表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦国異聞伝『隻眼の若君は、奥州の闇を暴く 〜のちに独眼竜と呼ばれる男の戦国観察録〜』  作者: 常陸之介寛浩㊗️オリコン週間ランキング9位㊗️


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/9

第3話 奥向きの乳母たち

嫡男が生まれると、城の女たちは急に忙しくなる。


 祝い事だから、ではない。


 祝いが済んだあとのほうが、よほど忙しいのだ。


 誰が乳を与えるのか。

 誰が抱くのか。

 誰が寝所へ入るのか。

 誰が産後の義姫に薬湯を運び、誰が御子の布を替え、誰が夜の泣き声を最初に聞くのか。


 それらはすべて、ただの世話では済まない。


 大名家において、幼子のそばにいるということは、そのまま未来の近さになる。まだ名も定まらぬ赤子であっても、その寝息のまわりには、すでに人の立場と望みが集まり始めていた。


 米沢城の奥向きは、この日も朝から湯気に満ちていた。


 外は深い雪だ。廊下の障子越しに差す光は白く、庭の松には昨夜からの雪が重たく載っている。けれど、御子の寝所に近い部屋だけは、火鉢の熱と、湯と、乳と、薬草の匂いが入り混じって、外とは別の季節のようだった。


 若い侍女のおきぬは、布をたたみながら、部屋の空気の変わりようを感じていた。


 昨夜までは、ただ無事に生まれるかどうかで皆が息を詰めていた。

 だが今朝は違う。


 生まれてしまった以上、今度は「その子のそばに誰がいるか」が問題になる。


「今朝は乳母のことが決まるのでしょうか」


 おきぬが小声で問うと、近くで薬湯の支度をしていた年嵩の女が、手を止めずに答えた。


「決まるというより、絞られるのでしょうね。いきなり一人に定まるとも限りません」


 女は、台所と薬湯の間を取り仕切る立場にある者だった。名はまだ若い侍女たちにまで強く通ってはいないが、奥向きではこういう女が実際の暮らしを回している。


「乳母は大事なお役目ですもの」


「乳を含ませるだけなら、牛でもよいと申す者もいるけれど」


 女はそこで、皮肉とも苦笑ともつかぬ顔をした。


「人の子を育てるのは、乳だけじゃないからね」


 そのとき、廊下の向こうで人の動く気配がした。


 部屋の女たちの背が、ほとんど同時に伸びる。


 入ってきたのは、義姫のそばに長く仕えてきた年長の侍女たちだった。最上から付き従ってきた者たちで、言葉も仕草も柔らかいが、柔らかいだけで通る場に長くいなかった顔である。奥の空気を読むことにかけては、おきぬたち若い侍女など比べものにならぬ。


 その後ろから、伊達家譜代の老女たちも現れた。


 最上より来た女たち。

 伊達の奥向きに古くからいる女たち。


 同じく義姫に仕える身でありながら、その背後にある理は少しずつ違う。主は同じでも、どこから来て、誰を知り、何を守ってきたかが違えば、目の配り方も変わる。


 さらにしばらくして、部屋の奥へ通された一人の女があった。


 年はすでに若くない。だが老いきってもいない。姿勢はよく、歩みに迷いがなく、ただ座るだけで周囲の若い女たちが自然と道を空けた。


 片倉喜多である。


 おきぬは名だけは知っていた。

 御子の乳母役として名が上がっていること。

 ただの乳母候補ではなく、物の見方も胆の据わり方も、奥向きの内外で一目置かれる女だということ。


 彼女は派手な人ではなかった。衣も声も落ち着いている。だが目だけは静かに強く、相手の言葉より先に、その言葉を口へ出すまでの逡巡まで見ているような印象があった。


 座が整うと、まず年長の侍女が言った。


「御子様のおそばに置く者どもについて、姫様のお心を違えぬよう、ここにて人を見定めます」


 誰も異論は唱えない。唱えられる空気でもなかった。


 乳母候補として呼ばれた女たちが、順に座へ進む。皆、乳の出る身である。家柄も、これまでの奉公も、健康も見られる。だが、おきぬの目には、それ以上のものが見えていた。


 乳の出を問われているようで、口の堅さを問われている。

 抱き慣れているかを見られているようで、誰の顔色を見る女かを測られている。


 赤子のそばに置く者は、ただ優しいだけでは足りないのだ。


 伊達家側の老女の一人が、ある候補に穏やかに尋ねた。


「夜泣きのとき、御子が泣きやまぬなら、そなたはどういたす」


「まずは抱き、乳を含ませ、それでもお鎮まりなさらねば、火の加減や布の湿りを見ます」


「それで済まねば」


「そのときは、すぐに上の者へ申し上げます」


 無難な答えだった。

 だが老女は、わずかに目を細めた。


「自分でよかれと思うことは、しないのですね」


 候補の女が一瞬だけ言葉に詰まる。


「それは……御子様によかれと思ってのことなら」


 そこで、義姫付きの侍女が静かに口を挟んだ。


「“よかれと思うこと”ほど、奥向きでは危ういものはありません」


 声は低く、きつくはない。だが、部屋の空気がぴたりと張った。


 昨夜の祝い膳の件が、誰の胸にもまだ残っているのだ。

 あれがただの手違いであれ、誰かの浅い企みであれ、善意の顔をした余計な手出しが、御子のまわりに入り込むことの怖さは皆に知れた。


 候補の女は深く頭を下げた。


「出過ぎた真似はいたしませぬ」


「それがよろしい」


 老女はそれ以上責めなかった。


 別の候補が呼ばれる。

 今度は、抱き方を見られた。

 赤子に見立てた包みを受け取る手が硬いか柔らかいか、支え方に無理がないか、揺らし方が急でないか。そんな細かな所作まで見られている。


 おきぬは、その様子を部屋の隅から見ていた。


 大名家とは、つくづく細いところに力が宿るものだと思う。抱く手つき、返事の間、目を伏せる角度、そういうものだけで人が選り分けられていく。


 やがて、ひととおり候補が見られたあと、部屋の視線が自然と一人へ集まった。


 片倉喜多である。


 誰かが「この方は」と説明する必要もないような座の流れだった。最上から来た侍女たちも、伊達家譜代の老女たちも、軽々しく扱ってよい相手ではないと知っている。


 年長の侍女が、あくまで礼を尽くして言う。


「喜多殿。姫様も、御子様のおそばには、胆の据わった方がよいと仰せです」


 喜多は深くも浅くもない角度で頭を下げた。


「身に過ぎたこと。されど仰せあらば、力の及ぶかぎり」


 伊達家側の老女が問う。


「乳母は、ただ乳を与える役ではございません。御子様の機嫌も、眠りも、日々の移ろいも見ることになります。それでも務まると」


「務める、では足りぬでしょう」


 喜多の返しは静かだった。


「見て、覚え、先んじて気づかねばなりません」


 短い言葉なのに、部屋の空気が少し変わった。


 おきぬは思わず顔を上げる。

 ただ従います、ではない。

 ただ乳を与えます、でもない。


 この人は最初から、御子を育てることを“見抜く役”まで含めて考えているのだ。


 老女がさらに問うた。


「御子様のそばに仕える者が多ければ、多いほど目も増える。何が一番肝要とお考えか」


「誰が近くにいるかより、誰を近づけぬか、でございましょう」


 その答えに、最上側の侍女たちの中にわずかな満足げな気配が流れた。反対に伊達家側の老女たちも、露骨な不快は見せない。むしろ、当然そこまで言える者でなければ困る、という顔である。


 喜多は続けた。


「赤子はものを言いませぬ。ゆえに、そばの者が目と耳の代わりを務める。ならば、乳の出る女であればよい、というものでもありますまい」


 その場にいた者たちは、皆その通りだと思った。思ったからこそ、黙った。


 乳母を選ぶのは、乳の出る者を選ぶことではない。

 御子の最初の世界を、誰に見せるかを選ぶことだ。


 しばしの沈黙ののち、義姫付きの侍女が結論めいた口調で言った。


「喜多殿には、ひとまず御子様の御側近くにあっていただきます」


 “ひとまず”という言葉は残した。だが、実際にはそれで大方の流れは定まったも同然だった。


 おきぬは、胸のうちで息をついた。

 片倉喜多。

 この人が若君のそばへ入る。


 その事実が、なぜか部屋の空気を少しだけ落ち着かせた。怖さが消えたわけではない。むしろ、気の緩みが許されぬ人が入ったという緊張は増している。けれど、昨夜から続く妙なざわつきに対し、「この人なら見落とさないだろう」という感覚もまた生まれていた。


 その後、細かな役分けが進む。


 誰が昼の見張りをし、誰が夜に控えるか。

 誰が産後の義姫へ薬湯を運び、誰が御子の布や湯を整えるか。

 誰が部屋へ入ってよく、誰は廊下までか。


 女たちは恭しく応じる。だが返事の裏には、それぞれの感情が透けて見えた。


 安堵。

 不満。

 計算。

 あきらめ。

 そして、次こそはという静かな執着。


 乳母選びの場は、声を荒げずとも充分に戦だった。


 やがて人が散り、部屋の熱も少し落ちたころ、おきぬは御子の寝所へ入るよう命じられた。布の様子を見て、火鉢の位置を確かめ、湯の支度が足りているかを見る。いつものような、若い侍女の仕事である。


 寝所は静かだった。


 白い布にくるまれた御子は、今日もよく眠っている。小さな手が布の上でわずかに動き、また静まる。周囲ではこれほど多くの人間が、この子のそばへ寄るために言葉を尽くしているというのに、当の本人はそんなことなど知らぬ顔だ。


 おきぬは少しだけ口元を緩めた。


「皆があなたのことで大騒ぎですよ、御子様」


 もちろん返事はない。


 火鉢へ炭を足し、枕元の布を整える。そこまでは何事もなかった。


 だが、ふと顔を寄せたとき、鼻先にひっかかるものがあった。


 甘いような、乾いたような、ごくかすかな香り。


 おきぬの手が止まる。


 この部屋には、乳の匂い、湯の匂い、赤子の湿ったぬくもりの匂いがある。火鉢の炭の匂いも、薬湯の匂いもある。だが、それらとは違う。もっと細く、もっと余計な、女の袖にでも残るような香りだった。


 彼女はそっと息を吸いなおした。


 やはり、ある。


 枕元に強く残っているわけではない。布の端か、寝所のどこかに、ほんの一度だけ触れたものが置いていった程度の薄さ。気のせいと笑おうと思えば笑えるほどの、わずかな匂い。


 けれど、おきぬは笑えなかった。


 昨夜は祝い膳の器。

 今朝は寝所の香。


 どちらも小さい。小さいがゆえに、不気味だった。


 彼女は襖の方を見た。

 この部屋へ、今朝だれが入った。

 だれが御子を覗きこみ、だれが布に触れ、だれが余計なものを持ち込めた。


 御子は変わらず眠っている。

 だが、その寝息のそばにあるわずかな香りだけが、場違いなほど静かに漂っていた。


 おきぬは声にならぬ声で、そっと呟いた。


「……また、なの」


 その小さな違和感は、まだ誰にも知られていない。

 だが米沢城の奥向きでは、めでたきはずの若君の寝所に、祝福だけでは済まぬ何かが、もう入り込み始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ