第7話 寝所に入ったのは誰か
人の出入りが多い場所ほど、足跡は残らぬ。
それが城というところであり、こと奥向きともなればなおさらだった。誰がいつ襖を開け、誰が盆を運び、誰が湯を替え、誰がただ一目だけ若君の顔を見ていったか――ひとつひとつを後から数え直そうとすると、かえって何も見えなくなる。
それでも、見ねばならぬときがある。
その朝も、米沢城の奥向きは静かに慌ただしかった。雪は夜のあいだにさらに積もり、庭の石も木も、すっかり白く丸くなっている。障子越しの光は弱く、部屋の中の温もりだけがかろうじて冬を押し返していた。
御子の寝所には、いつものように火鉢が置かれ、白い布が整えられ、湯気の名残と乳の匂いがこもっている。
けれど、その中に混じるごく細い違和感だけは、消えずに残っていた。
香である。
強く焚きしめた匂いではない。袖や髪にわずかに移ったものが、布や空気へかすめたような、ほんの薄い気配だ。鼻を近づけてようやく気づくほどの弱さで、気のせいだと言ってしまえばそれまでの程度でしかない。
だが、赤子の寝所に本来いらぬものがある。
それだけで、喜多には十分だった。
彼女は御子を抱いたまま、傍らに控えるおきぬへ目を向けた。
「今朝、この部屋へ入った者を、順に申してみなさい」
おきぬは背を正した。問いは穏やかだったが、曖昧な返しを許さぬ声音である。
「はい。まず、火鉢の炭を見に参った者が一人。次にお湯を替えに参った者が二人。それから……御子様のお包みを取り替えるために、わたくしが」
「その前は」
「夜番明けに、年長の侍女が一度」
「誰の差図で」
「喜多様のお名前を出しました」
喜多は黙ってうなずいた。
「ほかに、覗きに来た者は」
おきぬはわずかに迷った。
「……義姫様付きの侍女が、お加減を案じて一度。それと、廊下から御子様のお顔だけ見たいと申した者が一人おりました」
「通したの」
「中までは。ですが、すぐに返しました」
「布に触れたか」
「いえ、そこまでは」
「“そこまでは”とは、はっきりしない言い方です」
おきぬは肩をこわばらせた。
「申し訳ございません。わたくしが見ていたかぎりでは、触れておりませぬ」
「見ていたかぎり、ね」
喜多はそれきり追い詰めるようなことは言わなかった。若い侍女を責め立てても、縮こまって余計に肝心なところを見失わせるだけだと分かっている。
御子は喜多の腕の中で、静かに息をしていた。泣きもせず、眠りも浅くはない。むしろ、いつも通り落ち着いている。だからこそ、なおさら不気味だった。何かがあったのなら大きく騒げばまだよい。何も起きていないまま、しかし余計な手だけが忍び寄っている――そういう気配のほうが、よほど扱いにくい。
喜多は御子を寝台へ戻し、布を整えた。
「おきぬ」
「はい」
「香に気づいたのは、これで何度目」
「はっきりと覚えたのは二度にございます。初めは、ごくわずかに。今朝はもう少し分かりました」
「同じ匂いですか」
おきぬは目を伏せ、記憶を探るように答える。
「……似ております。甘いようでいて、きつくはなく、けれど寝所には要らぬ匂いで」
「そう」
喜多はそれだけ言って立ち上がった。
「このことは、大きな声で言いふらしてはなりません。まだ毒とも悪意とも定まりませぬ。騒げば、かえって余計なものまで動きます」
「はい」
「ただし、誰がいつ入ったかは曖昧にするな。見たことだけを覚えなさい。思ったことは後でよい」
おきぬは強くうなずいた。
喜多は部屋を出ると、廊下の冷えた空気の中を静かに歩いた。足音を立てぬよう、けれど急ぎすぎぬように。こういうとき、慌てた顔で動けば、それだけで余計な勘ぐりを呼ぶ。
まず話を通したのは、義姫付きの年長の侍女だった。
侍女は喜多の言葉を聞き終えても、すぐには顔色を変えなかった。さすがに長く奥向きを預かってきた女である。
「香、にございますか」
「はい。強いものではございませぬ」
「それなら、どこかの袖に残ったものが移っただけやもしれませぬね」
答えは早かった。早すぎるほどに。
喜多は相手の目を見た。
「そうであれば、それでようございます」
「では、騒ぎ立てることも」
「騒ぎ立てるつもりはありませぬ。ただ、御子様の寝所に要らぬものが入り込んでいるなら、知っておくべきと存じます」
年長の侍女は、そこで少しだけ言葉を選んだ。
「姫様はお疲れにございます。あまり細かなことまで耳に入れれば、御心労が増すばかりかと」
もっともな理屈だった。だが、もっともらしい理屈というのは、しばしば“いまは触れたくない”という本音を隠す。
「姫様のお耳へ入れるかどうかは、わたくし一存では決めませぬ」
喜多は穏やかに返した。
「ただ、曖昧なまま流せば、また同じことが起きましょう」
「同じこと、と言われましても」
「祝い膳の件もございます」
その一言で、侍女のまぶたがわずかに動いた。
やはり知っている。知らぬはずがない。祝いの膳に違和感のある器が混じっていたことは、表立たずとも奥向きの中では静かに共有されている。
「膳の件と、寝所の香を結びつけるのは早計では」
「結びつけてはおりませぬ」
喜多はあくまで低く言った。
「ただ、どちらも“余計な手”が入った可能性を捨てきれぬと見ております」
侍女は答えなかった。
義姫付きの者たちは、騒ぎを大きくしたくない。産後の義姫をこれ以上疲れさせたくないこともある。だがそれだけではない。余計なことが起きたと表へ漏れれば、義姫側の締め付けが甘いと思われかねない。そういう算段もまた、たしかにある。
喜多はそれを責めなかった。気持ちは分かる。分かるが、分かることと流すことは別だ。
次に話したのは、伊達家譜代の老女であった。
老女は香の話を聞くなり、顔をしかめた。
「曖昧にしてはなりませぬな」
予想どおりの反応だった。
「寝所に要らぬ匂いが二度も三度もするなど、気のせいでは済みますまい」
「まだ害があるとは限りませぬ」
「害が出てからでは遅うございます」
老女の声は低かったが、言い切りに迷いがない。
「最上筋の者であれ、伊達筋の者であれ、誰が入ったか洗うべきです」
それは正論である。だが、正論というものは時として、人を追い込みすぎる。喜多は老女の顔を見ながら思った。この女は“曖昧にするな”と言うが、その奥には「義姫付きの者だけでは締められぬだろう」という思いも混じっている。
伊達家側の老女たちにとっても、これはただの御子の安全だけの問題ではない。義姫側の手落ちを示す材料になるかもしれぬと、どこかで数えている。
結局のところ、同じ出来事を前にしても、見る位置が違えば意味も違う。
喜多はその両方を聞き終えたあと、改めて若い侍女たちを集めた。
おきぬのほか、湯を扱う者、布を運ぶ者、夜番の補助に入る者。皆、まだ年若く、顔には緊張が出やすい。
「誰か一人を疑ってかかるつもりはありませぬ」
喜多は先にそう言った。
「けれど、見たことまで曖昧にしてはなりません。誰が来た、何を持っていた、どこへ触れた。その順だけを申してみなさい」
若い侍女たちは、順に口を開いた。
「朝方、義姫様付きの侍女が一度」
「お湯を替えたあと、廊下から顔だけ見たいと申した者が」
「布を持ってきた女房が、枕元まで寄りました」
「寄っただけです」
「いえ、布の端へ手を……」
言うことが少しずつ食い違う。
それは嘘をついているからではない。同じ場を見ても、人は見たところしか覚えていないからだ。だからこそ厄介だった。
喜多は一つ一つを遮らずに聞いた。
誰が焦っているか。
誰が過剰に「見ていない」と強調するか。
誰が本当に覚えていないだけか。
その中の一人が、ついに言った。
「……女房の袖から、少し香った気がいたしました」
部屋が静まる。
喜多はすぐにはその名を問わなかった。
「どのような香り」
「甘いような……けれど濃くはなくて」
「寝所の匂いと同じか」
「同じ、とまでは……でも、似ていたように」
そこで別の侍女が口を挟む。
「それは誰の袖でもありうるでしょう。奥向きの方々は皆、わずかには香を移しておいでです」
「でも寝所には」
「だからといって、その女房が何かしたと決めるのは――」
喜多は手を軽く上げた。それだけで、若い侍女たちは口を閉ざす。
「決めはしませぬ」
その一言で十分だった。
「ただ、寝所へ持ち込むに要らぬものがあるなら、覚えておく。それだけです」
若い侍女たちの肩から、少しだけ力が抜けた。誰かを生け贄のように差し出さねばならぬと思えば、皆黙り込む。だが、見たことだけを出せと言われれば、まだ口を開ける。
喜多は内心で、ここまではよいと思った。
犯人探しではない。
それをしてしまえば、余計に口が閉ざされる。
必要なのは、まず“不用意な手”の入り方を知ることだ。
それから彼女は、寝所への出入りの順を一度紙に起こさせた。誰がいつ、何を持ち、どこまで入ったか。湯、布、火鉢、薬湯、見舞い、顔見せ。それを並べるだけでも、人の動きの多さに若い侍女たちは目を丸くした。
「こんなにも……」
おきぬが思わず漏らす。
「これでは、何か一つ混じっても分かりませぬ」
「分からぬからこそ、減らすのです」
喜多は静かに言った。
その日のうちに、義姫付きの者たちと伊達家側の老女たちとで、もう一度小さな話し合いが持たれた。
義姫付きの侍女は、やはり慎重だった。
「姫様のお耳へどこまで入れるかは、考えねばなりませぬ」
「ならば寝所の出入りを狭めるべきでしょうな」
伊達家側の老女が返す。
「曖昧なままで人だけ多いのでは、また同じことが起きます」
「だからといって、御子様のお世話に支障が出ては」
「支障が出ぬよう、役を限るのです」
応酬は静かだが、棘は隠れない。
喜多はその中で、どちらにも深く寄らぬよう言葉を置いた。
「害とまではまだ申せませぬ。されど、余計なものが入り込む余地があるのは確かにございます」
「余計なもの、とは」
「善意の顔をした手出しも含みます」
その言葉に、場の全員が一瞬だけ黙った。
善意――。
それは一番扱いが難しい。悪意なら禁じればよい。敵なら遠ざければよい。だが、“よかれと思って”の顔をした手は、本人にも悪気がないぶん始末が悪い。香も、薬湯も、布も、祝いの品も、そうした善意の名目でいくらでも近づいてくる。
だからこそ、最初に絞らねばならない。
話し合いの末、明確な証拠は何ひとつ出なかった。あの香が誰の袖から移ったのか、誰が意図して近づけたのか、毒気があるのかないのか。どれも断じきれない。
だが、何も分からぬから何もしない、というわけにはいかなかった。
喜多は最後に、部屋の者たちを見回して言った。
「犯人を立てることが肝ではありませぬ」
誰も口を挟まない。
「善意の形をした余計な手が、いちばん厄介にございます」
その声は強くはないのに、よく通った。
「これより、御子様の寝所へ入る者は限ります。乳母、夜番、湯と布を扱う者、そのほかは差図あるまで廊下まで。顔を見たいだけの者は通しませぬ。品もむやみに受け取りませぬ。香はなおのこと、要りませぬ」
義姫付きの侍女たちも、伊達家側の老女たちも、その結論には表立って反対しなかった。できなかった、と言うべきかもしれぬ。ここで異を唱えれば、「では、なぜ人を減らしたくないのか」と問われるだけだからだ。
おきぬはその場で、少しだけ胸を撫で下ろした。ようやく、何をすべきかが形になった気がしたからだ。曖昧なまま怯えているより、決まりがあるほうがまだましだった。
その夜、寝所はいつもより静かだった。
出入りが減れば、人の気配も減る。火鉢の音と御子の寝息だけが、部屋の温もりを支えている。けれどその静けさは、安心そのものではなかった。むしろ、何も定まらなかったことがそのまま残っている。
香は消えていない。
ただ、誰のものとも決まらなかっただけだ。
喜多は寝台の傍らで御子を見た。
白い布の中で、まだ名もない若君は静かに眠っている。周囲の大人たちがこれほど神経を尖らせていることなど、知るはずもない顔で。
それでも喜多は思う。
この子のまわりには、すでに祝福だけでは足りぬものが寄っている。
だからこそ、自分の役目は乳を与えるだけでは終わらぬのだと。
火鉢の炭が、かすかに音を立てた。
その微かな響きの中で、寝所への出入りを制限する最初の夜が、静かに始まっていた。




