第2話 祝いの膳に、冷たい視線が混じる
雪は、夜が明けても止まなかった。
米沢城の瓦に積もった白は朝の薄日を受けても鈍く、晴れたというより、闇が少し薄くなっただけに見える。冬の奥州の朝とはそういうものだ。光は差しても暖かさまでは届かず、空は明るんでも、空気の底には夜の冷たさがそのまま残っている。
だが城の中は、昨夜とは違うざわめきに満ちていた。
嫡男誕生。
その四文字だけで、人はこれほど忙しくなれるのかと思うほど、表も奥も足音が絶えない。台所では大鍋の蓋が鳴り、酒蔵からは祝い用の樽が運び出され、廊下では小姓たちが盆を抱えて行き来している。昨夜は母子の無事を願う緊張が城を支配していたが、今朝はそれに代わって、言葉と視線と計算の熱が満ちはじめていた。
めでたい。
確かにめでたい。
だが、大名家において「めでたい」は、しばしば「動く」という意味でもある。
表御殿の一室では、すでに祝いの膳が整えられていた。
赤地の敷物の上に、塗りの膳が整然と並ぶ。温かな汁物の湯気がゆらぎ、焼き物の香ばしさに酒の匂いが混じる。だがそこに座する男たちの顔ぶれは、宴のゆるみを許すものではなかった。伊達家の重臣たち――年長の宿老から、近頃頭角を現してきた壮年の武辺者まで、皆それぞれに言葉少なに座を占めている。
上座にある輝宗は、昨夜よりもいくぶん顔色がやわらいでいた。父としての安堵が、今朝の彼には確かにある。だが当主としての表情もまた戻っていた。
膳が運ばれ、酒が注がれ、年嵩の重臣がまず祝いの口火を切る。
「このたびは、まことに慶賀の至りにございます。御家の末広がり、天も寿いでおるのでございましょう」
言い回しは穏やかで、非の打ちどころがない。座にいる者たちも、それぞれ杯を持ち上げる。
「めでたきことにございます」
「伊達家の先々、いよいよ頼もしゅうございますな」
「御館様の御嫡男、さぞや英邁に育たれましょう」
誰もが祝う。顔の上では、皆まっすぐ祝っている。
けれど、輝宗の目は、そのまっすぐさの中にあるわずかな角度を見逃してはいなかった。
この男は心から喜んでいる。
この男は最上との縁が太くなったことを計っている。
この男は、嫡男誕生で家の筋が定まり、自らの立場も安定すると胸をなで下ろしている。
この男は、安堵より先に「次にどの家臣が若君付きへ食い込むか」を考えている。
祝いの言葉は同じでも、内にあるものは同じではない。
輝宗は杯を置きながら、淡く笑った。
「皆の祝い、ありがたく受ける。まずは母子ともに無事であったことが何よりだ」
「まことに」
と応じたのは、昨夜も傍らにいた老臣である。白髪の混じりはじめたその男は、言葉を継ぎながら周囲を見た。
「御嫡男が無事にお生まれなされた。これにて家中の心も、よりひとつにございましょう」
その一言には、「そうあってほしい」という願いと、「そうならねば困る」という牽制が同時に乗っていた。
若い武将の一人が、少し身を乗り出すようにして口を開いた。
「若君の御誕生、まことに頼もしきこと。これで伊達家の行く末もいよいよ定まりましょうな」
「定まる、か」
別の男が、小さく笑った。盃を持つ指先は太く、古傷の走る手だった。
「定まるはようござるが、その分だけ人の目も集まりましょう。若君とは、生まれたその日から楽な立場ではありませぬ」
言葉だけを取れば尤もだ。祝いの席に水を差すほどでもない、むしろ慎みのある進言に聞こえる。
だが、向かいに座る者はその裏を聞いた。
目が集まる、ということは、人の出入りも増える。
若君付きの人選、奥向きとの繋がり、将来の傅役――そこに誰が食い込むかで、次の十年が変わる。
つまり男は、すでにその先の取り分を数えているのだ。
「そなたの申すとおりだ」
輝宗はその場を濁すでもなく、ただ静かに受けた。
「生まれたのが嫡男である以上、守らねばならぬものも増える。祝いと同じだけ、気を引き締めるべきであろう」
それで座は整った。誰もが「御館様は浮かれておらぬ」と知り、また安心する。大将が喜びに足を取られぬということは、家にとって良い兆しだからだ。
だが、その安堵もまた、各々ちがう意味を持つ。
座の端にいた中年の家臣は、杯を口元まで運びながら内心で計っていた。嫡男が生まれた以上、今後は若君に近い家が強くなる。今のうちに奥向きへ通じる口を持っておくべきか、それとも輝宗本人への忠節をより濃く見せておくべきか。祝いの膳に見えて、その実、城の男たちは皆、目に見えぬ盤上で駒を動かしている。
そして、同じころ。
奥向きでもまた、別の祝いの膳が整えられていた。
こちらは表のような大声の祝詞も、盃を打ち合わせるような賑わいもない。襖に囲まれた温かな部屋で、女たちは声を半歩落とし、柔らかな笑みの形を崩さずに言葉を交わしている。その静けさは上品といえば上品だが、実際には男たちの座よりよほど息が詰まる。
「姫様、まことによう耐え忍ばれました」
「御子様もお健やかとのこと、なによりにございます」
「御嫡男様となれば、城内もいよいよ華やぎましょう」
義姫付きの侍女たちは、ひとつひとつの言葉に誇りをにじませていた。義姫が男子を産んだ。それは主の勝利であり、自分たちの立場の強まりでもある。隠す必要はない。ただ、露骨に出しすぎぬだけだ。
対する古参の女房たちは、同じように頭を下げながらも、温度が少し違う。
「ありがたきことでございます」
「まずは母子のご静養が第一にございますな」
「まだお生まれになったばかり。どうかお静かにお育ちあそばされますよう」
言葉は整っている。だが「御嫡男様」と呼ぶ者もいれば、「御子様」とだけ呼ぶ者もいる。その小さな違いが、この場では無視できぬものとして響いた。
若い侍女の一人が、少し誇らしげに言った。
「昨夜、お顔を拝しましたが、まことに整った御子にございました。さすがは御館様と姫様のお子にございます」
すると、向かいの老女が穏やかに笑う。
「赤子のうちは、皆よう似ておりますよ」
笑みを保ったままの返しだったが、若い侍女の頬がわずかにこわばった。褒め言葉を受け流しただけではない。浮き足立つな、という釘がそこにあったからだ。
「されど、御目元はしっかりしておいででした」
別の侍女が加勢するように言う。
「昨夜抱いた者も、妙に静かな御子だと」
その言葉に、今度は老女の隣にいた古参女房が口を挟んだ。
「静か、とはまた。赤子にそのようなことが分かるものですか。昨夜の疲れで、抱いた者の心が騒いでおっただけでしょう」
それは正論だった。だが、若い侍女たちはなぜか黙りこむ。正論で押されると、なおさら「こちらの見たものを否定された」と感じてしまうものだ。
奥向きの会話とは、こうして棘を布に包んで投げ合う。
義姫本人はまだ床を離れていない。産後の疲れを残し、今は静かに休んでいる。だが、主がこの場にいないからこそ、女たちは各々の立場を確かめるように言葉を交わす。
誰が義姫に近いか。
誰が古くから伊達の城にいるか。
誰がこれから若君に近づけるか。
赤子の誕生は、乳の匂いとぬくもりだけでできているわけではない。大名家においては、その小さな寝息のまわりに人の欲が集まり、膨らみ、形を取りはじめる。
部屋の隅で、昨夜赤子を抱いた若い侍女――名をおきぬと言う――は、静かにそのやり取りを聞いていた。年の頃はまだ十六、七であろう。口数は多くないが、物を運ぶ手が早く、顔色を読むのにも長けている。昨夜ふと「目が妙に静かだ」と漏らしてしまったのも、この女だった。
おきぬは、自分が余計なことを言ったかもしれぬと思っていた。だが、そう思いながらも、赤子の顔を思い返すと、やはり違和感は消えない。泣き疲れて眠っただけのはずなのに、あの目元には、なぜか妙な落ち着きがあった。
考えすぎだ、と自分に言い聞かせていると、近くで別の声が上がった。
「それにしても、御名はいつ頃お決まりになりましょうね」
「吉日に合わせられるのでしょう」
「名がつけば、いよいよ“若君”にございます」
「まだ赤子だよ」
ぽつりと落ちた一言に、部屋の空気がほんの少し変わった。
言ったのは、台所上がりの中年女房だった。すぐに失言と悟ったのか、彼女は頭を下げる。
「いえ、軽んじるつもりでは……ただ、あまり早うから大人の思惑を負わせるのも気の毒かと」
義姫付きの侍女が、やわらかく笑った。
「大名家の御子にございますもの。思惑は生まれる前から寄ってまいります」
それはその通りだったので、誰も言い返せない。
おきぬはそこで、かすかに息をついた。
まだ名もない。まだ言葉も知らぬ。乳を飲んで、眠って、泣くしかできぬ命だ。なのに、もう周囲は「誰の味方か」「どのように育つか」「どこに近づくべきか」を測りはじめている。
城というところは、やはり恐ろしい。
昼が近づくころになると、祝いの膳は奥向きの別室にも運ばれてきた。産後の義姫のところへは別に精のつくものが用意されるが、その周辺に仕える女たちへも労いを兼ねて食が回る。
朱塗りの膳の上に、小ぶりな椀、焼き魚、和え物、吸い物。祝いゆえ見た目も整えられている。女たちは一斉に手をつけるわけではなく、目上の者の様子を窺いながら順に箸を伸ばした。
おきぬも盆を受け取り、部屋の端に控えていた。若い侍女は先に食べるより、何かあればすぐ動ける位置にいろというのが、この場の決まりである。
「おきぬ、おまえも少しは口へ入れなさい」
年長の侍女に言われ、おきぬは「はい」と頭を下げた。膳を前にしてみると、空腹はあった。昨夜からろくに口へ入れていない。だが、不思議と箸が軽くならない。祝いの匂いが満ちているはずなのに、どこかに細い緊張が混じっている。
部屋では、また控えめな会話が続いている。
「表でも、さぞお喜びでしょう」
「ええ。重臣方も、お祝いの言葉をそろえておられたとか」
「そろえる、ねえ」
老女が小さく笑った。
「口がそろうのと、腹がそろうのは別のことですよ」
その場に、かすかな苦笑が広がる。毒とは言い切れぬが、たしかに本音だった。男も女も違わない。祝いの場ほど、本心はうまく隠される。
おきぬはようやく箸を取り、小さな椀に手を伸ばした。だが、そのときふと、隣の膳に置かれた器へ目が止まった。
漆の黒が、少しだけ鈍い。
いや、鈍いというより――濡れ方が違う。
おきぬは思わず手を止めた。目を凝らす。器の縁の一部に、ごく薄く曇ったような跡がある。指でこすれば消えそうな程度の、ほんのわずかな乱れだ。だが、出されたばかりの祝い膳にしては妙だった。
湯気のせいだろうか。
それとも、誰かが先に触れたのか。
「……どうしたの」
隣の侍女が小声で訊く。
「いえ」
おきぬは答えかけて、そこで鼻先にわずかな違和感を覚えた。料理の香りの中に紛れるほど弱い、何か。薬というには薄い。香というには鋭い。気のせいと切り捨てるには、ほんの少しだけ引っかかる。
彼女は器をそっと持ち上げ、光に透かすように角度を変えた。
やはり、縁のところに指跡のような曇りがある。
誰が、いつ、何のために。
そこまで考えたところで、年長の女房がこちらを見た。
「おきぬ、何をしているのです」
「……この器、少し……」
おきぬは最後まで言い切れなかった。大騒ぎするほどのことではない。実際、何も起きてはいない。ただ祝いの膳の一つに、ほんの小さな違和感があるだけだ。
それでも、昨夜から続く城の空気の中では、その“小ささ”がかえって不気味だった。
年長の女房が近づき、器を一瞥する。
「何かありまして?」
「いえ、わたくしの気のせいならよいのですが……少し、誰かが触れたような」
女房の目が細くなった。すぐには声を荒げない。その代わり、器を持つ手つきが慎重になる。
「下げなさい」
囁くような命だった。
おきぬはこくりと頷き、器を盆ごとそっと引いた。周囲に気づかれぬよう、音を立てぬよう、何事もなかったように。
だが、もう遅い。
何も起きていないのに、何かが起きかけた気配だけは、たしかに生まれていた。
祝いの膳に混じる、冷たい視線。
誰がその器に触れたのか。
ただの手違いか、誰かの悪戯か、それとももっと別の意図か。
部屋の向こうでは、女たちが変わらぬ笑みで祝いの言葉を交わしている。
その笑みのどこかに、さっきまでとは別の薄い影が差したことに、まだ気づいている者は少なかった。
けれどおきぬだけは、膳を下げる自分の手が、少し冷たくなっているのを知っていた。




