第3話 奥向きの乳母たち
嫡男が生まれると、城の女たちは急に忙しくなる。
祝い事だから、ではない。
祝いが済んだあとのほうが、よほど忙しいのだ。
誰が乳を与えるのか。
誰が抱くのか。
誰が寝所へ入るのか。
誰が産後の義姫に薬湯を運び、誰が御子の布を替え、誰が夜の泣き声を最初に聞くのか。
それらはすべて、ただの世話では済まない。
大名家において、幼子のそばにいるということは、そのまま未来の近さになる。まだ名も定まらぬ赤子であっても、その寝息のまわりには、すでに人の立場と望みが集まり始めていた。
米沢城の奥向きは、この日も朝から湯気に満ちていた。
外は深い雪だ。廊下の障子越しに差す光は白く、庭の松には昨夜からの雪が重たく載っている。けれど、御子の寝所に近い部屋だけは、火鉢の熱と、湯と、乳と、薬草の匂いが入り混じって、外とは別の季節のようだった。
若い侍女のおきぬは、布をたたみながら、部屋の空気の変わりようを感じていた。
昨夜までは、ただ無事に生まれるかどうかで皆が息を詰めていた。
だが今朝は違う。
生まれてしまった以上、今度は「その子のそばに誰がいるか」が問題になる。
「今朝は乳母のことが決まるのでしょうか」
おきぬが小声で問うと、近くで薬湯の支度をしていた年嵩の女が、手を止めずに答えた。
「決まるというより、絞られるのでしょうね。いきなり一人に定まるとも限りません」
女は、台所と薬湯の間を取り仕切る立場にある者だった。名はまだ若い侍女たちにまで強く通ってはいないが、奥向きではこういう女が実際の暮らしを回している。
「乳母は大事なお役目ですもの」
「乳を含ませるだけなら、牛でもよいと申す者もいるけれど」
女はそこで、皮肉とも苦笑ともつかぬ顔をした。
「人の子を育てるのは、乳だけじゃないからね」
そのとき、廊下の向こうで人の動く気配がした。
部屋の女たちの背が、ほとんど同時に伸びる。
入ってきたのは、義姫のそばに長く仕えてきた年長の侍女たちだった。最上から付き従ってきた者たちで、言葉も仕草も柔らかいが、柔らかいだけで通る場に長くいなかった顔である。奥の空気を読むことにかけては、おきぬたち若い侍女など比べものにならぬ。
その後ろから、伊達家譜代の老女たちも現れた。
最上より来た女たち。
伊達の奥向きに古くからいる女たち。
同じく義姫に仕える身でありながら、その背後にある理は少しずつ違う。主は同じでも、どこから来て、誰を知り、何を守ってきたかが違えば、目の配り方も変わる。
さらにしばらくして、部屋の奥へ通された一人の女があった。
年はすでに若くない。だが老いきってもいない。姿勢はよく、歩みに迷いがなく、ただ座るだけで周囲の若い女たちが自然と道を空けた。
片倉喜多である。
おきぬは名だけは知っていた。
御子の乳母役として名が上がっていること。
ただの乳母候補ではなく、物の見方も胆の据わり方も、奥向きの内外で一目置かれる女だということ。
彼女は派手な人ではなかった。衣も声も落ち着いている。だが目だけは静かに強く、相手の言葉より先に、その言葉を口へ出すまでの逡巡まで見ているような印象があった。
座が整うと、まず年長の侍女が言った。
「御子様のおそばに置く者どもについて、姫様のお心を違えぬよう、ここにて人を見定めます」
誰も異論は唱えない。唱えられる空気でもなかった。
乳母候補として呼ばれた女たちが、順に座へ進む。皆、乳の出る身である。家柄も、これまでの奉公も、健康も見られる。だが、おきぬの目には、それ以上のものが見えていた。
乳の出を問われているようで、口の堅さを問われている。
抱き慣れているかを見られているようで、誰の顔色を見る女かを測られている。
赤子のそばに置く者は、ただ優しいだけでは足りないのだ。
伊達家側の老女の一人が、ある候補に穏やかに尋ねた。
「夜泣きのとき、御子が泣きやまぬなら、そなたはどういたす」
「まずは抱き、乳を含ませ、それでもお鎮まりなさらねば、火の加減や布の湿りを見ます」
「それで済まねば」
「そのときは、すぐに上の者へ申し上げます」
無難な答えだった。
だが老女は、わずかに目を細めた。
「自分でよかれと思うことは、しないのですね」
候補の女が一瞬だけ言葉に詰まる。
「それは……御子様によかれと思ってのことなら」
そこで、義姫付きの侍女が静かに口を挟んだ。
「“よかれと思うこと”ほど、奥向きでは危ういものはありません」
声は低く、きつくはない。だが、部屋の空気がぴたりと張った。
昨夜の祝い膳の件が、誰の胸にもまだ残っているのだ。
あれがただの手違いであれ、誰かの浅い企みであれ、善意の顔をした余計な手出しが、御子のまわりに入り込むことの怖さは皆に知れた。
候補の女は深く頭を下げた。
「出過ぎた真似はいたしませぬ」
「それがよろしい」
老女はそれ以上責めなかった。
別の候補が呼ばれる。
今度は、抱き方を見られた。
赤子に見立てた包みを受け取る手が硬いか柔らかいか、支え方に無理がないか、揺らし方が急でないか。そんな細かな所作まで見られている。
おきぬは、その様子を部屋の隅から見ていた。
大名家とは、つくづく細いところに力が宿るものだと思う。抱く手つき、返事の間、目を伏せる角度、そういうものだけで人が選り分けられていく。
やがて、ひととおり候補が見られたあと、部屋の視線が自然と一人へ集まった。
片倉喜多である。
誰かが「この方は」と説明する必要もないような座の流れだった。最上から来た侍女たちも、伊達家譜代の老女たちも、軽々しく扱ってよい相手ではないと知っている。
年長の侍女が、あくまで礼を尽くして言う。
「喜多殿。姫様も、御子様のおそばには、胆の据わった方がよいと仰せです」
喜多は深くも浅くもない角度で頭を下げた。
「身に過ぎたこと。されど仰せあらば、力の及ぶかぎり」
伊達家側の老女が問う。
「乳母は、ただ乳を与える役ではございません。御子様の機嫌も、眠りも、日々の移ろいも見ることになります。それでも務まると」
「務める、では足りぬでしょう」
喜多の返しは静かだった。
「見て、覚え、先んじて気づかねばなりません」
短い言葉なのに、部屋の空気が少し変わった。
おきぬは思わず顔を上げる。
ただ従います、ではない。
ただ乳を与えます、でもない。
この人は最初から、御子を育てることを“見抜く役”まで含めて考えているのだ。
老女がさらに問うた。
「御子様のそばに仕える者が多ければ、多いほど目も増える。何が一番肝要とお考えか」
「誰が近くにいるかより、誰を近づけぬか、でございましょう」
その答えに、最上側の侍女たちの中にわずかな満足げな気配が流れた。反対に伊達家側の老女たちも、露骨な不快は見せない。むしろ、当然そこまで言える者でなければ困る、という顔である。
喜多は続けた。
「赤子はものを言いませぬ。ゆえに、そばの者が目と耳の代わりを務める。ならば、乳の出る女であればよい、というものでもありますまい」
その場にいた者たちは、皆その通りだと思った。思ったからこそ、黙った。
乳母を選ぶのは、乳の出る者を選ぶことではない。
御子の最初の世界を、誰に見せるかを選ぶことだ。
しばしの沈黙ののち、義姫付きの侍女が結論めいた口調で言った。
「喜多殿には、ひとまず御子様の御側近くにあっていただきます」
“ひとまず”という言葉は残した。だが、実際にはそれで大方の流れは定まったも同然だった。
おきぬは、胸のうちで息をついた。
片倉喜多。
この人が若君のそばへ入る。
その事実が、なぜか部屋の空気を少しだけ落ち着かせた。怖さが消えたわけではない。むしろ、気の緩みが許されぬ人が入ったという緊張は増している。けれど、昨夜から続く妙なざわつきに対し、「この人なら見落とさないだろう」という感覚もまた生まれていた。
その後、細かな役分けが進む。
誰が昼の見張りをし、誰が夜に控えるか。
誰が産後の義姫へ薬湯を運び、誰が御子の布や湯を整えるか。
誰が部屋へ入ってよく、誰は廊下までか。
女たちは恭しく応じる。だが返事の裏には、それぞれの感情が透けて見えた。
安堵。
不満。
計算。
あきらめ。
そして、次こそはという静かな執着。
乳母選びの場は、声を荒げずとも充分に戦だった。
やがて人が散り、部屋の熱も少し落ちたころ、おきぬは御子の寝所へ入るよう命じられた。布の様子を見て、火鉢の位置を確かめ、湯の支度が足りているかを見る。いつものような、若い侍女の仕事である。
寝所は静かだった。
白い布にくるまれた御子は、今日もよく眠っている。小さな手が布の上でわずかに動き、また静まる。周囲ではこれほど多くの人間が、この子のそばへ寄るために言葉を尽くしているというのに、当の本人はそんなことなど知らぬ顔だ。
おきぬは少しだけ口元を緩めた。
「皆があなたのことで大騒ぎですよ、御子様」
もちろん返事はない。
火鉢へ炭を足し、枕元の布を整える。そこまでは何事もなかった。
だが、ふと顔を寄せたとき、鼻先にひっかかるものがあった。
甘いような、乾いたような、ごくかすかな香り。
おきぬの手が止まる。
この部屋には、乳の匂い、湯の匂い、赤子の湿ったぬくもりの匂いがある。火鉢の炭の匂いも、薬湯の匂いもある。だが、それらとは違う。もっと細く、もっと余計な、女の袖にでも残るような香りだった。
彼女はそっと息を吸いなおした。
やはり、ある。
枕元に強く残っているわけではない。布の端か、寝所のどこかに、ほんの一度だけ触れたものが置いていった程度の薄さ。気のせいと笑おうと思えば笑えるほどの、わずかな匂い。
けれど、おきぬは笑えなかった。
昨夜は祝い膳の器。
今朝は寝所の香。
どちらも小さい。小さいがゆえに、不気味だった。
彼女は襖の方を見た。
この部屋へ、今朝だれが入った。
だれが御子を覗きこみ、だれが布に触れ、だれが余計なものを持ち込めた。
御子は変わらず眠っている。
だが、その寝息のそばにあるわずかな香りだけが、場違いなほど静かに漂っていた。
おきぬは声にならぬ声で、そっと呟いた。
「……また、なの」
その小さな違和感は、まだ誰にも知られていない。
だが米沢城の奥向きでは、めでたきはずの若君の寝所に、祝福だけでは済まぬ何かが、もう入り込み始めていた。




