第21話 初めての熱、初めての恐れ
赤子の額に熱があると知ったとき、人は驚くほど無力になる。
大人ならば、熱の高さも、息の荒さも、どこがどう苦しいかをある程度は言葉にできる。薬を飲ませ、湯を飲ませ、眠らせ、しばらく様子を見るということもできる。だが赤子は違う。泣く。眠る。乳を含む。せいぜいそれだけだ。そのわずかな変わりようの中から、何が起きているかを読み取らねばならない。
梵天丸に初めてその“いつもと違う”が見えたのは、昼を少し回ったころだった。
雪は止んでいたが、空は相変わらず白く、陽の色は薄い。障子の向こうの庭は静まり、遠くでたまに廊下の板が鳴る音だけが、冬の城が生きていることを思い出させる。寝所の内側は火鉢の熱で暖かかった。乳の匂いと湯の匂いがやわらかく混じり、梵天丸も、つい先ほどまでは穏やかな眠りの中にいた。
喜多は、その寝息の乱れに最初に気づいた。
ほんのわずかな違いである。
息が浅い。
呼吸の間が少し短い。
眠っているわりに、眉のあたりにうっすらと力が入っている。
そうしたものが、重なって見えた。
彼女はすぐに手を伸ばし、梵天丸の額へ触れた。
ぬるい、ではない。
だが、いつもの熱ではない。
喜多の指先が止まる。
「おきぬ」
声は低く、変に急がない。
けれど、その低さの底にある緊張を、おきぬはすぐに聞き取った。
「はい」
「湯はいまよい。まず、授乳役を呼びなさい。それから年長の侍女へ」
「……何か」
「熱がございます」
それだけで十分だった。おきぬの顔から血の気が引いた。
大ごとではないのかもしれない。
赤子の熱は、一時のこともある。
そう分かっていても、若い侍女の胸はきゅっと縮む。梵天丸は伊達家の嫡男である以前に、まず寝所の中で守られている小さな命だ。その命の額が、いつもより熱い――その事実だけで、部屋の空気は別のものになる。
おきぬはすぐに立ち、廊下へ出た。走るまではいかぬ。だが、走りたい気持ちを押さえて急ぐ足音になる。奥向きで本当にまずいのは、慌てることそのものだ。慌てれば声も大きくなり、人も集まり、余計な手も入る。だからこそ、急ぐのに静かでいなければならない。
そのあいだに喜多は、梵天丸を抱き上げた。
赤子の身体は軽い。けれど熱を含んだ赤子の軽さは、ひどく頼りなく感じる。梵天丸は目を覚ましかけたが、すぐには泣かなかった。少しだけ唇を動かし、息の仕方を変える。そういう小さな変化の一つ一つが、いまの喜多には恐ろしい。
乳母というのは、抱く役だ。
同時に、見る役でもある。
熱は高いのか低いのか。泣き方は弱いか強いか。目の開け方、口元の乾き、手足の動かし方。今まで何日も梵天丸を見てきたからこそ、“これはいつもと違う”が分かる。
授乳役の女房が入ってきた。
息は乱れていないが、顔は緊張している。
「どうにございます」
「額が熱い。乳はまだ無理に含ませぬほうがよろしいかもしれませぬ」
喜多は言いながら、梵天丸の顔色を見せるように身体の向きを少し変えた。
女房は近づき、額と頬へ慎重に手を当てた。
「……ございますね」
「はい」
「朝はようございましたのに」
その一言に、喜多は短くうなずく。
朝まで何でもなかった。
だからこそ怖い。
赤子は変わるとき、急に変わる。
年長の侍女も、ほどなくして来た。義姫付きの侍女で、普段は何事にも声を荒げない女だったが、その目の中にはすでに固い光があった。
「姫様へは」
「まだ」
喜多が答える。
「まず、もう一度見てからにいたしたく」
年長の侍女は一瞬だけ考え、頷いた。
むやみに義姫へ伝えれば、産後の身に無用な不安を与える。
だが、遅らせすぎればそれもまた過ちになる。
判断は難しい。
「薬湯の支度を」
「子にはまだ」
「母君のほうです」
年長の侍女の返しは早かった。
義姫がこれを知れば、気が張る。ならばせめて、熱が大事でないうちから備えだけはしておく。こういうところに、奥向きの年長者の現実感覚がある。
喜多は梵天丸の額へもう一度触れた。
さきほどより少し熱い。
気のせいで片づけられる程度ではなくなってきていた。
「お伝えすべきにございます」
喜多が言うと、年長の侍女も今度は迷わなかった。
「私から申します」
義姫のもとへ報せが入ったとき、彼女は一瞬だけ目を閉じた。
その閉じ方が、ただの驚きではないことを、侍女は知っていた。
義姫はもともと、何ごともすぐ顔へは出さぬ。
だからこそ、目を閉じるその一瞬にだけ、大きく揺れた心が見える。
「熱」
「はい。まだ高うはございませぬが」
「まだ、で済むうちに連れて行きなさい」
「よろしいので」
「母が見ぬまま済ませる話ではないわ」
その声に弱りはなかった。
だが、侍女には分かった。
義姫の胸はすでに乱れている。
産後の痛みも、嫉妬も、警戒も、それらとは別種のもっと生々しい恐れが、いまはすべてを押しのけて前へ出ている。
梵天丸は、義姫の部屋に近いところへ移された。
火鉢が増やされ、風が入らぬよう襖が調整される。授乳役、喜多、年長の侍女、最低限の顔ぶれだけが残り、ほかは下がる。大勢が寄れば、それだけで空気が乱れるからだ。
義姫は枕を高くして座していた。
梵天丸を抱いた喜多が入ると、その目は真っ先に子の顔へ行った。母としての視線である。そこには、正室としての威も、最上の姫としての冷えもない。ただ、子の熱を確かめる一人の母の目だけがあった。
「こちらへ」
梵天丸が義姫のそばへ寄せられる。
義姫は手を伸ばし、その額へ触れた。
熱い。
いや、大人からすれば大した熱ではないのかもしれぬ。
けれど、母の指にはそれで十分すぎる熱だった。
「……」
言葉が出ない。
義姫は心のどこかで、自分が強い女であると思ってきた。
実際、そうでなければこの城では座っていられぬ。
だが、子の熱ひとつで胸がこんなにも動くのかと、自分で自分に呆れるほど、いまの彼女はただの母だった。
「泣き方は」
「弱うはございませぬ」
喜多が答える。
「乳は」
「少し前にはようございました。いまは無理に含ませておりませぬ」
「眠れているの」
「浅うございます」
そのやり取りは短い。
けれど、それだけで義姫は多くを察した。
大ごとではないかもしれない。
だが、軽く見てよいものでもない。
そこへ輝宗も来た。
報せを受けたときの彼の顔を、おきぬは遠目に見ていた。表情は崩れない。歩みも急ぎすぎない。けれど、奥へ入るときに、ほんの一瞬だけ呼吸が変わった。
父である。
当主である前に、やはり父なのだと、その一瞬だけは誰の目にも分かった。
「どうだ」
輝宗が問う。
「まだ高うはないかと」
喜多が答える。
それを聞いて、輝宗の目が梵天丸へ落ちた。
小さな顔が少し赤い。
額に熱がある。
大泣きしているわけではない。
だがそれが、かえって痛ましい。
戦場で人が傷つくのは、ある意味では分かりやすい。
血が流れ、声が上がり、何が起きたかが外へ出る。
けれど、赤子の熱は違う。
こんなにも小さな額ひとつに、人の心は丸ごと引き寄せられてしまう。
輝宗は梵天丸の顔を見つめた。
「医に通じる者は」
「すでに呼んでおります」
年長の侍女が答える。
「ようございました」
輝宗のその言葉は、安堵ではない。
やるべきことがもう動いていると知った確認にすぎぬ。
だが、それ以上何もできぬ自分を、少しだけ押しとどめるための言葉でもあった。
喜多はそのやり取りを見ながら、やはりこういうときこそ冷静でいなければならぬと思った。
義姫は祈るしかない。
輝宗もまた、城の主でありながら、結局は見守るしかない。
この場で、熱の上がり方、息の変わり方、乳の入り方を追い続けるのは、自分たち乳母や女房の役目なのだ。
それは誇りでもある。
同時に、ひどく重い。
やがて梵天丸が少し泣いた。
義姫が腕を伸ばしかけたが、年長の侍女がそっと止める。産後の体にはまだ無理が利かない。
その一瞬、義姫の顔に悔しさがよぎった。
抱きたい。
抱いてやりたい。
だが抱き続けられぬ。
その切なさは、喜多にも痛いほど分かった。
けれど今は、同情を口にしてはならぬ。
医に通じた者が来て、脈を見る。額の熱を確かめ、息を聞き、少しのあいだ様子を見てから、こう言った。
「いましばらく見ましょう。急な強い熱ではございませぬ。乳のあとの上がりや、眠りの崩れから来たものやもしれませぬ」
その言葉で、部屋の空気は少しだけ緩んだ。
誰も安心したとは言わない。
だが、いきなり深い淵へ落ちるような話ではないと分かっただけで、人はだいぶ息をしやすくなる。
時間はゆっくりと過ぎた。
梵天丸は浅く眠り、起き、また少しだけ泣く。
喜多が抱き、授乳役が様子を見、年長の侍女が周囲を整え、義姫は目を離さず、輝宗は必要以上の言葉を発さずにそこにいた。
そのすべてが、梵天丸をめぐる最初の“恐れ”だった。
小さな命は、こんなにも脆い。
どれだけ人が守っても、熱ひとつで皆の胸を揺らす。
夕刻に近づくころ、熱は少しずつ引き始めた。
喜多が額に触れたとき、その違いはすぐに分かった。
さきほどまでのこもるような熱が、幾分やわらいでいる。
梵天丸の呼吸も、前より深い。
泣き方にも、少し余裕が戻っていた。
「……下がっております」
喜多が言うと、義姫の肩がほんのわずかに落ちた。
落ちたように見えただけかもしれない。
それでも、そう見えるほどには張りつめていたのだ。
輝宗もまた、小さく息を吐いた。
「そうか」
その二文字に、どれだけの安堵が入っていたか、誰も言葉にはしなかった。
やがて人が少しずつ下がり、部屋にはふたたび静けさが戻る。
梵天丸は疲れたように眠っていた。
小さな熱が引くだけで、こんなにも部屋の色が変わるのかと思うほど、空気は穏やかになっていた。
義姫は、その寝顔を見つめながら、しばらく何も言わなかった。
強くあれ、と願ってきた。
生き残る子であれ、とも。
人に呑まれぬ目を持て、とも。
だが、いざ熱を持った額へ触れてみれば、その願いの勇ましさがどれほど空しい飾りかも思い知る。
この子はまだ、こんなにも脆い。
乳ひとつ、熱ひとつで、命のほうが揺れる。
義姫はほとんど独り言のように、低く呟いた。
「強くあれと言いながら、こうも脆い」
その声には、責める響きはなかった。
ただ、乱世に生まれた命の現実を、母として初めて骨身に知った痛みだけがあった。
火鉢の炭が、また小さく鳴る。
外では雪の白さが夕刻の薄青さに変わり始めていた。
梵天丸は、その変化も知らずに、ようやく深い眠りへ入っていく。
喜多はその寝顔を見ながら、今日のことを胸へ刻んだ。
最初の熱。
最初の恐れ。
この先もきっと、こういう日は来る。
だからこそ、自分はよく見ねばならぬ。
義姫もまた、胸の内で同じように何かを刻みつけていた。
ただ強くあれと願うだけでは足りぬ。
脆いものを脆いまま守る覚悟もまた、母には要るのだと。
そして輝宗は、誰にも見せぬまま、父としての弱さを静かに抱えていた。
城の主でありながら、子の熱ひとつにここまで心を動かされる。
それを恥じる気持ちはない。
ただ、この弱さごと背負っていくのだと、黙って受け入れていた。
雪の奥州の夕暮れは早い。
白い空が青く沈み始めるころ、梵天丸の最初の熱は、いったん静かに去っていった。




