第4話 母になる姫、政になる子
産のあとの静けさというものは、安らぎに似ていて、実のところ安らぎではない。
義姫のいる部屋は暖かかった。火鉢が置かれ、障子の隙間には布があてられ、外の冷気が奥まで入り込まぬよう細かく気を配られている。薬湯の匂いがまだかすかに残り、炭の熱が畳の上の空気をやわらげていた。けれど、その温もりの中心にいるべき女の胸の内は、少しも緩んではいなかった。
義姫は、枕を高くして半身を起こしていた。
出産の疲れは顔色に出ている。唇の赤みは薄く、額にはまだ弱い汗が残り、指先にも力が戻りきってはいない。だが、目だけは冴えていた。冴えすぎていると言ってもよかった。体が消耗しているぶん、余計に神経だけが鋭くなっているようでもある。
最上義守の娘。
その生まれを、義姫自身が忘れたことは一度もない。
伊達へ嫁いだときからずっと、彼女は「正室」であると同時に「最上から来た姫」であり続けてきた。人は口では丁重に扱う。礼も尽くす。だが礼がそのまま心ではないことくらい、義姫はとうに知っている。まして今は、嫡男を産んだのだ。城じゅうの視線が、自分と御子に向いているのを感じないはずがなかった。
部屋の隅で控えていた年長の侍女が、小さく膝を進めた。
「姫様、お加減はいかがにございますか」
「死ぬほどではない」
義姫は短く答えた。声音は低く、かすれてはいても揺れていない。
侍女はそれ以上、柔らかな慰めの言葉など重ねなかった。そういう言葉でこの主の気が和らぐと思っているほど浅く仕えてはいない。
義姫は視線を横へやった。
少し離れたところに、小さな寝台が置かれている。白い布に包まれた赤子が、その中で静かに眠っていた。ついこのあいだまで腹の内にいたものが、いまは別の場所で息をしている。そのことの不思議さを、義姫はまだうまく受け止めきれずにいた。
愛しいかと問われれば、愛しい。
それは間違いない。痛みの果てに産み落とした命だ。これが自らの子でなくて何であろう。
だが同時に、その感情だけでは済まぬことも、彼女はよく分かっていた。
この子は伊達の嫡男である。
そして、最上の娘が産んだ子でもある。
その事実は乳の匂いや寝息のぬくもりよりも重い。人によっては、赤子の顔を見た瞬間にまずそこを数えるだろう。この子が誰に似るか。この子のそばに誰を置くか。この子を通じて誰と誰が近くなるか。その先にあるのは、母子の情よりも、もっと乾いたものだ。
義姫はそれを嫌悪しながら、同時に自分もまたその乾いたものの中で生きてきたと知っている。
襖の向こうで、控えめな衣擦れの音がした。
「姫様」
年長の侍女が声を落とす。
「片倉喜多殿が、お言葉を待っております」
義姫はすぐには答えなかった。
片倉喜多。
すでに名は耳へ入っている。乳母役にふさわしいとされる女。軽々しく口を利く者ではなく、物を見て、要らぬことを騒がず、しかし見落としもしない者だという。鬼庭の血と片倉の縁を引き、伊達家中でも軽く見てよい立場ではない。
義姫は一瞬だけ赤子のほうを見た。
寝息は安定している。小さな胸が規則正しく上下している。
「通しなさい」
短く言うと、侍女は頭を下げて襖の外へ下がった。
やがて、静かな足取りで一人の女が部屋へ入ってきた。
片倉喜多は、華やかな女ではなかった。衣の色も落ち着いており、髪の結い方にも余計な飾りはない。だが、そういう者ほど誤魔化しが利かぬ。立ち居の端正さに、その女がどういう年を重ねてきたかが出る。
部屋の中央で膝をついた喜多は、深く礼をした。
「片倉喜多にございます」
義姫は、すぐに柔らかな言葉を返さなかった。まず相手の呼吸を見る。頭を上げる間、視線をどこへ置くかを見る。自分に怯えるのか、媚びるのか、それとも無遠慮に値踏みを返してくるのか。
喜多は、ちょうどよいところに目を置いた。低すぎず、高すぎず。礼は尽くしている。だが卑屈ではない。
「そなたが喜多か」
「は」
「乳母役を引き受けると聞いた」
「仰せあらば」
義姫はそこで、わずかに目を細めた。
仰せあらば。
便利な言葉である。忠節も隠せるし、逃げ道にもなる。
「引き受けるのか、試しに近づくのか、どちらだ」
部屋の空気がほんの少し硬くなる。侍女たちは息を殺した。
喜多は沈黙を長く引かなかった。
「近づくからには、務めるつもりにございます」
「務まると?」
「務めねばならぬと存じます」
義姫は、そこで初めて口元だけをわずかに動かした。笑ったのではない。試した一手が、ぬるい返しで流されなかったことを確かめただけだ。
「よい答えね。乳母は乳をやるだけの女ではない」
「心得ております」
「では言いなさい。何を心得ている」
喜多は、少しだけ目を伏せた。
「御子様のそばにある者は、乳を与えるだけでは足りませぬ。抱けば、熱の違いを知るべきにございます。泣けば、いつもの泣き方かどうかを聞き分けるべきにございます。眠れば、眠りの浅さ深さを見るべきにございます。何より――」
そこで一拍置いた。
「近づく者が、御子様にとって益か害か、見定めねばなりませぬ」
義姫の眼差しが、ほんのわずかに鋭くなる。
よく言った、と思ったのではない。
そこまで言える女なら、今度はどこまで分かっているかを試さねばならぬ、と思ったのだ。
「益と害。言葉は立派ね。だが人は、自分の親切を益だと思い込むものよ」
「はい」
「頼まれもせぬのに布を替え、気を利かせたつもりで薬を足し、よかれと思って香を焚く。そういう“優しさ”で子は弱る」
喜多は深くうなずいた。
「さようなこと、決して」
「決して、と軽く言うな」
義姫の声が少しだけ冷えた。
「御子のまわりで一番恐ろしいのは、あからさまな敵ではない。忠義の顔をして寄ってくる余計な手だ」
部屋の隅に控える侍女たちの背中が、さらに伸びる。昨夜の祝い膳、今朝の寝所の気配。はっきりとは口にされないが、その場にいる者は皆、その言葉の意味を察していた。
喜多は顔を上げずに答えた。
「心得ました。情に流されませぬ。余計な気遣いもいたしませぬ」
「それだけでは足りぬ」
義姫は寝台のほうを見た。
「泣けば可愛いでしょう。眠れば守りたくもなるでしょう。人は情を持つ。情があること自体は悪くない。だが、その情に己の判断を曇らせるなら、そなたは乳母に向かぬ」
喜多は、今度は少しだけ顔を上げた。
「情を持たぬ者に、御子様は育てられますまい。されど、情に溺れる者にも育てられますまい」
義姫はその言葉を、しばらく黙って聞いた。
よい返しだった。綺麗事だけでも、強がりだけでもない。人を育てる場では、情を捨てることなどできぬ。だが情だけでも守れぬ。そのあわいを、目の前の女は知っている。
「胆はあるようね」
「姫様ほどでは」
「世辞は要らぬ」
即座に切り捨てると、喜多は一瞬だけ口を閉ざし、それ以上飾らなかった。そこも義姫は見ていた。余計な愛想笑いを重ねぬところは嫌いではない。
部屋の外では、遠く人の行き来する気配があった。産後であっても城は止まらない。表では祝儀の挨拶が続き、奥では女たちが役目を割り振り、誰がどこまで近づけるかが見えぬまま変わっていく。
義姫はふと、疲れを感じた。
体がというより、頭がだ。産んだばかりだというのに、もう休んでなどいられない。子が生まれた瞬間から、守ることと疑うことを同時にせねばならぬ。
これが母になるということなら、ずいぶんと気の休まらぬ務めだと思う。
「喜多」
「は」
「ひとまず、そなたを御子のそば近くに置く」
部屋の空気が微かに揺れた。侍女たちは顔を伏せたままだが、決まった、と皆が知った。
「ありがたきことにございます」
「まだ礼を言うには早い。私はそなたを気に入ったわけではない」
義姫は淡々と言った。
「使えるかどうかを見るだけよ」
「それで十分にございます」
「もし御子のまわりに余計なことが起きたなら、まずそなたを疑う」
「承知しております」
「そなたが気づけなかったなら、それもまた同じこと」
「はい」
「御子に情を寄せるのはよい。だが、己の情を御子へ押しつけるな」
「……肝に銘じます」
その返事に、ようやく義姫は小さくうなずいた。
この女は使えるかもしれない。
少なくとも、脅されて萎むだけの女ではない。
それは今の義姫にとって大きかった。
最上から連れてきた侍女たちはいる。だが、最上から来た者だけで御子の周囲を固めれば、伊達の中で軋みが出る。反対に、伊達譜代ばかりを近づければ、今度は自分の手が届かぬ。片倉喜多という女は、そのあわいに置くには悪くない。血筋も家中で軽くなく、しかも目が利く。
義姫はそこで視線を寝台へ戻した。
「抱いてみよ」
喜多は一礼し、ゆっくりと立って寝台の傍へ寄った。手つきに無駄がない。布の端へ触れ、赤子を驚かせぬようわずかに間を置いてから、そっと抱き上げる。
御子は泣かなかった。ほんのわずかに眉を動かしただけで、また静かになった。
「……騒がぬ子にございますな」
喜多が小さく言う。
「それをよいと思う?」
義姫の問いは、すぐに飛んだ。
喜多は赤子を見下ろしたまま答える。
「まだ分かりませぬ。手のかからぬ子は、見落とされやすうもございます」
その返事に、義姫は一瞬だけ目を止めた。
そうだ、と心のどこかで思う。
よく泣く子なら、人は寄る。
静かな子なら、勝手に丈夫と思い、見なくなる。
何でも見透かしたような顔をするのは嫌いだが、見落としを恐れる者は嫌いではない。
喜多は御子を抱いたまま、深く頭を下げた。
「姫様。御子様の傍らにあるかぎり、目を曇らせぬよう努めます」
「努めるだけでは困る」
「では、曇らせませぬ」
わずかな間のあと、義姫は「よい」とだけ言った。
侍女たちへ下がるよう目で合図し、自らも枕へ背を預ける。ほんの少し体勢を変えるだけで、下腹に鈍い痛みが走った。出産というものは、子を産めば終わりではない。むしろ産んだあと、体はしばらく他人のもののようになる。
それでも、義姫は目を閉じなかった。
喜多が御子を寝台へ戻し、布を整えるのを見ていた。
この手が、今後しばらく御子を抱くことになる。
この手が、御子の熱や泣き声や眠りの浅さを最初に知る。
ならば、この女の情も、怠りも、野心も、すべて監すべきだ。
母とは、ただ抱いて微笑むものではないのかもしれない。
少なくとも、義姫にとっては違った。
最上の娘として生まれ、伊達の正室としてここに座り、いまや嫡男を産んだ。どの立場も、彼女にただ優しくあることを許してはくれない。
部屋が静まる。
侍女たちは遠く控え、喜多も一歩下がった。火鉢の炭がかすかに鳴り、外では雪がまだ音もなく降り続いている。
義姫は、眠る赤子を見下ろした。
小さく、弱く、まだ何ひとつ知らぬ顔で眠っている。
この子が先々どれほどの人間の思惑の中へ投げ込まれるのか、知るはずもない。
その顔を見ていると、胸の奥にふいに言葉が浮かぶ。慰めでも祈りでもなく、もっと硬い、乱世に生きる者の実感としての言葉。
義姫は低く、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「強くなければ、生き残れぬ」
祝福の言葉ではなかった。
母が最初に子へ向けるには、あまりに冷たい言葉だったかもしれない。
だがそれが、義姫にとっていちばん真実に近かった。
この子が伊達の嫡男であるかぎり、優しいだけでは足りない。
愛されるだけでも足りない。
人の情も、家の都合も、味方の顔をした欲も、すべてをくぐり抜けてなお立てる強さが要る。
義姫はそれを知っている。
知っているからこそ、そう願うしかなかった。
寝台の中の赤子は、眠ったまま指をわずかに動かした。
まるでその言葉に応えたようにも、何も聞いていないようにも見えた。
その小さな仕草を、喜多は黙って見ていた。
義姫もまた、目を逸らさなかった。
母になるということと、政の中で子を産むということは、どうやら同じではない。
けれど義姫は、その二つを引き裂かれたまま生きるつもりはなかった。
母であり、姫であり、正室であるまま、この子を守る。
その覚えだけが、産後の弱った体の中で、ひどく鮮やかに燃えていた。




