第6話 名を持たぬ若君
名がないうちは、まだ何者でもない――と、そう言い切れれば話は早い。
けれど実際には、大名家の子というものは、名を持たぬうちからすでに何者かであった。
伊達輝宗の嫡男。
義姫が産んだ男子。
最上の血を引き、伊達の家を継ぐべき御子。
それだけで十分すぎるほど、人はその小さな命に意味を与える。まだ自分の名さえ知らぬ赤子のまわりで、すでに多くの者が「この子が誰であるか」を勝手に決め始めているのだ。
米沢城の奥向きでは、その微妙な差が呼び方に出ていた。
「御嫡男様は、今しがたお眠りになりました」
「御子様のお包みをお替えいたしましょう」
「若君のお乳は、次はいつごろに」
同じ赤子を指していても、口に乗る名は少しずつ違う。
御嫡男様、と呼ぶ者は、その立場を強く意識している。
御子様、とだけ言う者は、あえてそこまで言葉を大きくしない。
若君、と呼ぶ者もいるが、まだ正式な名もなく、祝いの手順も残るうちは、口にする側の覚悟が少し要る。
どれが正しいという話ではない。けれど、どの呼び方を選ぶかで、その者が御子の何を見ているかが透ける。
片倉喜多は、そうした小さな違いを聞きながら、御子を抱いていた。
部屋の中は暖かい。火鉢の炭は穏やかに赤く、障子越しの光は白く鈍い。外には雪が積もり、城全体は深い冬の中にあるというのに、この一角だけは乳の匂いと湯の気配で、別の季節を保っているようだった。
喜多の腕の中で、御子はよく眠っていた。
眠り方にも、子によって癖がある。抱かれたまま眠ることを好む子もいれば、布へ寝かせた途端に目を覚ます子もいる。乳を含む前に必ず泣く子、飲みながら眠り落ちる子、足をばたつかせる子、何をしても泣きやまぬ子。
だが、この御子は少し違った。
泣かぬわけではない。腹が減れば泣くし、身の置きどころが悪ければ眉を寄せる。赤子として不自然なほど静かというわけでもない。けれど、泣くべきときにだけ泣き、抱き方が変わればすぐに呼吸が整う。騒ぐというより、確かめているような間がある。
喜多は、その癖を覚え始めていた。
抱き上げたときの体のこわばり。
乳を求める前の口元の動き。
浅く眠っているときの指先のひらき方。
それらは、目の前の赤子がどういう子かを知るための、最初の手がかりである。
「ようお眠りにございますね」
少し離れたところで、おきぬが布をたたみながら言った。
「静かなうちがありがたいです」
喜多は答えながら、御子の頬をそっと見た。赤みは悪くない。熱もない。息も安定している。
「静かな子ほど、見ておかねばなりません」
「泣かぬから、でございますか」
「泣く子は、人が放っておきませぬ」
おきぬが手を止める。
「けれど、手のかからぬ子は、つい丈夫だと思われます」
喜多の声は低かったが、よく通った。
「丈夫かどうかと、手がかからぬかどうかは別です」
おきぬは小さくうなずいた。ここ数日で、彼女も少しずつ分かってきている。奥向きでは、可愛いとか、おとなしいとか、そうした柔らかな言葉だけで物を見ていては足りないのだと。
御子はまだ名を持たぬ。
だからこそ、人はそれぞれの立場で違う名を仮に与える。
大事な嫡男として見る者。
まだただの赤子として扱いたい者。
義姫が産んだ子として見る者。
伊達の跡継ぎとして見る者。
名前がないということは、空白であるようでいて、むしろ人の思惑が最も書き込みやすい時期なのかもしれぬ。
その日、奥向きでは名づけについてもささやかなざわめきがあった。
いつ、どの吉日に合わせるか。
僧を呼ぶか、祈祷はどのように行うか。
祝いの品はどこまで整えるか。
そうした話になると、最上より来た女たちと、伊達家に古くから仕える女たちのあいだに、また微妙な違いがにじんだ。
「姫様のお里では、こういう折には祈祷を先に――」
「伊達家ではまず内々を整えてからにございます」
「されど、吉日を違えては――」
「吉日も大事。されど、御子様と姫様のご負担を増やしてまで急ぐことでもございますまい」
誰も声を荒げない。
礼も失さない。
それでも、そこにあるのはただの手順の違いではなかった。
最上から来た者は、最上の習いを軽く扱われたくない。
伊達家譜代の者は、伊達の内を最上の色で染められたくない。
名づけひとつ取っても、家と家の境は静かに顔を出す。
喜多はそうした会話を耳にしながらも、すぐにどちらへも加勢しなかった。乳母としての役目は、手順を決めることより、今ここにいる御子を見ておくことのほうが先だからだ。
御子は少しだけ目を覚ました。
まだ焦点の定まらぬ眼差しが、天井のあたりへ向けられる。喜多は抱く角度をわずかに変えた。すると御子の眉がほんの少し緩み、また落ち着いた。
「抱き方で、お加減が変わりますか」
おきぬが興味深そうに訊いた。
「変わります」
喜多は即答した。
「赤子は言葉を持ちませぬ。されど、重い、苦しい、まぶしい、寒い――そういう不都合は、ちゃんと持っています」
「……ものが言えぬからこそ、見るのですね」
「その通り」
喜多はそこで、御子の指先が自分の衣の端をかすかに掴むのを見た。無意識の仕草にすぎないのだろう。だがそういう一つ一つが、育てる者にとっては見逃してよいものではない。
この子は抱かれるとき、右より左のほうが落ち着きが早い。
乳を含む前に、舌をわずかに動かす癖がある。
眠りの浅いときには、足先より先に手が動く。
それらは今は些細な違いでも、日を重ねれば「いつもと違う」を見つける基準になる。
喜多は、御子の頭を守るように腕を添えながら思った。
名はまだない。
けれど、人は名がつく前からその子を見ねばならぬ。
名がついてから初めて若君になるのではない。
すでに若君であるからこそ、名がまだない時期がいっそう危ういのだ。
そのころ、義姫の部屋では別の静けさがあった。
産後の疲れが抜けきらぬ中で、義姫は侍女たちから名づけや祝いの手順についての報告を受けていた。表情は崩さない。だが、最上の習いと伊達の流儀が行き違うたび、目の奥にはかすかな冷たさが宿る。
「伊達には伊達のやりようがある、と?」
義姫が低く言うと、年長の侍女が慎重に答えた。
「さよう申す者もおります」
「最上の姫が産んだ子であることを、ずいぶん都合よく忘れる者がいるのね」
言葉は静かだったが、部屋の空気は張った。
もっとも、義姫もただ最上の論理だけを押し通そうとしているわけではない。ここは伊達の城であり、伊達の嫡男を産んだ以上、その子が伊達の流れの中で育つことも分かっている。ただ、だからといって自らの里の習いを、最初から遠ざけられてはならぬと思うだけだ。
女たちの世界では、こうした細部がそのまま立場になる。
誰の習いが通るか。
誰の言葉が採られるか。
誰の“当然”がこの子のまわりに置かれるか。
名づけ前の子は、そうした綱引きの中心にいる。
夕刻、輝宗が短く奥へ顔を出したときも、御子はまだ名を持たぬまま、静かに眠ったり目を覚ましたりを繰り返していた。
「まだ落ち着かぬか」
輝宗が言うと、喜多が答える。
「落ち着いてはおります。されど、名づけや祝いのこととなりますれば、人の口は増えますゆえ」
輝宗は苦くもなく甘くもない顔でうなずいた。
「口が増えるのは避けられぬか」
「はい」
「ならば、せめて手は増やすな」
その一言には、父としての心配と、当主としての判断がどちらも入っていた。名づけや祝いは必要だ。だが、その名目で人の出入りが増えれば、余計なものまで紛れ込む。
輝宗は御子を見て、わずかに笑みを見せた。
「名もないうちから、人を集める」
それは呆れのようでもあり、誇らしさのようでもあった。
「大した子だ」
喜多はそれに対し、ただ深く頭を下げた。
この場で「さようにございます」と持ち上げすぎぬところが、輝宗には好ましかった。
夜が更ける。
奥向きのざわめきもようやく遠のき、人の行き来も少なくなった。火鉢の炭は赤く沈み、障子の向こうは完全な闇に戻っている。雪は昼よりも細かくなり、音もなく積もっていた。
喜多は御子のそばで夜番をしていた。
おきぬは少し離れたところで布を整え、寝所の出入りがないか耳を立てている。白い布に包まれた御子は、浅い眠りと深い眠りのあわいを行き来しているようだった。
静かな夜だった。
火鉢の炭の鳴る音。
遠くの廊下を誰かが歩くごく小さな足音。
柱の向こうで風が鳴る気配。
そのときだった。
御子の指先がぴくりと動いた。
喜多はすぐに目を向ける。泣くのかと思ったが、泣かない。まぶたがかすかに震え、顔がわずかに廊下のほうを向く。
襖の外で、何かが鳴った。
大きな音ではない。遠くで、木がきしんだような、ごく小さな物音だ。夜番に慣れていない者なら聞き流すかもしれぬ程度の音。
だが御子は、その音にだけ反応した。
喜多は身じろぎもせず、その様子を見た。
耳が利くのか。
それとも、眠りの浅いだけか。
偶然かもしれぬ。だが、偶然にしては反応が早い。
「……どうなさいました」
おきぬが小声で寄ってくる。
喜多は御子から目を離さず、低く答えた。
「いま、音がした」
「はい、廊下で何か……」
「その前に、この子が先に動いた」
おきぬは息をひそめた。
たしかに御子は、いまもなお音のしたほうへ顔を向けている。もちろん赤子に何が分かるはずもない。だが、聞こえた瞬間の反応が、妙に早かった。
喜多はしばらく黙って見つめていたが、やがてごく小さな声で呟いた。
「この子は、耳が早いのかもしれませぬ」
それは誰に言うでもない言葉だった。
おきぬは返事をせず、ただ寝台の中の御子を見た。
名を持たぬ若君。
まだ誰にも何者とも定められていないはずの小さな命。
それなのに、その静かな顔の中には、ときおり年に似合わぬ鋭さのようなものが差す。
火鉢の炭が、かすかに音を立てた。
御子はやがてまた落ち着き、眠りへ戻っていく。
その小さな寝息を聞きながら、喜多は胸のうちでひとつ覚えた。
この子は、見ておくべき子だ。
名がつく前から、すでにそう思わせる何かがある。
夜の米沢城は深く静まり返っていた。
その静けさの中で、まだ名を持たぬ若君だけが、わずかな物音を聞き分けるように眠っていた。




