第5話 父・輝宗は、笑っていなければならない
祝いの席というものは、喜ぶためにあるようでいて、実のところは人の腹を隠すためにある。
米沢城の表向きは、この日も朝から慌ただしかった。雪は相変わらず静かに降り続けているが、城の中にはそれを押し返すだけの熱がある。嫡男誕生の報はもう家中に行き渡り、重臣たちは次々に祝いの意を述べに来ていた。酒が運ばれ、膳が並び、廊下では小姓たちが息を切らして行き来している。
その中心にいる輝宗は、表向き穏やかだった。
もともと声を荒げる質ではない。人の前であからさまに喜色を浮かべることも少ない。ゆえに、こうした祝賀の場ではかえって都合がよかった。顔を崩しすぎず、冷たすぎもせず、誰に対してもほどよい温度で応じることができる。
だが、その“ほどよさ”を保つのは、簡単なことではない。
輝宗は上座から座を見渡した。
膳の前に座る男たちは、皆きちんと祝いの顔をしている。嫡男誕生。伊達家の先々にとって、これ以上わかりやすい吉事はない。誰もが笑みを浮かべ、言葉を選び、酒の香りの向こうに寿ぎの気配を漂わせている。
けれど、その祝い方にはやはり差があった。
「まことにめでたきことにございます」
最初に口火を切ったのは、年長の宿老だった。長く家を見てきた男で、言葉にも揺れがない。
「御館様に御嫡男がご誕生とは、伊達家の後々まで明るうございます」
「うむ」
輝宗は短くうなずいた。
「まずは母子ともに無事であったことが何よりだ」
それだけの返しで、その老臣はそれ以上踏み込まない。輝宗が浮かれすぎぬことを見て、むしろ安心した顔をする。
だが、その次に出た言葉は少し違った。
「最上との縁も、いよいよ盤石にございましょうな」
言ったのは、近年とくに出羽筋との折衝に顔を出している家臣だった。言葉としては祝いの中に収まっている。だが、祝いの中心を“若君”から“最上との縁”へ少しだけずらしている。
輝宗はそのずれを聞き逃さない。
「縁は太いほうがよい」
そう受けながら、相手の目を見た。
「されど、まずは我が子の無事だ」
家臣はすぐに頭を下げる。
「はっ。まこと、その通りにございます」
座にいる者たちは皆、今のやり取りの意味をそれぞれに受け取った。最上との繋がりはたしかに大事だ。だが、この場でそれを前に出しすぎるな――輝宗はそう示したのだ。
別の男が、盃を手にしながら言った。
「若君のご誕生により、家中もさらに心を一つにいたしましょう」
こちらは一見もっともらしい。だが輝宗は内心で小さく息をつく。
心を一つに、などという言葉ほど、当てにならぬものはない。
嫡男が生まれれば家の筋は定まる。たしかにそれで安心する者も多い。だが一方で、定まるからこそ、その近くへ寄ろうとする者も増える。誰が若君付きになるか。誰の縁者が奥向きへ出入りするか。誰がその成長を見守る立場に入り込むか。そうした細かな競り合いは、むしろ今から強くなる。
安定と火種は、たいてい同じ場所から生まれる。
輝宗は杯を置き、穏やかな声音で言った。
「喜ぶのはよい。だが気を緩めるな。母子の平穏が第一だ。祝いのためとて、人の出入りを増やしすぎるな」
「御意」
「ことに奥向きへは、用なき者を寄せるな。若君が生まれたからといって、皆が皆、勝手に顔を見たがるようでは困る」
何人かの家臣が、それとなく視線を交わした。
つまりこれは、祝いに乗じて奥向きへ影響を伸ばそうとするな、という釘でもある。言葉は柔らかいが、命じていることは明快だった。
輝宗はその反応を見ながら、さらに思う。
義姫側の者たちは、嫡男誕生で勢いづくだろう。
最上から来た女房たちも、自らの主の立場が強まったと感じるはずだ。
一方で伊達家譜代の者たちは、このまま最上筋の手ばかりが若君のそばへ集まることを良しとはせぬ。
どちらにも一理がある。どちらか一方へ寄せすぎれば、かえって家中に隙が生まれる。
大名の仕事とは、敵を討つことばかりではない。味方を寄せすぎぬこともまた、大事な務めである。
座の端にいた壮年の武将が、慎重に口を開いた。
「御子様のおそばに置く者どもは、いかが相成りましょうか」
来たか、と輝宗は思った。
あまりに早い問いだ。だが、遅かれ早かれ出る話でもある。
「まだ産まれたばかりだ」
輝宗は即答した。
「まずは落ち着かせる。人選はそのあとだ」
それで話を切ることもできた。だが、ここで曖昧に流すだけでは、かえって余計な憶測を呼ぶ。輝宗は一拍置いてから、わずかに言葉を継いだ。
「もっとも、乳母役に片倉喜多が近くに入ることについては、悪くないと見ている」
座が、ほんの少しだけ静まる。
片倉喜多。
その名が持つ重みを、ここにいる者たちは皆知っていた。軽い家の女ではない。鬼庭の血を引き、片倉の家に連なる。女であっても、伊達家の内側にそれなりの太さを持つ立場だ。
輝宗はその反応を見ながら続けた。
「最上から来た者ばかりでも片寄る。かといって伊達譜代ばかりを寄せても、義姫の心が安まらぬ。喜多は、そのどちらへも軽くは見られまい」
宿老の一人が深くうなずいた。
「御意にございます。片倉の家筋に鬼庭の縁も重なれば、奥向きにあっても軽々しゅうは扱われませぬ」
「そうだ」
輝宗は答える。
「しかも、あの女は騒がぬ。騒がぬ者のほうが、乳母には向く」
それは実務の話でもあり、同時に信の話でもあった。
昨夜から、祝い膳や寝所の空気に、わずかな違和感が走っていることを輝宗はまだ詳しく知らない。知らないが、奥向きが今、微妙な張りを帯びていることは察していた。そういうとき、何でも大きく言い立てる者をそばへ置けば、余計な波が立つ。だが、騒がずに見て、必要なことだけを拾える者なら違う。
喜多という女には、そういう働きができるかもしれぬ。
いや、できねば困る。
輝宗は父としての安堵の下で、すでに当主としての盤を見ていた。
座はその後も続いた。
祝いの言葉は尽きない。だが、同じ言葉が重なるたび、その違いもかえって鮮明になる。
ある者は、本当に若君の無事を喜んでいる。
ある者は、最上との結びつきが強まることを良しとしている。
ある者は、これで伊達家の筋が太くなると安心している。
そしてある者は、これから誰に近づくべきか、もう計算を始めている。
輝宗は、そのすべてを咎めはしない。
人とはそういうものだ。
家中が一枚岩であるなど、夢物語にすぎぬ。
大事なのは、思惑があることではなく、その思惑が家の骨を折らぬように束ねることだ。
祝いの席がひと段落すると、輝宗は座を立った。
「しばし奥へ行く」
それだけを告げると、誰も無用な言葉をかけない。皆、御館様が父の顔をしに行くのだと知っていた。
廊下へ出ると、冷えた空気が衣の袖を撫でた。表向きの熱を背にして歩くと、城の静かな部分がかえってよく分かる。襖の向こうで声を潜める侍女たち、盆を抱えて足音を殺す小姓、遠くで湯を運ぶ女たち。城はいつもと同じように動いているようでいて、どこか一点に向けて神経を尖らせていた。
奥へ近づくにつれ、その気配はさらに強くなる。
輝宗は義姫の部屋の前で足を止めた。
取次の侍女が静かに頭を下げる。
「姫様はお休みになっております。御子様はお目覚めにございます」
「騒がせはせぬ」
そう言って中へ入ると、火鉢の温もりと乳の匂いがほのかに漂った。
部屋の隅には片倉喜多が控えていた。輝宗を見ると、すぐに深く頭を下げる。礼の仕方に無駄がない。過不足もない。輝宗は一目見て、やはりこの女なら悪くないと思った。
「喜多か」
「は」
「義姫はどうだ」
「お疲れは残っておられますが、気丈にございます」
「御子は」
「よく眠り、よく目を覚まし、おおむね静かにございます」
おおむね、という言い方に、輝宗は少しだけ口元をゆるめた。何でもかんでも良いと申さぬところがよい。
「そなたがついているなら、まずはよかろう」
喜多は頭を下げたまま答えた。
「務めます」
輝宗はそれ以上、細かなことを問わなかった。言葉より先に、立ち居を見れば足りる。こういう場で余計に饒舌な者は、たいてい信用しすぎてはならぬ。
寝台のほうへ歩み寄る。
白い布に包まれた赤子が、目を覚ましていた。泣いてはいない。ただ、小さな顔をこちらへ向けている。まだ何も分からぬはずの眼差しなのに、ふと、見られているような気がした。
「起きているのか」
輝宗はそう言って、そっと手を差し出した。
赤子を抱く手つきは、まだ慣れたものではない。武家の当主であっても、子を抱くことばかりに長けているわけではないのだ。喜多がすぐ近くで、支える位置だけは外さぬよう目を配っている。
輝宗の腕に移された赤子は、ほんの一瞬だけ眉を寄せた。泣くかと思ったが、泣かなかった。唇をかすかに動かし、それからまた落ち着く。
軽い。
あまりに軽いので、こんなものが家の行く末を背負うなど、妙な話だと思う。だが実際には、この小さな命ひとつで城じゅうがざわめき、人の心まで動いている。
輝宗は赤子の顔をのぞきこんだ。
頬はまだ赤く、髪も薄く、まぶたは半ば重たげだ。どこからどう見ても生まれたばかりの子でしかない。
それなのに――
「……妙だな」
思わず、そんな言葉が漏れた。
喜多が顔を上げる。
「は」
「泣いていても、どこか見ているようだ」
それは深い意味を込めた言葉ではなかった。父として我が子を眺めた、その場の感想にすぎない。だが口にしてから、輝宗自身も少しだけ引っかかった。
赤子が“見ている”など、おかしな話だ。
まだ何も知らぬ、何も分からぬ命であるはずだ。
けれど昨夜、生まれた直後に抱いた侍女も、どこか似たようなことを言っていたと聞いた気がする。目が妙に静かだ、と。
輝宗は赤子の目元を見つめた。
まだ焦点も定まりきらぬはずなのに、視線だけは妙に落ち着いている。騒がず、むやみに逸らさず、何かを待つようでもある。
喜多が、慎重に答えた。
「静かな御子にございます」
「静かすぎる気もする」
「手のかからぬ子ほど、よく見よと申します」
その返しに、輝宗はふっと笑った。
「そうか」
喜多の言葉は実務のものだ。情ではなく、観察から出ている。やはりこの女を入れたのは間違いではないかもしれぬ。
輝宗は赤子を抱いたまま、しばらく黙っていた。
父としては、ただ健やかであればよいと思う。
熱もなく、乳を飲み、よく眠り、無事に育ってくれれば、それでよい。
だが当主としては、それだけで済むはずもない。
この子が育つころ、伊達の家はどうなっているか。
最上との縁はどう転ぶか。
家中の者たちは、この子を柱として素直にまとまるか、それともこの子をめぐってまた別の思惑を育てるか。
父の願いと、当主の計算は、同じ胸の中でうまく重ならないことがある。
輝宗はそれを誰にも見せぬまま、ただ赤子を抱いていた。
やがて、御子は小さく口を動かし、短く息を鳴らした。泣き出す前ぶれかと思ったが、やはり大きくは泣かない。腕の中でわずかに身じろぎし、それからまた落ち着く。
「やはり、騒がぬな」
輝宗が言うと、喜多は答えた。
「静かな子ほど、内に何を持つか分かりませぬ」
「赤子に“内”があるものか」
「それでも、育つものは皆、内に何かを持っておりましょう」
その言葉に、輝宗はもう一度赤子を見下ろした。
この子は、何を持って育つのだろう。
まだ名もない。
まだ言葉もない。
だが、この静けさだけは、たしかにもうここにある。
輝宗はやがて赤子を喜多へ返した。喜多は丁寧に受け取り、布の乱れを整える。
「頼むぞ」
輝宗は短く言った。
「は」
「義姫を無用に煩わせるな。御子に余計な手を近づけるな」
「承知しております」
「気づいたことは小さくても上げよ。後で大きくなるよりましだ」
「はい」
それだけで十分だった。
輝宗は部屋を出る前に、もう一度だけ寝台のほうを振り返った。赤子は再び静かになり、薄く目を閉じかけている。さきほどまでこちらを見ていた気配が、もう夢のように薄れていた。
それでも、胸のどこかに小さな印が残る。
泣いていても、どこか見ているようだ。
父として口にした何気ない言葉だった。
だがその何気なさが、なぜか妙に耳へ残った。
廊下へ出ると、外の冷気がすっと頬を撫でる。表ではまだ祝いの声が続いている。家中はめでたさに包まれ、その実、各々がそれぞれの算段を始めている。
輝宗は歩きながら、また当主の顔へ戻っていった。
笑っていなければならない。
嫡男の父として、家の主として、皆が安心できる顔をしていなければならない。
だが笑っているだけで家がまとまるほど、乱世は甘くない。
それでも今は、まずこの小さな命を守らねばならぬ。
雪の降る城の奥で、まだ名も持たぬ赤子は静かに息をしている。
その静けさが、のちにどれほど多くの人間の心をざわつかせるものになるのか――このときの輝宗は、まだ知らなかった。




