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鈴木 真琴

 時計を見ると、まだ午後六時五分前だった。いつもより早く稽古が終わった。これなら文芸部に行ってもまだ人がいるかもしれないと思った。普段なら稽古時間はもっと長い。顧問の先生の機嫌次第で短くなったり長くなったりする事はあるものの、たいていの日は稽古が終わる時間は七時過ぎだった。そういえば、顧問の先生が学生時代の剣道仲間と会う約束をしているため早く帰ると言っていたのを鈴木真琴すずきまことは思い出した。


「あれ? 真琴、今日は何でそんなに急いで着替えてるの?」


 と、声をかけてきた女子部員は鈴木とは違い、見ているだけでいらいらする程スローペース着替えている。稽古が終わって気が抜けているのだろうなと鈴木は思った。鈴木も普段はこの女子部員と同じペースでのろのろと着替えていた。他の学校の剣道部では、稽古が終わった後の着替えや掃除や片付けまでテキパキする事を強いられる所もあるらしいが、ここがそうでなくて安心した。正直、死ぬ思いで稽古をやった後に着替えや片付けにまで気力を降り注げる自信がなかった。とはいえ、今日は急いだ方がいい。のんびりしていたら、久々に文芸部に顔を出せる機会を失ってしまう。


「今日は文芸部にも顔出しとこうと思ってさ。だから悪いんだけど、私、したくが終わったらすぐ文芸部に行きたいから……」

「オッケー。私が代わりに一年に掃除させとくよ」


 言い終える前に、彼女は鈴木が言いたかった事をわかってくれた。面をつけて轟音が鳴り響く中で一緒に稽古しているだけはの事はある。そういう場で共に稽古をしていると、相手が“一”話したら、そこから“十”の情報を読み取るぐらいの意識で話を聞いていないと置いていかれる。道場の掃除は一年の仕事で、それを監督するのが二年の仕事だった。

 鈴木は掃除の監督を彼女に任せると挨拶もそこそこに、道場を後にした。携帯で時刻を確認する。六時五分。文芸部の部長である直樹なおきや、「そろそろ帰ろうか」と声をかけなければ死ぬまで小説を読み続けるであろう佐賀さがなら、まだ部室に残っている可能性はある。道場がある校舎の二階まで駆け上がり、階段のすぐ傍の渡り廊下を駆け抜ける。部室にはまだ電気がついていた。少なくとも直樹なら残っているという事だ。部室の戸締りは部長の彼がする事だし、鈴木から見てもしっかり者の彼が電気を消し忘れる事は考えにくい。

 部室に入ると、まだみんな残っていた。もっとも鈴木が文芸部に顔を出せる事は多くないので、“みんな”と言っても文芸部員全員の事を把握しているわけではなかったのだが、それでも鈴木が知っている限りの文芸部員は全員いた。時計を見ると、六時七分。あれ、どうしたんろうと鈴木は思った。剣道部としては早い時間だったが、文芸部はそろそろ帰路につく部員も多い時間帯だった。それに、全員入ってきた鈴木には目もくれず、必死に原稿用紙に何かを書いている。声もかけ辛いし、おろおろしていた鈴木に最初に気がついたのは、直樹だった。


「お、今日は早いな」

「うん。顧問の先生が今日は用事があるって」

「そうか、ちょうど良かった。真琴も書いてくれよ。今、部誌に載せる小説をみんな書いてる所だから」

「部誌?」

「何だ。知らないのか」


 鈴木は二年生だが、文芸部に入部したのは今年からだった。無理もないか、と直樹が部誌に関する簡単な説明をしてくれた。言われてみれば、去年の文化祭で図書室や文芸部室で何かを売っていたような記憶が鈴木の中にもあった。要するに部員はひとりひとつ小説を書けという事らしい。鈴木はそういった経験がほとんど無かったのでげんなりしたが、久しぶりに直樹が書いた小説が読めると思うと嬉しくもあった。直樹はここしばらく、全く小説を書いていなかった。その原因はおそらく佐賀奈美子だろう。





 鈴木が文芸部に入部したのは、今年の四月の事だった。一年生の頃から剣道部に所属していた鈴木が文芸部にも掛け持ちで入る事になったのは直樹に誘われたからだった。昔から家の中で本を読むよりは外で運動する事の方が好きだった鈴木だが、何故か彼女とは打って変わってインドア派な直樹と馬が合った。一年生の時に同じクラスだっただけだが、誰よりも会話した時間は長いかもしれない。


「文芸部って言ってもさ。何をすればいいわけ?」

「文学に関する事なら何でもいい。本を読んでもいいし、自分で小説を書いてみてもいい。まあ、主な活動はその二つだけどな」

「うーん。普段あんまり本とか読まないからなあ。書く方は、もっと自信ないし」

「そうだろうと思って誘ったんだ。真琴、読まなさそうだしな」

「む。失礼だなあ」

「あんまり本も読まずに剣道ばっかりしてると、脳まで筋肉になるぞ」


 そんな冗談を言いながら、二人は笑い合った。こうして他愛も無い事で直樹と笑い合う時間が、鈴木にとっては幸せで、大切だった。


「あ、じゃあ直樹が書いた小説もあるんだ?」

「あるよ。自慢じゃないけど、部内では評判もいいよ。ネットに載せたときの反響も良かったし」

「それ、思いっきり自慢だから」

「あー。じゃあ、自慢って事で」

「まあいいや。読ましてよ、私にもさ」

「普段本を読まない真琴に、おれの小説を読める程の読解力があるかなあ」

「うるさいなあ、いいから読ませてってば!」


 と、直樹の小説を奪い取って読む。もちろん直樹もはじめから鈴木に読ませる気だっただろうし、鈴木にもそれはわかっていた。わかっていても、こういうやり取りは意味も無く心地よいものだ。少なくとも鈴木には心地よく感じられた。

 小説を読んだ鈴木の率直な感想としては、「感動した」だった。小説の内容にも感動したし、こんな素晴らしいものを同級生で書いている人がいるという事実にも感動していた。小説の内容は、不治の病にかかったヒロインが主人公と恋に落ちて、残り少ない人生を精一杯生きるという、いわゆるありがちな悲劇の物語だったが、それでも鈴木は読み終えた後は涙が止まらなかった程心を打たれていた。


「凄い。凄いよ、これ。何て言うべきかな、凄い。感動した」

「お前、もうちょっとボキャブラリー増やした方がいいぞ」


 などと直樹は茶化してきたが、鈴木には本当にそれ以外の言葉が出てこなかった。


「いや、本当に感動しました。まさか、こんなのを直樹が書いていたとは」

「大した事じゃないけどな。真琴は普段から本読んでないから免疫がないんだよ」


 一応謙遜のポーズはとってはいたものの、内心は相当嬉しいんだろうな、と鈴木は思った。たった一年の付き合いだが、鈴木には顔を見れば直樹の本当の気持ちくらいわかるくらいに直樹の事を理解していた。顔に内心が出やすいのだ。だから、直樹は小説に関しては相当プライドが高いのだろうという事も、鈴木にはわかった。直樹の目には、小説を書く事には絶対の自信があるように感じられた。

 だからこそ、あの佐賀奈美子という一年生の言葉に受けたショックは大きかったのかもしれない。


 佐賀が入部してきたのはそれから一ヵ月後程の事だった。佐賀は入部するなり、部室に置いてある小説という小説を読みつくしていた。入部後一週間足らずで部室の本棚にある小説は全て読了させていただろう。世の中は広いものだ、と鈴木は思った。自分は直樹ほどの読者家を他には知らず、直樹ほど本を読み漁っている人間などこの学校にはいないだろうと思っていたのに、上には上がいるものだ。直樹も自分と肩を並べる程の読書家が入部してくれて、嬉しかったのかもしれない。直樹は部にある小説を一通り読み尽くした佐賀に、自分が小説を書いているという事を教えていた。部にある小説全部読み終わって暇ならどうだ、という風に。そして佐賀は、直樹の小説を読んだ。


「流石ですね、先輩。この文章力、表現力は一朝一夕に身につくものじゃないと思いますよ」

「大した事じゃないさ」

「いや、大したものです。どこに出しても恥ずかしくない一級品ですよ」


 褒められて悪い気はしないのだろう。直樹の表情は誇らしげだった。


「でも」と、前置きしてから佐賀は言った。


「ストーリーは正直言って陳腐ですよね、これは」

「そうかな。そうかもな」

「何て言いますかね。ありがちな“不治の病もの”じゃないっすか?」

「……うん、そうかもしれん」

「正直好きにはなれませんねー。私は」


 はじめは笑ってやりすごしていた直樹の表情は、どんどん引きつっていった。


「まあ、人の好みは人それぞれだし」と言う直樹の声には全く余裕が感じられなかった。


「便利ですよね、不治の病ものって。とりあえず最後に主人公なりヒロインなりを死なせておけば涙は誘えるし。読者も勘違いしちゃうんですよね、悲しい話を読んで涙流して、『ああ、感動した』って」

「…………」

「でも、ただ悲しいだけの話と心を打たれる話っていうのは似ている様で全くの別物で、どっちにしろ泣かせる事には変わりないから、そう思っちゃうわけですよね」

「おい」

「人を感動させるのは難しいけど、人を泣かせるのは思ったより簡単だったりするんですね。最近やたら『涙なしには見られない感動の~』とか『涙の感動物語~』みたいなキャッチコピーありますよね。いわゆる流行ですよ。人を泣かせて『感動したでしょ?』ってのが流行ってるわけです」

「おい、いい加減にしろよ」

「私は無理なんですよね、そういう話で泣くのは。だって考えてもみて下さいよ。その話、考えている人は健康そのものなんですよ? 健康な人が、勝手に不治の病にかかった人の事を想像して書いてるにすぎないんです。その上、たいていは健康な人が読むように考えて書かれる。本当に不治の病にかかってる人がこの世にいるなんて微塵も考えてはいないんでしょうね。私は、本当に不治の病にかかっている人がいるんだと思うと絶対泣けないなあ。だってほら、現実には不治の病にかかった人に都合よく恋人ができる事の方が少ないでしょう?」


 直樹が机を叩いて叫ぶ。


「もういい、やめろ!」


 直樹は佐賀から原稿を奪い返すと、自分の鞄に押し込んでしまった。


「やだなあ先輩。そんな真に受ける事ないですよ。所詮は後輩の戯言っすから。次回作、期待してますよ」

「皮肉か?」

「皮肉じゃないっすよー。ただ、書きたいのならどうぞってだけでね――」

「いいからもう黙ってくれ」


 佐賀の物言いは直樹の神経を余計に逆撫でした様で、もう目も合わせなくなった。よほどショックだったのだろう。直樹があれほどショックを受けるという事はおそらく、佐賀の言っている事が的外れとも言い切れなかったからなのだろう。それだけにショックは、やはり大きい。それからは、鈴木がどんなに直樹の小説が読みたいと言っても、書く事は無くなった。

前回は二話完結でしたが、今回はもう少し続きます。

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