はじまりの章 (プロローグ)
休みの日だというのに、早起き。
男は、少し後悔の念を抱きながら自分の書斎に行き、窓の紫がかった色の、分厚い生地でできたカーテンを開けた。
それは、久しぶりの青空。風も弱く、穏やかな冬の朝。
キンと冷えきった限りなく透明な空気の様子が、二重窓を通して、こちらに伝わってくる。
(今朝は、かなり冷え込んでいるな。放射冷却ってやつだ)
ガラス窓の表面には、天の川のように張り付いた結露の氷が、きらきらと光っている。
朝七時の陽の光を浴びた氷が、じんわりと溶け始めているのが、レースのカーテン越しにもわかる。
(もう正月休みも終わりか――明日から、仕事だな)
四十を少し超えた年齢のサラリーマン、田村 卓が、長い正月休みから現実に戻った瞬間だった。年末の会社での慌しさを想い出し、背筋が寒くなる。
もちろんそれは、寒さのせいではない。
部屋の中は、北国のマンションらしくその抜群な断熱性能のために、朝起きたばかりでストーブもまだつけていないというのに、気温は20℃以上ある。
と、そのとき、田村は足元に転がった、一本のカセットボンベに気付いた。足で転がすと、どうやら中味は空らしく、身の軽い子犬のように、部屋の隅まで簡単に転がって行った。
「なんで、こんなところに落ちてんだよ」
男は、ここ数日の無精で生えた顎あたりの髭に手を当て、じょりじょりとその感触を楽しみながら、文句を云った。もちろん、その文句の先は妻のマキである。
(ん? ちょっと待てよ。ここにこれを持ってきたのは、俺か?)
昨晩のことを、思い出した、男。
確か、カセットコンロを使って、二人で鍋を食べた。
そして、片付けに取り掛かろうとした頃、妻に「ちょっとだけガス残ってるから、出しちゃってよ」と頼まれ、ここでカセットボンベに穴を開けたのだった。
妻に対して文句を云ったことを、男は心の中で少しだけ詫びる。
元のすがすがしい気持ちを取り戻した男は、窓の外に、本当に北国の冬には珍しいほどの雲一つない青空が広がっているのを、再確認した。
「お、こういう時は、煙草でも吸いたくなるよね」
田村卓は、窓に寄って行き、レースのカーテンを開けた。手前の窓も開けようと窓枠に手をかけたとき、「ん?」と声を出し、眉をひそめた。
「なんだよ! マキの奴、またやりやがったな……ホント、嫌味な奴だ」
男は、ぐいっとその手に力を籠め、窓を開ける。
ギギッギッ――
その時、一瞬の閃光とともに、窓ガラス付近――が爆発した。
どんっ
そしてやって来たのは、灼熱の暑さ。そして、永遠の静けさ。
「……」
雪だるまならぬ『火だるま』となったその男は、真っ赤な炎を全身に纏ったまま、まるで朽木が倒れるかのように、背中から静かに倒れていった。
――それは北の国の冬には珍しく、よく晴れた風の弱い日の、朝の出来事だった。