第8話 最上の姫、伊達の奥に坐す
城の中にいても、他人の家にいる心地というものは消えない。
義姫は、ふとした折にそれを思い出す。
たとえば、廊下を渡る女たちの足音が、自分の生家で聞き慣れたものと微妙に違うとき。たとえば、湯の匂いに混じる薬草の配し方が最上の奥とは異なると気づくとき。たとえば、女房たちが「姫様」と呼ぶその声に、恭しさと同じだけ距離が含まれていると知るとき。
米沢城の奥向きにあって、義姫はまぎれもなく正室であった。
誰もそれを否定はしない。礼も尽くす。差し出される膳も、敷かれる布も、向けられる言葉も、正室にふさわしく整っている。
だが、整っていることと、気を許せることは違う。
義姫は枕にもたれたまま、静かに目を上げた。障子の外は白い。雪は昼になってもなお細かく降り続いているらしく、庭先の気配は柔らかくぼやけて見えた。火鉢の熱は部屋を十分に暖めていたが、その暖かさが胸の内まで届くわけではない。
産後の疲れはまだ深い。
起き上がっていられる時間は長くないし、腹の底には鈍い痛みが居座っている。それでも義姫は、寝てばかりはいられなかった。御子が生まれた以上、奥向きの空気がどう動くか、自分の目で見ておかねばならぬと思うからだ。
部屋の少し離れたところで、片倉喜多が御子を抱いていた。
抱き方に無駄がない。腕に力を入れすぎず、されど気を抜きもせず、御子の頭と背を自然に支えている。乳母として選ばれるだけのことはある、と義姫は思った。若い侍女たちが傍らで動くときも、喜多が一人いるだけで空気が少し整う。
気に入らぬわけではない。
むしろ、よい女だと認めてもいる。
だが、認めることと、気を許すことはまた別だった。
義姫は喜多を見つめながら、胸の内に小さな棘のようなものを覚える。
この女は、御子を抱く。
この女は、御子の泣き方を知る。
この女は、御子の眠りの浅さや、乳を欲しがる間合いを、自分より先に覚えていくかもしれない。
それは乳母である以上、当然のことだ。
当然のことなのに、どこか落ち着かぬ。
御子は自分の子だ。
それなのに、産後の体では、抱き続けることも、夜を徹してそばにいることもできない。誰かの手を借りねばならぬ。その現実が、義姫の胸に奇妙な焦りを残していた。
他人に囲まれ、勝手に育てられてよい存在ではない。
その思いが、日に日に強くなる。
「お加減はいかがにございますか」
年長の侍女が静かに声をかける。最上から従ってきた女で、義姫の機嫌の動きを読むのに長けた者だった。
「よいとは申せぬわ」
義姫は淡々と答える。
「されど、寝てばかりいればよくなるものでもない」
「御無理は禁物にございます」
「無理をせずに済む立場なら、最初から楽でしょうよ」
侍女はそれ以上、宥めるようなことを言わなかった。言っても無駄だと分かっているからである。
義姫は視線を喜多へ戻した。
喜多は御子を見ている。
それが乳母として当たり前の眼差しであることも、義姫には分かる。慈しみがあり、慎重さがあり、どこか観察するような冷静さもある。悪くない。むしろ、その冷静さがあるからこそ選んだのだ。
だが、その“よさ”がそのまま脅威にも見える。
人は、子を抱き、寝息を聞き、熱を測り、泣き声に応えるうちに、どうしても情を持つ。情は悪ではない。けれど、情が深まれば、いつしか「自分が育てている」という顔になる者も出る。
そうはさせぬ。
義姫は唇をわずかに引き結んだ。
御子は伊達家の次代である。
だがそれだけではない。
自分の腹を痛めて産んだ、自分の子でもある。
伊達の家がこの子を欲するのは分かる。最上もまた、この子の存在を軽くは見まい。ならばなおさら、この子が誰のものであるかは曖昧にしてはならない。
義姫の子であり、伊達の嫡男。
順が逆ではない。
どちらも真だ。
その二つを裂いてどちらか片方だけにされることを、義姫は何より嫌った。
ふいに、喜多が視線を上げた。義姫と目が合う。
「何か」
義姫が言うと、喜多は軽く頭を下げた。
「よくお眠りにございます」
「静かすぎるほどに?」
義姫の問いには、わずかな棘があった。以前、喜多や輝宗が御子の静けさについて口にしたことが耳に残っているのだ。
喜多は慎重に答えた。
「手のかからぬときほど、よく見るべきかと」
「つまり、見ているということね」
「はい」
それだけのやり取りだった。だが、義姫には十分だった。
喜多はよく見ている。
御子のことを、自分の役目として見ている。
それは望んだことでもある。だが、どこまで見せるべきか、どこから先は渡さぬべきか――その境を、義姫は自分で決めておかねばならない。
「喜多」
「は」
「この子を、どう見ている」
部屋の空気が少し張る。唐突な問いであった。
喜多はすぐには答えなかった。軽い褒め言葉で流してよい問いではないと知っているからだ。
「まだ、見定めるには早い御年にございます」
ややあって、そう返した。
「ですが……静かな子にございます。騒がぬぶん、見落とされぬようにせねばと存じます」
義姫はその答えを聞き、少しだけ目を細めた。
賢い返しだと思う。賢いがゆえに、なおさら気をつけねばとも思う。こういう女は、自分の言うべきことと、言うべきでないことをよく知っている。だから信を置ける。だからこそ、油断もならぬ。
「見落とされては困るわ」
義姫は低く言った。
「けれど、見すぎても困ることがある」
「心得ます」
「そうかしら」
義姫はそこで少し身体を起こしかけ、腹の痛みに眉をひそめた。侍女が慌てて支えに寄るが、義姫は手で制す。
「この子は、人に育てられる。乳母にも、侍女にも、いずれは傅役にも。けれど、誰かが勝手に“自分のもの”のような顔をするのは許さぬ」
喜多は御子を抱いたまま、深く頭を下げた。
「そのような心得違いはいたしませぬ」
「言葉だけなら、誰でもそう申す」
義姫の声は厳しかったが、怒りに任せたものではない。むしろ、自分自身にも言い聞かせているような響きがあった。
「人は、守っているうちに、いつしか抱え込む。抱え込んだものを、己のものと錯覚する。母でさえ、そうかもしれぬ」
最後の一言は、部屋の誰にも返しようがないほど静かだった。
義姫は、自分が何を恐れているのか分かっていた。
他人に取られること。
最上の娘として産んだ子が、伊達の理だけで動かされること。
逆に、自分の執着が強すぎて、この子の立つ場所を狭めること。
どちらも恐ろしい。
だから、余計に人を信じきれない。
正室でありながら、義姫には完全に心を預けられる場所がなかった。最上から来た侍女たちはいる。生家の空気を知る者たちだ。だが彼女たちとて、ここでは伊達の城の中を生きている。城そのものが最上になるわけではない。
伊達の女房たちは、表向き従順だ。
だが、その従順さの下に「最上から来た姫」を見ている目があることも、義姫は知っている。
自分が完全にこの城のものになれぬように、
この城もまた、完全には自分のものにはならない。
その事実が、御子を産んだ今、いっそう鮮明になっていた。
少しの沈黙のあと、喜多が口を開いた。
「姫様」
「何」
「御子様は、誰か一人のものとして育つわけではございますまい」
侍女たちがわずかに息を詰める。
勇気のいる言葉だった。
だが喜多は続けた。
「されど、誰の手にあっても、この子が姫様のお子であることは変わりませぬ」
義姫はその言葉を、しばらく黙って受けた。
慰めようとしているのか。
それとも、事実を述べただけなのか。
どちらにせよ、軽いおもねりではない。
「口の利きようは知っているのね」
義姫が言うと、喜多はわずかに目を伏せた。
「利きすぎたなら、お叱りを」
「まだ叱るほどではないわ」
義姫はそう言って、寝台のほうへ視線を向けた。
「こちらへ」
喜多はすぐに近づいた。御子を抱いたまま、義姫の枕元へ進む。義姫は腕を伸ばし、その小さな額へそっと指先を触れた。温かい。柔らかい。生きている者の熱だ。
自分の子。
その当たり前のことが、ときに夢のように遠く思えるのはなぜだろう。産んだのは自分なのに、今は喜多の腕の中にいる。見ていれば触れられるが、常に抱いてはいられぬ。それが悔しいのか、情けないのか、義姫には自分でも判じきれなかった。
「下がりなさい」
やがて義姫が言うと、侍女たちは一礼して、少しずつ部屋の後方へ退いた。喜多だけが、すぐ傍に残る。
義姫は手を伸ばした。
「寄越して」
喜多が静かに御子を渡す。産後の身には重くはない。むしろ軽すぎるほどだ。だがその軽さの中に、人の思惑はあまりにも多く詰まっている。
義姫は御子を抱いた。
小さな顔が胸元に近づき、かすかな乳の匂いが立つ。御子は起きかけたが、母の腕の中で少し身じろぎし、それからまた静かになった。
「おまえは」
義姫はごく小さな声で言った。
喜多にも、侍女たちにも聞かせるためではない。自分の胸の内を確かめるための声だった。
「伊達の子である前に、わたくしの子よ」
その言葉は、宣言であり、願いであり、どこか祈りにも似ていた。
誰のものにするのか。
そんな問いは、本来なら母の前に置くべきではない。
だが乱世の城では、問われる前から答えを持っていなければならぬ。
義姫は御子の頬へそっと顔を寄せた。小さな熱がある。その熱の頼りなさが、余計に守りたいという気持ちを強くする。
同時に、守るためには信じすぎてはならぬという思いもまた、胸の奥で育っていた。
喜多は少し離れたところで控え、何も言わずに待っている。
その沈黙がありがたいのか、恐ろしいのか、義姫にはまだ決められない。
ただ、この女は当分、御子のそばに置いておくしかない。
信を置くためではない。
信を置ききれぬからこそ、目の届く場所に置くのだ。
それが義姫のやり方だった。
しばらくして、御子が目をわずかに開けた。まだ何も分からぬはずの黒い瞳が、母の顔をぼんやりと映しているように見える。
義姫は、その小さな額へ唇を寄せることはしなかった。代わりに、ほとんど息に紛れるほどの低い声で囁いた。
「誰も信じるな、とまでは言わぬ」
御子は黙っている。
当然だ。意味など分かるはずもない。
けれど義姫は続けた。
「だが、信じすぎるな」
赤子への言葉としては、あまりに早い。
あまりに冷たい。
だが義姫にとっては、それこそが最もまっすぐな願いだった。
人は裏切る。
いや、裏切るというほどでなくとも、己の都合で動く。
味方も、親族も、家臣も、侍女も、乳母でさえ。
それを知らずに育つには、この子はあまりにも重い名を背負うことになる。
まだ名もないというのに。
義姫は御子を見つめたまま、しばらく動かなかった。
最上の姫として生まれ、伊達の奥に坐し、いまはこの子の母である。
そのどれも捨てられない。
だからこそ、優しいだけの母にも、従順なだけの正室にもなれぬ。
部屋の中は静かだった。
火鉢の炭がかすかに鳴り、障子の向こうでは雪が音もなく降り続いている。
その静けさの中で、義姫だけが、腕の中の小さな命へ向けて、乱世の心得を最初に教えていた。
まだ早すぎる言葉であることを、誰より彼女自身が知りながら。




