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第9話 城の古い女たち

 古い家には、古い理がある。


 それは書きつけに残るものばかりではない。誰がどの廊下を先に通るか、どの襖の前でどれだけ頭を下げるか、どの言葉を口にしてよく、どの言い回しを慎むべきか。そうした細々とした作法の中に、その家が長く守ってきた順と誇りが染みついている。


 伊達家の奥向きにも、そういう理を身にまとった女たちがいた。


 若い侍女がいくら忙しく立ち働こうと、最上から来た者たちがいかに義姫の側を固めようと、ふとした瞬間に場の空気を握り返す女たち。代々この家の内側を見てきた、城の古い女たちである。


 その日、御子の寝所にほど近い控えの間には、そうした老女たちが集まっていた。


 外は雪が深い。障子越しの光は白く鈍く、庭木の枝も石も、みな雪を載せて輪郭を失っている。だが部屋の中には火鉢が置かれ、湯の気が漂い、女たちの低い声が静かに重なっていた。


 おきぬはその場の空気がいつもと違うことを、部屋へ入る前から感じ取っていた。声は荒くない。むしろ穏やかですらある。だが、その穏やかさの底にあるものが冷たい。こういう場では、誰も怒鳴らない。その代わり、一つの言葉の選び方だけで人を廊下まで押し返すことがある。


 部屋の上座には、伊達家譜代の老女たちがいた。


 若い者から見れば、誰も彼も似たような年嵩に見える。だが、よく見れば違いは明らかだった。髪のまとめ方、膝の折り方、口を開く前の間合い。どれにも、自分たちはこの城の奥を知っているという静かな自負が宿っている。


 その一人が、湯呑みを手にしたまま言った。


「若君様のこと、まことにめでたきことでございます」


 言葉そのものは祝いである。

 けれどそのあとに続いた声は、祝いだけでは終わらなかった。


「されど、めでたいというだけで済まぬのも、また大名家の若君様でございますね」


 誰に向けたともなく置かれた言葉だったが、そこにいる者は皆、その先を待った。


「義姫様がお産みになった御子様にございます。そこに異論のある者などおりませぬ」


 別の老女が、ゆるやかに話を継ぐ。


「されど同時に、伊達の御子様でもあられる。ならば、伊達の手でもお育て申し上げるのが道というものでございましょう」


 おきぬは息をひそめた。

 表立って義姫に逆らっているわけではない。

 むしろ立てている。

 そのうえで、「最上から来た者たちだけで御子を囲むのは違う」と言っているのだ。


 部屋の少し下がったところには、義姫付きの年長の侍女たちも座していた。彼女たちは顔色を変えない。だが、その沈黙がそのまま納得を意味しないことは明らかだった。


 片倉喜多は、そのちょうど中ほどにいた。


 どちらの顔も立てねばならぬ場所。

 だが、どちらにも呑まれてはならぬ場所。


 喜多は膝の上に手を置き、老女たちの言葉を静かに聞いていた。表情は動かない。けれど、その沈黙には考えている者の重みがあった。


 やがて、一番年長と思しき老女が、喜多へ視線を向けた。


「喜多殿は、いかがお考えかな」


 問いかけは穏やかである。

 だが、返しを間違えればその場で立ち位置が定まる問いだった。


 喜多は深くも浅くもない礼をして答えた。


「一理あることと存じます」


 その一言に、義姫付きの侍女の一人がわずかに目を細めた。

 老女たちは顔には出さぬが、続く言葉を待っている。


「若君様は伊達の御子様にございます。ゆえに、伊達の内を知る方々の手もまた、必要にございましょう」


 そこまでは、老女たちの理に沿っている。

 だが喜多は、すぐに言葉を継いだ。


「ならばなおさら、軽い手出しは禁ずべきかと」


 部屋の空気が、すっと細くなった。


「軽い手出し、とは」


 老女の一人が低く問う。


「善意の顔をした余計な出入りも含みます」


 喜多は声を変えなかった。


「若君様を思う心があること、それ自体はありがたきことにございます。されど、思う心がそのまま近づいてよい理由になるなら、寝所はたちまち人で満ちましょう」


 老女は湯呑みを置いた。


「伊達の女たちを、余計な手と申されるか」


「申してはおりませぬ」


 喜多は即座に返した。


「最上よりお供した者であれ、伊達家譜代の者であれ、若君様のそばにあっては、まず余計を慎むべきと申しているのです」


 その答えに、おきぬは内心で小さく息をついた。

 片方に寄らない。

 だが曖昧にも逃げない。

 喜多の言葉は、柔らかいようでいて、どこにも抜け道を残していなかった。


 別の老女が、口元だけで笑った。


「上手いことを申される」


「上手い下手ではございませぬ」


「では、どういうことです」


 喜多は少しだけ顔を上げた。


「若君様をお守りするには、誰が近くにあるかより、誰を近づけすぎぬかが先と存じます」


 そこには、祝い膳の器の件も、寝所の香の違和感も、はっきりとは名指しされぬまま含まれていた。


 老女たちも、それを聞き漏らすほど鈍くはない。


「曖昧な話にございますな」


 一人が言う。


「曖昧にせねばならぬからでございます」


 喜多は答えた。


「まだ、誰が何をしたと定めるには足りませぬ。されど、足りぬから何もせぬ、では若君様のためになりませぬ」


 義姫付きの年長の侍女が、そこで初めて口を開いた。


「姫様もまた、御子様のそばを軽々しくいたしたくないとお考えです」


 その言葉には、老女たちへの牽制があった。

 「義姫が警戒しているのだ」と持ち出せば、伊達譜代の女たちも強くは押せない。


 だが老女も引かなかった。


「姫様のお考えはもっともにございます。されど、あまり最上筋ばかりで御子様のまわりを固めては、伊達の内が遠くなりましょう」


「遠くなりませぬ」


 年長の侍女が返す。


「姫様は伊達家の正室にございます」


「正室であられることと、伊達の古き手が必要なことは別にございます」


 言葉は丁寧だ。

 だが、ここまでくればもう十分にぶつかっている。


 おきぬは思った。女たちの争いは静かで怖い。刀を抜かぬ代わりに、相手の立つ畳をじわじわと削っていく。どちらも礼を失わぬからこそ、逃げ場がない。


 喜多は、その真ん中でようやく少し深く息をついた。


「申し上げてもよろしいでしょうか」


 誰も止めない。


「伊達の手で育てるべき、というお言葉には、わたくしも背くものではございませぬ」


 老女たちが少しだけ頷く。


「ですが、“伊達の手”とは何にございましょう」


 今度は老女たちが黙った。


 喜多は言葉を選びながら続ける。


「伊達の御子様にございますれば、伊達の作法も、伊達の内の理も、いずれお身に添ってまいりましょう。けれど、今はまだ生まれたばかり。まず要るのは、家の理より先に、熱を見、乳を見、眠りを守る手にございます」


 それはあまりに当たり前の話だった。

 当たり前であるがゆえに、誰もすぐには返せなかった。


「その役を果たす者が、最上の者か伊達の者か――そればかりを先に争えば、若君様ご自身が置いていかれます」


 部屋は静まり返った。


 喜多は、ようやくここで自分の立ち位置をはっきりさせたのだった。

 最上側の道具でもない。

 伊達譜代の老女たちに従うだけでもない。

 まず御子の側に立つ者として話している。


 おきぬはそれを聞きながら、胸の内で「なるほど」と思った。だから喜多は怖いのだ。誰か一人の味方でいようとしない。若君の安全と養育という理を前に置き、その下でしか人の顔を見ようとしない。


 老女の一人が、しばらくしてから言った。


「つまり喜多殿は、自らがその役にもっともふさわしいと?」


 少し意地の悪い問いだった。

 義姫付きの侍女たちも、伊達の老女たちも、返しを待っている。


 喜多は目を伏せた。


「ふさわしいかどうかは、わたくしが申すことではございませぬ」


「では誰が決める」


「若君様に何が要るかを見て、決めるべきかと」


「赤子に、それが分かるものですか」


「赤子には分からずとも、そばの者には分かるよう努めねばなりませぬ」


 そこまで言われると、老女も軽くは崩せない。


 最年長の老女が、そのとき初めて小さく笑った。


「……なるほど。そなたは最上のために言うておるのでもなければ、伊達のためだけに言うておるのでもないのだな」


「若君様のために、と申せば、聞こえはよろしゅうございましょう」


 喜多の返しは少しも媚びなかった。


「されど、乳母とは本来そういう役にございます」


 老女はその言葉を聞いて、しばらく黙っていた。

 やがて、湯呑みへ伸ばした手を止めたまま言う。


「よいでしょう。軽い手出しは慎むべき、という理までは異論ございませぬ」


 表向きには、そこで話が収まった。


 だが、誰も完全に納得したわけではない。

 義姫付きの侍女たちは、伊達譜代の老女たちの圧がなお消えていないことを知っている。

 老女たちもまた、喜多が簡単には自分たちの側へ寄らぬことを知った。

 そのうえでなお、今日のところはここまでとするしかない。


 奥向きの会話とは、そういうふうに決着する。

 勝ち負けが明らかにつかぬまま、次の機会まで含みを残すのだ。


 話し合いが終わり、人が少しずつ散ったあと、おきぬは寝所へ戻る喜多の後ろを歩いた。廊下の外は白く、足を止めれば雪明かりが障子へ薄く映る。部屋へ入ると、火鉢の熱が頬へやわらかく当たった。


 寝台の中で、御子は眠っていた。


 まだ名もない。

 まだ自分のことで女たちが何を争っていたかも知るはずがない。

 それなのに、その小さな寝息のまわりだけが、城じゅうの理を引き寄せている。


 喜多は寝台の傍らへ座り、布の端を整えた。おきぬもその向こうからそっと顔をのぞく。


 そこへ、さきほどの老女の一人が、まだ部屋を出切らぬうちに、ふと足を止めた。


 振り返ったその顔には、先ほどまでの押し引きとは違う、少しだけ遠い目があった。御子を見つめ、その小さな顔をしばらく黙って眺める。


 誰も声をかけない。


 やがて老女は、ほとんど独り言のようにぽつりと言った。


「この子は、城を静かにせぬ顔をしておる」


 おきぬは思わず息を呑んだ。


 不吉なようにも聞こえる。

 だがどこか、期待のようにも聞こえる。

 乱れを呼ぶ顔、と言っているのか。

 それとも、ただ静まったままでは終わらぬ器だと言っているのか。


 老女自身、それをどちらのつもりで言ったのか、顔には出さなかった。


「おことばが過ぎます」


 義姫付きの侍女が低くたしなめる。

 だが老女は笑いもせず、ただ言った。


「過ぎたなら、お許しを」


 そして、そのまま静かに去っていった。


 あとには、火鉢の音と、御子の寝息だけが残る。


 おきぬはそっと喜多を見た。

 喜多は老女の言葉を否定もしなければ、肯定もしなかった。

 ただ、御子の額へ目を落とし、小さく布を直しただけである。


 城を静かにせぬ顔。


 その言葉は、部屋の中へ薄く残った。

 誰も受け取ったと口にはしない。

 だが、そこにいた者の胸には皆、何かしらの形で刺さっていた。


 御子は眠っている。

 何も知らぬ顔で、静かに息をしている。

 それなのに、古い女たちの目にまで、すでにこの子はただの赤子ではなく映り始めていた。


 米沢城の奥向きは、その夜も変わらず雪に包まれていた。

 だがその白い静けさの下で、まだ名を持たぬ若君をめぐる見えぬ波は、確かに少しずつ大きくなっていた。

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