罠にはめられたのです。
ジンに頭をはたかれるまで正気を失っていたようだ。いかんな、信頼できる仲間がいて、自分に敵意を持つ存在が近くにいない状態だと、気を張りつめるという事をしなくなる。緊張感ゼロという状態だ。
しかし、どのくらいアリスを抱きしめていたのだろう。いや、とてもいい感触だ。タマラン。ついでにクリスも撫でまわしていたようだ。クリスの手触り、最高ではないか。クリスもお持ち帰りしたい。
アリスが何事かをずっと、喚いていたようだがもちろん私は気にしない。ああ、天へと昇る気分というのはこのようなモノかもしれないな。
だが、天へと昇る気分は長くは続かなかったようだ。ようだ、というのは実際どのくらいの時間続いたのか分からないからだ。楽しい時間というのは早く過ぎて、辛い、苦しい、つまらない時間は長く感じるというのは真理に違いない。
頭をはたかれた。結構な衝撃を感じた。痛いじゃないか!!
「ジン、何をするんだ? 今、私は天にも昇る気持であったというのに。兄貴分と言ってもいいお前であっても許さないぞ」
ああ、許さないね。しかし、私の怒りも次の瞬間、消え去った。
「その娘、領主の娘だそうだぞ」
何……だと……?
「ジン、それはマジか?」
「マジみたいだぞ」
嘘だと言ってよ……、お願いだから。
私は血の気が引いていくのを感じた。ヤバいよ。ヤバいよ、これは。お先真っ暗ってやつだよ。どうしよう、動揺。
レムリア辺境領の領主と言えば、オーガスト・ダーレス卿だ。名前は今までも何度も聞いた事がある。先の大戦で大活躍された方だ、確か。もっとも、そんな事はどうでもいい。過去の英雄だろうがなんだろうが、私には関係ない。
オーガスト・ダーレス。その名は確か、団長からよく聞く名だ。そう、団長のかつての友で、今でも親交があるそうだ。それ故、今回仕事の間は領主の館に泊めてもらえる事が出来るのだ。
だが、大事なのは団長の友人であるかどうかではない。彼もまた、団長と同種類の人間だという事だ。つまり、嫁さんバカにして娘バカ。そんな彼の娘をずっと抱きしめていたなんて、殺されてしまうかもしれん。あわわ。どうすんべ?
結局、何事も解決することなく領主の館へ向かう事になった。
蜥蜴丸とゲーサンに別れを告げて(別れの挨拶なんてしたかな? 覚えていないぞ?)、各自馬に乗る。本当はアリスと一緒に馬に乗りたかったなあ。私の前に乗せるんだ、そう思っていた時間が私にもありましたよ、ええ。
でも、怖かったんだ、だから、諦めた。だって、今でも不機嫌なんだ。
「ねえ、アリスちゃん、機嫌治してよ。私が悪かったってば」
「怒っていませんよ」
怒っているようにしか見えないのは、私がまだ会った事も無い筈のダーレス卿を過剰に恐れているからだろうか?
「少年、助けてくれ。どうすればアリスちゃんの機嫌は直る?」
「放っておけば大丈夫ですよ」
おかしい、少年は私を助けてくれないようだ。
「ヤバイヤバイ、ダーレス卿に殺されるかもしれん」
割と本気でそう思う。ところで、割と本気って、どのくらいの本気度だろう?
「大丈夫ですよ。アリスを抱きしめていたのがジンさんだったら問答無用で殺されていたでしょうけどね」
「え、俺だったら殺されていたの? マジ?」
「娘バカなので。俺と、俺の育ての親のアルフレッドさん以外に親しい男などいませんよ。オーガストさんの娘バカをみんな知っているので、男は近づこうとすらしませんからね」
「蜥蜴丸は?」
「あいつに関しては、オーガストさんも諦めてますよ。何せ世界観が違いますからね。倫理観だって違いますよ」
蜥蜴丸に関してはアキヒコ少年も世界観が違う事を認めているらしい。
ああ、ヤバイヤバイ。まだ殺されてしまうかもしれないという恐怖感が拭えない。今の私を癒してくれるのはクリスだけだよ。左腕だけで抱えているクリスの喉元を撫でてやる。おお、目を細めるクリスの何と可愛い事よ。癒されるなあ。
そうして、クリスに癒されていたら、気が付けば領主の館に着いていた。いつの間に!?
二階建てのそこそこ大きな館だった。だが、少し古臭さを感じた。まあ、領主の館といえども、確かダーレス卿は先の大戦で評価されこの地方を任されるようになった一代貴族の筈だ。仕方ないのだろう。館も勝手に改装するわけにはいかないからな。
右手には少し小さい家。使用人の住居かもしれないな。そして、その奥には新しさを感じる厩舎。ここだけここ数年の間に作られたように感じる。私たちはアキヒコ少年に馬を預けて、屋敷の方へと歩いた。
玄関前ではメイド服の黒髪の少女が掃除をしていた。
「レティ、ただいま。例の古代遺跡調査の為に帝都騎士団の方が来てくれたよ。父さんを応接室まで連れて来て。私が案内しておくから」
アリスに声をかけられ、振り向いたメイド服の少女。アリスやアキヒコ少年と同年代だろう。
そして、ジンに肩をつかまれる私。
「かしこまりました。呼んできます」
「お願いね」
軽く会釈をするメイド服の少女に優しく微笑むアリス。いいなあ。
レティと呼ばれた少女が屋敷の中に姿を消したのを見てから、私はジンに声をかけた。
「いつまで私の肩をつかんでいるつもりだ、ジン?」
「お前が落ち着くまでだ。いくら可愛い子だからって抱きつこうとするな。俺が止めなかったら確実に抱きついていただろうが。既に数歩動いてたじゃないか」
私のその行動に気付いていたとは、流石は学生時代の相棒、兄貴分だな。
「面白い女性ですね、セリーナさんは」
面白い? 可愛いとか、美人だとか言われる方が嬉しいのだがな。
「にゃあ」
ん?
アリスに導かれて、応接室へと向かう。
案内された応接室は、普段しっかりと掃除がなされているのだろう。落ち着いた雰囲気の部屋だった。
ソファーに座って領主がやって来るのを待つ。
数分後、お茶を持ってレティがやって来た。まだぎこちない動きもあるが、うん、ドジッ娘メイドと言うワケではなさそうだ。なんか、残念。
そして、退出したレティと入れ替わるような形でオーガスト・ダーレス卿が応接室に姿を現した。
私を見てダーレス卿が微笑んだ。何故かな?
私もジンも立ち上がり、礼をする。ミスカトニック騎士養成校時代に叩きこまれた礼だ。もっとも、二人とも厳密には守っていないが。
「帝都騎士団三番隊組長セリーナ・ロックハートです。古代遺跡調査の立会人として派遣されました。よろしくお願いします」
「レムリア辺境領の領主をしているオーガスト・ダーレスだ。オーガストでもダーレスの方でも、好きな方で呼んでくれ。いや、君が来るとは聞いていたが、ふむ。久しぶりだね」
「久しぶり、ですか……、失礼ですが今までお会いした事があったでしょうか?」
少なくとも私にはないが。
「ああ、すまない。君の事はアイツの家に遊びに行った時に何度か見た事があってね。そう言えば、直接話をした事はなかったかな? まあいい、今回はよろしく頼むよ」
気が付けば右手が差し出されていた。いつの間に差し出されたのかさっぱり分からない。
だが、ここで変に行動を手間取るわけにもいかない。こちらもとりあえず右手をさしだし、握手を交わす。
そして、ダーレス卿は視線をジンに向ける。
「君は? 帝都騎士団の人間ではなさそうだが」
「セリーナの騎士養成校時代の同期で現在は冒険者をやっているジン・トリスタンと申します。古代遺跡調査の話を受けてこちらに向かっている途中にセリーナと再会しましてね。で、セリーナの奴がこちらに泊めてもらうという事を話していたので、俺もタダで泊めてもらえないかなと思いまして、くっついてきた次第ですよ」
凄いなコイツは。どうしたら、目上の人間にしかも初対面でそこまでフランクに声をかける事が出来るんだ?
「君があの“豪剣のトリスタン”か。これはまた凄く名の売れた冒険者が来たな。そうか、部屋はいくらでも余っているからな、後でアキヒコに案内させよう。何、アリスに手を出さなければ、何の問題もないよ」
アリスに手を出せば殺すぞ、言葉にはしないがそう言われた気がした。何だろう、ジンに向かってそう言っているのに、私に向けて言われたように感じた。ヤバイな、アリス抱き枕計画が……。
知らず知らずのうちに左腕に力が込められたようだ。
「にゃあ」
ん?
「では、詳しい事は夕食の時にでも話そう。まあ、特別重要な事を話すわけではない。そうだな、君たちの歓迎会みたいなものだとでも思ってくれ。堅苦しい場ではないから、気負う必要はないよ」
ではまた夕食の時に、と言い残してダーレス卿は応接室を出ていった。しかし、隙がないな。団長の友人というだけあって、強さは簡単には測れないな。
このレムリア辺境領、恐ろしいのが多くないか? ダーレス卿もそうだが、アキヒコ少年にアリス。私が十五歳くらいの時、今の彼らほど強かったかな? そして、レティはおそらく魔道士としての素質があるな。まだ、本格的に修行などはしていなさそうだが。ゲーサンはうーん、よく分からんが、強い。私など足元にも及ばないかもしれん。蜥蜴丸は全く分からん。
「客室に案内しますよ」
今まで客室の掃除でもしていたのだろうか、アキヒコ少年が応接室に顔を出した。
そして、私を見て固まった。
「セリーナさん、凄いですね。よくそんな事が出来ますね」
何が凄いのだろうか? 私が何をしていたというのだ?
「クリス、凄く気持ちよさそうに寝ていますね。きっと、オーガストさんと話をしていた間もずっと抱きかかえていたんですね」
その時、私はようやく自分の左腕が曲げられたままだという事実に気付いた。そう言えば挨拶の間も左腕を伸ばした記憶がない。
そして、曲げられた左腕の中で丸くなって寝息を立てているクリスがいた。
「ジン、アリスちゃん、気付いていたのか?」
私は二人に声をかけた。ずっと、同室にいた二人が気付かないなんてありえない。
「そりゃ気付くよ、気付かない方がバカじゃないか」
「すごく気に入ったんですね、クリスの事。父さんも部屋に入ってきた時、つい微笑んでいましたよ」
どうやら、二人とも気付いていて放置したらしい。
「何で、教えてくれなかった?」
二人とも目をそらしやがった。ジンなど口笛を吹き出しやがった。こいつら……ッ!!
「目をそらすな!! 何で、教えてくれなかったんだ!?」
ちょっと口調を強くしてみた。
「「だって、その方が面白そうだったから」」
ハモりやがって!!
顔を合わせて拳をぶつけ合う二人。私をからかうのがそんなに楽しいのか!?
「お、お前ら……」
私の方を見て不思議そうな表情をする二人。ついでにアキヒコ少年。
畜生、私を罠にはめやがったな? これから何かある度に私をからかうつもりだな!?
「お、お前ら、やぁってくれたなぁ!?」
私の叫びが虚しく屋敷中に響き渡ったそうだ。