稲葉 直樹②
すでに須貝から部誌製作の促されたあの日から、一週間が過ぎていた。稲葉は五枚目の原稿まで書いたところで、今まで書いた原稿を全て丸めてゴミ箱に捨てた。
「……駄目だ。こんな出来じゃ、また、佐賀に何て言われるか……」
もう何度、佐賀を気にして原稿をやり直したかわからない。そろそろ文化祭も近い。早く部誌に載せられるような小説を書かなければならないのは稲葉も重々承知だったが、何度小説を書いても佐賀が脳裏をよぎる。稲葉の中の彼女が言う。
「そんな出来で、よく部誌に載せられますね」――――
その佐賀は最初の二、三日で小説を書き終えて、今は倉橋の小説を読みながら、倉橋と何やら談笑していた。稲葉も佐賀の小説を読んでみたが、人の小説を批評するだけの文才はたしかに溢れ出る程にあると思った。しかし、内容はそこまで評価できるものだろうか。ジャンルは、と聞かれれば“推理小説”かもしれないが、あれは果たして本当にそう呼んでもいいシロモノだろうか。読んでいる最中は先の展開が気になって仕方がなく、自分の原稿を書くのも忘れて(どうせ書けなかったのだが)読み進めた。不可解なのは終わり方だ。佐賀の小説は、最後まで犯人がわからない上に事件は解決しなかった。
佐賀が小説を書き上げた時の倉橋と佐賀の会話が蘇る―――
「あれ?」
倉橋は首を傾げながら、原稿用紙をめくったり戻したり、重なっていないか確かめたりしていた。
「これで終わりなのか?」
「うん、おしまい」
あっさりと佐賀は言い放った。
「事件はどうなるんだ? 犯人は?」
「最後、モノローグがあったでしょ。犯人の」
「あれだけじゃ誰が犯人なのかわからないし・・・。っていうか、あのモノローグで終わりなのか?」
ラストのモノローグは、犯人によるものだった。それも名探偵や刑事を完全に出し抜いた事に対する悦びのモノローグだった。そこから先の続きがないという事は、真犯人の完全勝利を意味する事になる。その上、それが誰なのかさえも読者にはわからない。事件は迷宮入り。ミステリーにおける約束事と言うべきだろうか。“事件は必ず解決する”という大前提を覆す小説だった。普段あんなに小説にうるさい佐賀が、こんな約束破りの小説を書く事は想像もしていなかった。
「ミステリーの読者は安心しながら読んでるんだよ。 『自分は大して真面目に考えなくても、最後には絶対に名探偵が事件を解決して真犯人を明らかにしてくる』って。それを裏切ってみたわけ」
「じゃ、考えれば犯人はわかるのか?」
「さあ……それはどうかな」
佐賀はやけに楽しそうだった。稲葉から見てもわかる。“事件は解決する”というのはミステリーでも最低限のルールではないのか。そのルールを完全無視したものを、ミステリーと呼んでもいいのだろうか。
「もうね、最後にびっくり仰天のどんでん返しがある、っていう事さえもがありきたりな世の中なの。どんでん返しがありきたりってのも妙だけどさ。でも、読者も読む前からどんでん返しを期待して読むようになってるじゃん? そんなのはもはや、どんでん返しじゃないんだよ」
「理屈はわからないでもないけどな」
「本当のどんでん返しっていうのは、読者を裏切るもんだよ。だからこうした」
佐賀はくつくつと笑い、そう言った。佐賀は本当に楽しそうに見えた。この推理小説のルールを完全無視したものを部誌に載せる事に何の抵抗もなかった。
稲葉は再び、自分の原稿に目を落とす。白紙だ。稲葉には佐賀のように自由に小説を書ける神経が理解できなかった。佐賀の小説はいかにも反感を買いそうな内容だ。佐賀はそんなものを部誌に載せて、怖くないのだろうか。稲葉が見る限りそんな様子は全くない。それが羨ましかった。今の稲葉には、何を書いても読者の反応が怖かった。
「調子はどうですか、部長」
突然、肩を叩かれた。佐賀だった。さっきまでは倉橋と談笑していたのに、いつの間にこっちに来たのだろう。
「あ、まだ白紙じゃないっすか。らしくありませんよ部長」
「嫌味か?」
「まさか。でも、そろそろ書き上げないと須貝がうるさいですよ」
「スランプだよ」
「スランプですか?」
お前のせいでな、という科白を飲み込む。
「何を書いても、読者から反感を買いそうな気がしてな」
正確には「読者から」ではなく「佐賀から」だったが、本人に直接言うのは稲葉の最低限の尊厳が許さなかった。佐賀は、けたけたと笑うと言った。
「わかってませんね、部長。それはスランプじゃないですよ」
「何だって?」
「スランプっていうのは、自分が納得いくものが書けなくなる事をいうんです。読者から反感を買おうが自分が納得いくものが書ければ、それはスランプじゃない」
「自分が納得のいくもの?」
「部長。周りがどう思うかなんて考えてたら小説なんか一生書けませんよ」
その自信はいったいどこから来るのだろう。稲葉は前々からずっと思い続けてきた疑問を口にする。
「お前は怖くないのか?」
「何と言われようが、私の小説は、私の小説です。気にする方がナンセンスだと思いません?」
さんざん人の小説を批評する女が何を言っているのだろうと稲葉は思った。だが、佐賀の目には確かな信念があるように思えた。本気で言っている。ふっ、と薄く笑うと稲葉は言った。
「まあ、何とかして期日までには間に合わせる。期待して待っとけ」
「楽しみにしてますよ、部長」
そうは言ってみても、やはり簡単には書く事が出来ない。今までは人から絶賛されるのが当たり前だと思って書いていたから書けていたのだろうか。人から批判させる可能性を考えるだけで、ペンを持つ手が震えた。怖い、書けない。何を言われるのか、わからない。そう思う自分がいる反面、佐賀の事を小説で見返してやりたいという野心に駆られている自分もいる。
とりあえず書いてみるしかないか、と稲葉は思う。自分なりでいい。稲葉流の小説を、書くのだ。
*
とりあえず形だけ完成したのは、それから三日後の事だった。書いている間は、他の事は考えられなかった。それほど、ただひたすらに書き続けた。一日に二時間弱しか眠っていないかもしれなかった。人間一回やろうと決めたら多少の無理は通るものだ。出来上がったものを、読み返してみる。稲葉としては、納得がいく最高の小説が書けたと思った。あくまでも、自分としては。
それでも、と稲葉は思う。これを他人が読んだらいったいどう思われるのか。楽しみでもあり、怖くもある。今のところは、3:7くらいの割合で怖さが上回っていた。読んだ人が、佐賀のような批評家かもしれない。自分とは格が違う程の文才を持つ人に鼻で笑われるかもしれない。そう思うと、また自分で書いた原稿を破り捨てたい衝動に襲われた。
「何と言われようが自分の小説は自分の小説だ」と佐賀は言うが、稲葉にはやはり無理かもしれなかった。今度辛辣な評価を受けたらもう立ち直れないかもしれない。そうなるよりは――
稲葉は原稿の束にまとめて手をかける。もう片方の手で、力の限り原稿を引き裂こうとした。が、原稿はふわりと浮いて、稲葉の手から離れた。
「お、やっと書き上げたねー。久々に読ませてもらおうかな!」
稲葉の手から原稿を持ち去ったのは鈴木真琴だった。一心不乱に小説を書き進めていたせいで気がつかなかったが、どうやらいつの間にか部室に来ていたようだった。
「お、おい!」
稲葉は真琴の手から原稿を奪い返そうとするが、流石は剣道部というべきか、軽いフットワークでするりするりとかわされる。普段は冗談でやっているやり取りも今回は本気だ。
「何、書き上げたんじゃないの?」
「違う! それは……」
「お。これはまた、直樹らしい導入だねー」
真琴は稲葉の弁解などは聞きもせず、小説を読みふけっている。まだ、自分以外の人間に読ませる決心がつかなかった原稿なのだ。返せと言っても返す気配はないし、稲葉が本気で奪い返そうとしたところで真琴も本気で避けたら絶対に返ってこない。
稲葉は、こうなったら腹をくくって真琴に小説を読ませる事にした。
真琴が黙々と小説を読み終えた。それほどの長さがある小説でもない。読む終えるのにはせいぜい三十分程度だっただろうが、稲葉にとっては何時間にも感じられた。
「なーんだ」と、真琴が読み終えた原稿を机に置き、溜息をつく。
「最近全然書いてないから、どうしたもんかと思ったけど。やっぱり直樹らしい、いい小説じゃん」
「そうかな」
「まあさ。私は文才も読解力もないし、普段から本、読み慣れてるわけでもないから実際これが良い小説なのかはわかんないんだけどね」
やはりそうだろうな、と稲葉は思った。それに真琴は優しい奴だ。たとえ、全く面白くない小説を読まされても稲葉のために「面白い」と言いそうだ。正直な感想を他の読者に言われたら、どうすればいいだろう。
「でも」と、稲葉が悩んでいるのを遮るように真琴は言った。
「私は、この小説が他の人にどう言われようと、大好きだからね」
いつか、どこかで聞いたようなフレーズだと稲葉は記憶の糸を探る。稲葉は、真っ暗なトンネルの中に明るい光を見つけたような感覚に襲われた。出口だ。今まで、そこを出た先に何が待っているのかが怖くて仕方がなかった。あの出口なら大丈夫だ。たとえ誰がどう言おうと、真琴が待っていてくれる。
自分が言われてみると、こんなにも救われる言葉だったとはなと稲葉は自嘲地味に思う。
他の誰がどう思おうと、知ったことではなかった。佐賀だろうが、倉橋だろうが、漫画研究部員だろうが、そんな事は稲葉の中では関係なくなっていた。
これからは、真琴のために小説を書こう。それでいいじゃないか―――