第20話 乳母の膝、母の腕
赤子は、抱く者を選んでいるように見えるときがある。
もちろん、実際に選んでいるわけではないのだろう。
腕の角度、胸の高さ、衣の匂い、声の調子、そういった細かな違いが、赤子の身体にとって心地よいかどうか、それだけのことかもしれない。
けれど、抱いた瞬間に泣きやむことがある。
逆に、いままで静かだったのに、腕を替えたとたんに顔をしかめることもある。
そういう小さな差は、理屈より先に、抱く者の胸へ刺さる。
その日、米沢城の奥向きは、雪明かりを薄く障子へ映して静まっていた。
夜のあいだに積もった雪は昼になっても解ける気配を見せず、庭の木々は白い重みをそのまま枝に載せている。火鉢の熱がある部屋の内側だけが、かろうじて人の住む場所らしく、乳と湯と炭の匂いを含んで柔らかかった。
梵天丸は昼過ぎから少し機嫌が不安定だった。
熱はない。
顔色も悪くない。
乳も飲んだ。
それなのに、眠りへ落ちきらず、浅く泣いては息を整え、また小さく身をよじる。大泣きするほどではないから、なおさら厄介だった。はっきりとどこが悪いと言えぬぶん、抱く側は余計に気を張る。
喜多は、梵天丸を抱いたまま何度か揺らし、背を軽く撫で、火鉢との距離をわずかに変えた。そうしているうちに、梵天丸は少しずつ落ち着いていった。呼吸が整い、眉間の小さな皺がほどけ、やがて胸元へ頬を預けるようにして静まる。
「今は、ようございます」
授乳役の女房が小さく言う。
喜多は短くうなずいた。
こういう日は、無理に寝かせようとしないほうがよいこともある。
抱かれて落ち着くなら、しばらくそのままにしておく。
乳母として、そういう判断が要る。
おきぬは少し離れたところで布を畳みながら、その様子を見ていた。
喜多の腕の中の梵天丸は、不思議なほど静かだった。
先ほどまで、ほんの小さくではあるが、泣きかけていたのが嘘のようである。
抱き方のせいなのか。
匂いのせいなのか。
それとも喜多の声の調子なのか。
若い侍女には、そこまでは分からぬ。
ただ、この女はやはり赤子を落ち着かせるのがうまい、としか言いようがなかった。
そこへ、義姫が来た。
正確には、「出てきた」というほうが近い。産後の疲れはまだ抜けきらぬため、義姫が自ら足を運ぶことは多くない。けれど今日は、梵天丸の機嫌が定まらぬと聞いて、寝所に近い部屋まで身を起こしたのだ。
付き添う年長の侍女が、すぐに座を整える。
「姫様」
喜多が声をかけると、義姫はわずかに頷いた。
「まだ落ち着かぬの」
「いまは、少し」
義姫の視線はまっすぐ梵天丸へ向いていた。
母としての目である。
その目にあるのは、正室としての威ではない。もっと剥き出しの、子のわずかな変化も見逃すまいとする緊張だった。
「寄越しなさい」
義姫が言う。
部屋の空気が、ほんの少しだけ張る。
喜多は逡巡しなかった。
躊躇えば、それ自体が余計な意味を持つ。
乳母である前に、この子の母は義姫なのだ。
「はい」
梵天丸をそっと差し出す。
首を支える位置、身体の角度、胸元へ収める深さ――すべてを崩さぬよう、できるかぎりそのまま義姫の腕へ移した。
義姫は受け取った。
その手つきは、決して不器用ではない。
産んだ子である。抱き方を知らぬわけがない。
けれど、長く続く腕ではないことも、本人が一番よく分かっている。
最初の一呼吸は、うまくいったように見えた。
梵天丸は少し身じろぎしただけで、義姫の胸元に収まる。
おきぬは心の内で、よかった、と小さく思った。
だが、その安堵は長く続かなかった。
梵天丸の眉が、わずかに寄る。
唇の端が動く。
息が少しだけ上ずる。
そして、ほんの小さく泣いた。
大きな泣き声ではない。
だがその小ささが、かえって胸へ刺さるような声だった。
義姫の腕が、一瞬だけ強ばる。
「……」
部屋の誰も、すぐには動けなかった。
泣くこと自体は珍しくない。
赤子なのだから。
けれど、つい先ほどまで喜多の腕では静まっていたものが、義姫へ移った途端に泣いた。
その事実が、そこにいる女たちの間へ、言葉にならぬ緊張を落とした。
義姫は何も言わない。
ただ、抱き方を少し変えた。胸の寄せ方を深くし、頬の当たる位置をわずかにずらし、背を撫でる。
それでも、梵天丸はまた小さく泣いた。
その泣き方は、拒むようにも、戸惑うようにも聞こえた。
義姫の胸の奥へ、何か鋭いものが刺さった。
分かっている。
たまたまだということくらい、分かっている。
今日の梵天丸は、もともと機嫌が定まらぬ。
抱く腕が替われば、泣くこともある。
それだけのことだ。
けれど、理屈を知っていても、胸がそれに従うとは限らない。
この子は、私の子だ。
私の腹を出た子だ。
それなのに、いま、この腕の中で落ち着かず、さっきまで喜多の腕では静かだった。
それはあまりに些細な違いで、あまりに大きな痛みだった。
「姫様」
年長の侍女が一歩寄りかけた。
義姫は手だけでそれを制した。
「寄るな」
声は低かった。強くはない。だが、誰にも逆らえぬ響きがあった。
梵天丸はまた短く泣いた。
義姫はその小さな声を胸のすぐ近くで聞きながら、自分の呼吸まで乱れそうになるのを必死に押さえた。
喜多は、その場で何も言わずにいた。
慰めの言葉など、かけられるはずがない。
「たまたまにございます」と言うのは正しい。
だが、正しいことほど、この場では刃になる。
「お貸しください」と手を差し出すのも簡単だ。
だが、それは義姫の胸へさらに深く突き立つ。
乳母として最も難しいのは、こういう時に“正しいこと”をしすぎぬことだと、喜多は知っていた。
義姫は少しだけ目を閉じた。
泣きやませられぬ母。
それを見ている乳母。
その構図が、胸の内でひどく残酷だった。
やがて梵天丸の泣き方が少し変わった。
大きくなる前に、息のほうが先に苦しくなりそうな気配がある。
義姫は目を開き、低く言った。
「喜多」
「はい」
「……取れ」
その一言を口にした瞬間、義姫は自分の胸がさらに痛むのを感じた。
自分で返した。
誰かに奪われたのではない。
必要だから、そうしただけだ。
それでも、まるで自分の腕の負けを認めたような苦さがあった。
喜多は、躊躇なく梵天丸を受け取った。
これもまた躊躇ってはならぬ場面である。
遠慮を見せれば、義姫の苦しさを長引かせるだけだ。
梵天丸は喜多の腕へ戻ると、すぐに泣きやんだわけではない。
けれど、呼吸が少しずつ整い、身の置きどころを見つけたように身体の力が抜けていく。
しばらくすると、さきほどまでの小さな泣き声は止み、代わりに眠る前の柔らかな息へ変わった。
おきぬは、その変わり方を見て胸が詰まった。
良かった、と思う。
だがそれと同じだけ、義姫の胸の内を思って痛ましくもなる。
義姫は顔を伏せていた。
泣きやんだことへの安堵は、たしかにある。
だが、その安堵のかたちが、あまりにも苦い。
自分の腕では落ち着かず、喜多の腕では静まる。
ただそれだけのことが、母である自分をどれほど刺すか、誰にもきっと分からぬ。
部屋は静かだった。
火鉢の炭がときおり小さく鳴るだけで、誰も余計な口をきかない。
授乳役の女房も、年長の侍女も、おきぬも、皆この沈黙が必要なものだと知っている。
やがて、義姫が顔を上げた。
泣いたわけではない。
少なくとも、人に見せる顔の上ではそうだった。
だが、目の奥には、自分でも持て余すようなものが沈んでいる。
「大げさな顔をするな」
それは周囲に向けた言葉だった。
「赤子が少し泣いただけよ」
誰も「はい」とは答えなかった。
答えてしまえば、かえってその言葉が痛々しく響くからだ。
喜多は梵天丸を抱きながら、ようやく一言だけ言った。
「今日は、少し眠りが浅うございました」
それは説明であり、慰めではない。
義姫を労わるためではなく、事実だけを部屋へ置く言い方だった。
義姫はその言葉を聞いて、小さくうなずいた。
「……そうなのでしょう」
そして、それ以上は何も言わなかった。
人が少しずつ下がり、部屋の緊張が薄くほどけていったあとも、義姫の胸には苦さが残っていた。
たまたま。
それで済むことだ。
そう頭では分かっている。
だが、母の心というものは、そうそう理屈どおりにはできていない。
乳母の膝で落ち着く。
母の腕で泣く。
その順番が、どうしても意味を持ってしまう。
夕刻が近づき、光がさらに白く薄くなるころ、義姫は再び梵天丸を抱いた。
今度は、機嫌のよい時を選んで。
腕へ移された梵天丸は、少し身じろぎしただけで、泣かなかった。
義姫はそのことに安堵しながら、同時にそんなことで安堵してしまう自分が、少し情けなくも思えた。
喜多は少し離れたところで控えている。
目は向けているが、見張るようではない。
ただ、必要ならすぐ動ける距離を守っている。
義姫はその気配を感じながら、低く言った。
「喜多」
「はい」
「さきほどのこと、気にするな」
「は」
「私が勝手に……少し、苛立っただけよ」
その言い方は不器用だった。
謝っているようで、謝ってはいない。
だが義姫という女が、ここまで口にするのは、むしろ大きい。
喜多は深く頭を下げた。
「心得ております」
それだけで十分だった。
言葉を重ねれば、また余計な慰めになる。
今は、義姫が自ら立ち直る余地を残すほうがよい。
梵天丸は、義姫の腕の中で眠りかけている。
さきほどの一件が嘘のように、今は静かだ。
義姫は、その小さな額を見つめて、ほとんど聞こえぬ声で囁いた。
「誰の腕で泣きやんでも、おまえの母は私よ」
その言葉は、梵天丸へ向けたものだった。
だが同時に、自分へ言い聞かせる言葉でもあった。
母であることは、抱いた瞬間の勝ち負けではない。
泣きやませる早さでも、乳を与える役でもない。
もっと深く、もっと言葉にしにくいところで、この子とつながっているはずだ。
そうでなければ、母というものがあまりに哀しい。
梵天丸は答えない。
まだ意味も分からぬ。
ただ、母の胸元で小さく息をしているだけだ。
それでも、その寝息を感じているうちに、義姫の胸の痛みは少しずつ別の形へ変わっていった。
消えはしない。
だが、ただ傷として残るのではなく、この子を守る執着として、また静かに根を下ろしていく。
外では、雪がまた降り始めたようだった。
障子の向こうの白が、さらにやわらかく濃くなる。
乳母の膝で落ち着き、母の腕で泣いた、ただそれだけの午後。
けれど、その小さな揺らぎひとつで、奥向きの女たちの胸には、それぞれ別の重みが残った。
喜多は乳母としての難しさを思い知り、
おきぬは母と乳母の間の見えぬ痛みに息を呑み、
義姫は、自らの子を抱くことの切実さを、いっそう深く胸へ刻んだ。
そして梵天丸だけが、そうした大人たちの心の動きを何も知らぬまま、ただ静かに眠りへ落ちていった。




