開かれている。急いで私は補足する言葉を付け足した。
「私が恋人だって嘘をついたことに対して、あなたは怒っていたでしょう?」
「え?あ…ああ。」
今だに彼は困惑していた。
「本当なら今日ここでそのことについて謝るべきなのかもしれないわ。」
ここでようやく彼も私の意図に気づいたようで、さっと姿勢を正した。
「でも謝れない。」
少し語調が強くなる。
「どうしてだい?」
対して彼の返事は優しい口調であった。
「この間までの私たちは確かに嘘で塗り固められた関係だったわ。あなたとの日常も本当ならなかったものかもしれない。」
体が次第に火照り始めた。気持ちが高ぶる。この感情だけはそのまま彼に伝えたい。そんな思いとともに、荒ぶる感情のおもむくままに私は口を動かした。
「でも否定だけはさせない。」
彼と目があった。視界がだんだんと滲み始めた。だがここで止めてはならない。いや止められない。
「たとえあなたでも、もちろん私でも、今までの日々を否定するのだけは許さない。」
二人の間で時が止まった。私は紅潮し硬直した。強く言いすぎたのかもしれない。さっと彼の顔色を伺った。
私は驚いた。何故か。それは彼が柔和な表情を浮かべていたからである。
「そうか…そうだな。」
どこか空でも見上げていた彼は、一度うなづいて私の方へ振り返った。
「私もそう思うんだ。」
ー5ー
「え?」
私は思わず聞き返した。それほどに彼の言葉が信じられなかった。
そんな私に彼は優しく語りかけた。
「君と過ごした日々はとても楽しかった。憂鬱な雨の日でさえ、君といればかけがえのない思い出だ。」
こそばゆい言葉を臆面もなく話す彼に、私の顔はますます赤くなった。慌てて顔を隠すと、彼が笑い声をあげた。
「私も君との日々を尊重している。だから…」
彼の目線がすっと空へと吸われていった。
「ここからは私の我儘なんだ。」
彼はまるで自分を戒めるかのように自嘲めいた語りを始めた。
「君との関係を曖昧にしたままでも特に問題はなかったかもしれない。事実、今まで楽しく過ごせてきた。でも、それを私の小さなプライドが許さなかったんだ。」
胸騒ぎがする。しかし悪い予感ではない。何かが変わるような予兆が頭の中を駆け巡った。彼と目が合う。
「空を見上げてごらん。」
彼が空を指差す。響く心音。微かな期待。薄暗い街灯。燦々と煌く星。その中で大きく光り輝く一つ。そして、次の言葉は…
「月が綺麗だろう。」
彼の言葉を聞き、私はじっくりと月を眺めた。
その月は我こそが主役であると夜空の中央で高々とその存在を示していた。周りで輝く星を物ともせず王座に君臨するそれを見て、
私は「綺麗だ」と感じた。
さて、返す言葉を何にしようか。通例通り「死んでもいいわ」と返すのも良いが、如何せん面白くない。何より横で達成感に浸っている彼に少しイラッときている自分がいる。
そこで趣向を変えてみることにした。
「私はもっと綺麗な月を知っているわ。」
彼の横顔を覗いてみる。案の定、さっきまでドヤ顔だった彼の表情が凍りついていた。
それを見て内心胸がすいた私は、笑みを浮かべて言った。
「今度一緒に見に行きましょう。」
ー6ー
翌日、学校で日記を書いていた私であったが、運悪く彼女にその姿を見られてしまった。意地悪い笑顔で開示を迫ってくる彼女に抵抗する事叶わず、ついにその内容を見せてしまった。
「雨の日の旅人、迷宮の迷い人…ねえ。」
「よしてくれ。かなり恥ずかしいんだ。」
さっと日記を奪い返し、二度と渡さないよう胸に抱え込んだ。
そんな様子に彼女が笑った。
「それで昨日のことは書いたの?」
「まあ確かに書いたが、冒頭が決まらないんだ。」
その言葉に彼女は驚く素ぶりを見せた。
「悩むことなんてないじゃない。」
彼女の言動に少しムッとする。
「そうかい?なら聞かせてくれよ。」
少し怒っている私に、彼女は笑顔で語りかけた。
「あなたは私の恋人でしょう。」
不意をつかれた。なんて単純でいて幸せな言葉だろうか。先ほどの怒気は何処へやら、私は上機嫌にペンを取り、冒頭を綴った。
『今日の私は君の恋人。
明日はどんな1日になるのだろうか。』
最終回です。ここまでご愛読ありがとうございます。初めての完結作品になります。
途中のパロディは「走れメロス」です。高校の頃に読んで、今でもよく覚えています。
次回作の予告もあるのでぜひそちらもご覧ください。




