5 そして、犯人は誰もいなくなった
「……」
静まり返った、マンションの一室。ブルーシートのわずかな隙間から流れ込む外気の冷たさを、私の素肌は嫌というほど感じていた。
(ああ、やっちまったな)
私の予感は、普段あまり当たらない。が、今回は充分当たる自信がある。双子は、ケーキバイキングを焦るあまり、やらかしてしまったらしいのだ。
私の右手が、かっぴぃストラップをぎゅっと握りしめる。
かっぴぃは、何も云ってはくれなかった。けれどその代わり、私の手汗を、そのもこもこ毛玉で目一杯吸い込んでくれた。
「リナ君。無意識でガスボンベの穴を開けさせたくなる絵って……一体、どんな絵なんだい?」
警部の優しいけれど上擦った調子の声が、やっとこの部屋の緊張感を打ち崩した。
「は? 警部、それは私たちを疑ってるってことなの?」
ルナが警部に突っかかるように前のめりになりながら不機嫌そうな顔を見せると、リナが慌てて声を張り上げた。
「た、たぶん、パラパラ漫画のようなものじゃないかしら。卓さんに似た男の人が、ニヤリと笑って、釘を刺してる絵の連続――みたいな」
「パラパラ漫画……」
リナとルナを除く他の全員が、口ずさむように声を合わせた。
そのあと、大倉山が勝ち誇ったかのように、
「警部、こりゃ駄目ですね。もう、この女子高生たち、帰らせましょうよ」
と云って、小憎たらしい引きつり笑いを浮かべた。
とそのとき、浅村氏が、喉の奥から低い唸り声をあげた。
「ぜ、全然、ちがうって……そんなわけないじゃん!」
暴れだした彼を、その寸前に抑え込んだのは、大倉山刑事。
羽交い締めされた体をもがき動かす浅村さんの姿を見たリナとルナが、向き合うようにして、二人の間に一枚の鏡でも存在するかのように対称的フォルムで、ペロリと舌を出す。
「あーあ。ルナ、やっちゃったみたいよ」
「そうね、リナ。やっちゃったみたいね」
楽しげに話す二人の笑顔は、堪らなくキュートだったけど、他の皆には通用しなかったみたいだった。何故って、部屋の雰囲気は、ほんわかモードからほど遠かったもの。
「手紙のサブリミナル効果は、置いとくとして――双子ちゃんの推理の中で、明らかに間違いの部分があるわ。そう、今まであまり深く考えていなかったけど、きちんと考えてみると……確かに変よね」
「どういうことです、奥さん?」
必死に浅村さんを抑え込む大倉山を尻目に、藻岩警部がマキさんの発言に食いついた。
「今更なんですけどね、ガス爆発に引火した火――どうやって点いたのかしら」
はあ?
この空間の中の時間の流れを数秒ほども止めるほどの、まさに爆弾発言。
発言の内容が、理解できない警部の口が、開いたまま塞がらなくなった。
結局、時間の流れを取り戻したのは、浅村氏の発言だった。暴れるのをやめた浅村さんが、フン、と鼻を鳴らし、警部とマキさんの会話に口を挟んできた。
「そんなの、決まってるじゃないか! それは課長が煙草を吸おうとして、ライターで煙草に火を点けようとしたからでしょ? 課長は、毎朝起床後に、窓からの景色を眺めながら煙草を吸うのが日課だったってことくらい、ボクも知ってるんですよ」
「浅村さん……それは少し古い情報ね。あの人はもう、煙草は2ヵ月も前に止めてるの。会社でもそう云ってなかった? ほら、その証拠に、机の灰皿もきれいに片付いたままでしょ?」
「うっ」
したり顔の奥さんの言葉に、警部と浅村さんが同時に呻く。
確かに、ライターと灰皿は書斎の机の脇に、きちんと整理されている。
灰皿の中には、灰も無ければ吸殻もない。ライターが使われなかったというなら、一体、漏れたガスにどうやって火が付いたというのだろう? 私も疑問だ。
「おっしゃるとおり、ライターの火でガスを爆発させてしまった後に、わざわざ最後の力を振り絞って、行儀よくライターを机に戻したとは、考えにくいですな」
マキさんの言葉の内容をやっと納得できたらしい、警部。
「この点については、リナ君、ルナ君、どう考える?」
未だに捜査丸投げ状態の警部のそんな問いには、双子は、即座に答えられなかった。
二人の、きゅっと結ばれた口元。
警部の後ろで、ざまあみろという目をしながら笑いを抑えるのに大倉山は必死だ。あまりのムカつく表情に、彼に噛みつこうとした私を、リナが右手で制する。
彼女の瞳が、「悔しいけど……今は、やめときなさい!」と語っていた。
「では、大倉山君。この現場に、ライターとは別の火元になりそうなものは無いか、もう一度、詳しく探ってみてくれたまえ」
警部の命令に軽い頷きを返した大倉山刑事は、這いつくばるようにして、暫く部屋を歩き回った。けれど、何も残っていないことを確信した彼は、
「警部。やはり、ここにはそのようなものは存在しません」
と、すべてを見透かしたような表情で、そう云い切った。
一瞬の沈黙の後、浅村さんがぼそり、と呟く。
「じゃあ、純粋なボクのトリックじゃないってことだ……がっかりだよ……課長を亡き者にしたのは……ボクじゃなかった」
「だから、事故だって何度も云ってるじゃない!」マキさんが嬉しそうに云う。
「……。奥さん、ちょっと黙っててくれます? 今、ボクの心は悲しみに打ちひしがれているんだからッ!」
またもや、視線で火花を散らしあう、二人。
(もしかしたら……この二人、逆に気が合ってるのかも)
何故かしら、私にはそんな風に、思えてきた。
と、横には、何やら難しい顔を並べた双子がいた。私は、二人にそっと囁いてみる。
「犯人いなくなっちゃったね。どうする?」
探偵にとっては恐ろしい一言に、びくっと体を震わせた二人だったが、お互いの顔を覗き合ったまま、無言だった。
とそのとき、私の脳裏に、またもや双子探偵を震え上がらせてしまうかもしれない考え――引っかかりとでもいうべきか――が湧き上がった。
「そういえばね……さっきの二人の推理、もう一つ、変な点があると思うのよ。もし部屋の内側でガスが爆発したというのなら、窓ガラスの破片が部屋の中にあるというのは、おかしくない?」
私が指差した先――
そこには、床一面に広がる、おびただしい量のガラスの破片があった。しかも、その破片は、窓の外側であるベランダにも広がっている。部屋の中で爆発があったのなら、ベランダの壁で爆風が跳ね返って多少はガラス片が中側に飛んで来る可能性もあるが、ほとんどのガラス片は、外側へと広がるはずではないのか。
「……」「……」
二人の目線がぴたりと合い、お互いがお互いを見つめている。
「窓の両側にガラス片……」
二人は、急に息を吹き返したように、部屋を忙しく歩き回りだした。当然、私も探偵助手として、後に付いていく。
そんな私たちに「もう諦めろ」とでも云いたげな顔をして声を掛けようとした大倉山を制した、警部。
「自由にやらしてみようじゃないか」
不承不承ながら、大倉山が頷いた。
一方、活発な双子の後ろ姿に、浅村氏が愉快そうに双子を見遣った。マキさんは早く帰ってもらいたいからなのか、少しイライラしだす。
リナとルナは、吹き飛んだガラス窓を、もう一度確認した。その、きりっとした瞳が凝視していたのは、外に向かって左下、外側の窓枠にへばり付くように残る、約5センチ四方の焼け焦げたガラス板だった。
「これは何? 傷? 穴?」
ルナが見つけたのは、よく見ないとほとんど目立たないくらいではあるが、細い「千枚通し」でガラス板を貫通させたかのような、直径1〜2ミリほどの穴状の傷だった。屋外に面する側のガラス部分が、少し溶けているようにも見える。
「これは、爆発でできたようには思えないわね……」
リナが、そんな呟きとともに、窓ガラスを跨いでベランダに出る。ブルーシートから滲み出るような淡い太陽光で、床部分が青白く照らされていた。
ベランダの隅に、幾つかのプランターとともに転がっていたのは、同じメーカーの、コンロ用ガスボンベ五本だった。使用済みの物らしく、やや錆の浮いたものもあれば、まだ新品に見えるものまである。黒焦げになっていないのは、窓ガラスから少し離れたベランダの隅にあったせいだろう。
「マキさん、使用済みガスボンベはいつもベランダに?」
リナの質問に、足場を確かめながら近づいてきたマキさんが答える。
「ええ、そう。一応、穴をあけてからここに置いといて、たまったらゴミに出す感じ」
ベランダのボンベ缶を指先で転がしていたルナが、会話に割って入る。
「あれ? マキさん、一本だけ穴が開いてないのがありますけど……」
「え? ……じゃ、あの人、穴を開け忘れたのね。ホント、大事な時に抜けてる、ズボラな奴なんだから!」
亡くなった卓さんに腹を立て、鞭を振るおうとする、マキさん。
私は、犯人を名乗る浅村氏にとって、今の会話が何か意味があったかどうかを探るため、彼の方を、ちら見した。
無表情ながら、怒った様子はないようだ。真相に近づいている――かもしれない。
「あれ、ここに金属で引っ掻いたような、跡がありますね」
リナが見つけたのは、ベランダの外側に向かって左隅の、高さ120センチほどの壁にあった引っ掻き傷だった。この部屋はマンション三階の南端にあり、そのすぐ左側はマンション全体の南側壁面となっている。
ブルーシートの暗さで見にくくはなっていたが、がりっと削られたような傷が、10センチくらいの長さで上下方向に延びているのが、私にも確認できた。
「あらら、こんな傷は見たことなかったわ。誰よ、こんなところに傷をつけたのは! まさか、警察じゃないでしょうね!」
お怒りのボルテージ上昇中のマキさんに、「いやいや、そんなことはありません」と、警部が無実を主張する。浅村さんは、無表情ながらも、僅かに口元がにやけている。
しばらくの沈黙の後、リナが口を開いた。
「マキさん……旦那さんはマキさんが嫌だと云っても、よくこの窓を開けっぱなしにしてたんですよね」
「そうなのよ。信じられる? ホント、無神経な嫌な奴だったわ」
「じゃあ奥さんは、こんなことしてませんでした?」
ルナが、マキさんの耳元まで近寄り、なにやらぼそぼそとやった。
「……。ああ、そうね。確かに、私はそうしてました」
それは、双子の眼が同時に煌めいた瞬間だった。
「大倉山ッ!」
リナとルナが、大倉山刑事を同時に、そして不躾に呼びつける。あまりの迫力に、何も言えない彼は、渋々、双子のもとへと近づいてきた。リナが右耳、ルナが左耳――二人が一つずつの耳を担当し、彼にシンクロで耳打ちをする。
「ちぇ、しょうがないな」
耳打ちの言葉を聴き終った大倉山は、大きな舌打ちをした後、仕方なさそうに手をぶらぶらさせながらリビングを抜け、外へと出て行った。
「真相に辿り着けそうかね?」
警部の問いに、自信ありげに頷いたのは、ルナ。
リナは手提げバッグから彼女の携帯を取り出すと、兄の直樹さんと思われる人物に電話をかけ始めた。
「うん、そう……。だからさ、すぐ来てよ! レオナもいるし、いいじゃん……。い・い・か・ら。文句ばっか云ってないで、ほら、今すぐダッシュ!」
(何故、そこで私の名を出す?)
そんな、私の素朴な疑問は、直ぐに何処かへと消え去った。
(今度こそ、二人の推理が合ってますように!)
私は、いつの間にか白カビ妖精の「かっぴぃ」を、もう一度強く、握りしめていた。