第19話 虎哉宗乙、名の先を言う
僧の見るものは、武家の男とも、奥向きの女とも少し違う。
刀を持つ者は、つい骨と胆力を見る。
子を抱く者は、熱と機嫌と、誰に取られるかもしれぬ不安を見る。
だが、長く人の顔と声の奥を見てきた者は、そのどちらとも異なるところに目を留めることがある。
雪の朝だった。
米沢城の空はひどく白く、晴れているのか曇っているのか判じにくい。光はある。けれど温みがない。庭の木々は雪を乗せたままじっとしており、風もなく、ただ世界だけが静かに冷えている。こういう日は、音が遠くまで通る。廊下の板の鳴る気配も、火鉢の炭の小さなはぜも、普段よりはっきり耳へ届いた。
その朝、伊達家に関わる禅僧・虎哉宗乙が、奥向きの近くまで招かれていた。
大仰な祈祷のためではない。梵天丸誕生の祝いも、命名の儀も、すでにひと区切りついている。今日はもっと穏やかな、けれど軽くはない顔見せだった。
宗乙は、派手な僧ではなかった。
痩せているというほどではないが、余分のない体つきで、衣の裾さばきにも無駄がない。目は細く、頬には年相応の刻みがある。だが老いて濁った感じはなく、むしろ長い年月を経てなお、何かを見落とすまいとする静かな鋭さが残っていた。ことさらに大きな声を出すこともなく、部屋へ入るだけで周囲が自然と声を落とす、そういう種類の僧である。
おきぬは、こういう人が少し苦手だった。
武辺の男なら怖さが分かりやすい。
義姫のような鋭い人なら、何を気にしているかを読もうと身構えられる。
だが宗乙のように、ただ静かにいて、なのに何でも見ていそうな人は、若い侍女にとってどうにも落ち着かぬ。
取次ののち、宗乙はまず義姫と輝宗へ礼を尽くした。
「おめでとうござりまする」
声は低く、乾いているようでいて、どこかやわらかい。
輝宗は穏やかに応じた。
「こうして無事に見せられるのが何よりだ」
「まことに」
宗乙はうなずき、それ以上、祝いを重ね立てるようなことはしなかった。
こういうところにも、この僧の性が出る。
言葉を盛るより、置くべきところへだけ置く。
義姫は、宗乙のそういう簡潔さを嫌いではなかった。
いや、好き嫌いで言えば、むしろ好ましい部類かもしれぬ。
余計な慰めや、もっともらしい美辞を並べる者より、必要なだけ口を開く者のほうが信用できる。
やがて、喜多が梵天丸を抱いて部屋へ出ることを許された。
火鉢の熱の届く穏やかな位置へ、梵天丸の寝台ごと場が整えられる。
宗乙は無遠慮に近づきすぎず、しかし遠くから眺めるだけでもなく、ちょうど礼にかなうだけの距離を取って座した。
梵天丸は起きていた。
泣いてはいない。
白い布の中で、半ば開いたまぶたの奥から、ぼんやりと光の方を見ている。
まだ赤子の目だ。焦点も定まりきらず、何をどこまで見ているのかなど分かるはずもない。
けれど、その“はず”を、人はときに疑いたくなる。
第一章から折々に語られてきた、あの妙な静けさが、今朝もまた梵天丸の顔にはあった。
宗乙はしばらく何も言わず、その目元を見ていた。
長かったわけではない。
ほんの数息ぶんに過ぎぬ。
だが、その沈黙の間に、部屋にいる者たちはみな、僧が何を見るのかを無意識に待っていた。
鬼庭良直のような武辺者なら、「骨が太い」と言うかもしれぬ。
奥向きの女たちなら、「静かすぎる」と囁くかもしれぬ。
では、この僧は何を口にするのか。
宗乙は、ようやく静かに言った。
「……よく見る子になりましょう」
それだけだった。
あまりにそれだけなので、おきぬは一瞬、意味を取りかねた。
強い子とも、賢い子とも、福のある子とも言わぬ。
ただ、よく見る子。
部屋の中の空気が、かすかに揺れた。
輝宗はその言葉を聞いて、目を細めた。
見る――。
父としては、まず「目がよい」と聞こえる。
ものをよく見、様子を読み、ただ荒いだけではない男になるなら悪くない。
遠藤基信に言われた“まだ早い”を思い出すまでもなく、武家の当主は人を見る目を持たねばならぬ。
だから、その言葉はある種の頼もしさとして胸へ入る。
だが同時に、少し引っかかる。
鬼庭良直は「よい目」と言った。
今、宗乙は「よく見る子」と言う。
生まれたばかりの乳飲み子に、なぜそういう評が重なるのか。
ただの偶然で済ませるには、少し耳に残りすぎる。
義姫は、その言葉をまた違う形で受け取っていた。
よく見る子。
それは、よく見抜く子、にも聞こえた。
人の顔色を。
場の空気を。
言葉と沈黙の隙を。
そういう子なら、簡単に人へ呑まれぬかもしれない。
義姫にとって、その可能性は確かに魅力だった。
この子には、ただ強いだけでなく、相手をよく見て、信じすぎぬ何かが必要だと思っているからだ。
けれど別の思いも差す。
見る子は、早く知りすぎる。
知りすぎる子は、傷むのも早い。
母の沈黙や、父の迷い、人の腹の中の冷たさまで見てしまうなら、それは果たして幸いばかりだろうか。
義姫は梵天丸を見つめたまま、指先をわずかに握った。
喜多は、さらに別の場所でその言葉を受け止めていた。
乳母として日々抱いているからこそ、この子の反応の細かさはすでに知っている。
物音への早さ。
抱く者によって微妙に変わる落ち着き方。
泣く前の短い間。
眠っているようでいて、実は浅く外を拾っている気配。
だから宗乙の言葉は、妙に腑へ落ちた。
ああ、この子はそう見えるのか、と。
乳母としての観察が、僧のひとことで別の輪郭を得たような心地さえした。
「よく見る、とは」
輝宗が問うた。
宗乙はそこで初めて、梵天丸から少し目を外した。
「目が早いという意味ばかりではございませぬ」
「ほう」
「人は皆、何かを見ております。されど、見ておりながら通り過ぎるものも多い。この御子は、通り過ぎぬ目を持つやもしれませぬ」
その言い方は、予言めいてはいない。
断定でもない。
ただ、見えた気配を言葉にしただけのようだった。
それでも十分に重い。
輝宗は、小さく息を吐いた。
「通り過ぎぬ目、か」
「よきことにもなりましょうし、難儀にもなりましょう」
宗乙はあくまで静かだ。
「難儀」
今度は義姫が反応した。
「見えるものが多ければ、多いほど、人は楽には生きられませぬ」
宗乙の視線が、今度は義姫へ向いた。
「それは姫様も、よくご存じかと」
義姫は返事をしなかった。
だがその沈黙こそ、いちばん深い返事だった。
輝宗は、宗乙の言葉の中に、単なる赤子評以上のものを感じ取っていた。
目がよい、ではなく、見てしまう子。
それは武家の男子として利にもなる。
だが、同時に、人の心の濁りや、家の内の歪みまで拾ってしまうかもしれぬ。
それを父として望むかと問われれば、簡単にはうなずけない。
だが当主としては、そういう目を持つ後継もまた悪くないとも思ってしまう。
自分の中のその二つが、また少しだけぶつかった。
宗乙はそれ以上、梵天丸を持ち上げるようなことを言わなかった。
「赤子にございますれば、今はよう眠り、よう飲み、よう生きることが第一にございます」
そう結んだとき、部屋の中の張りが少しだけ緩んだ。
おきぬは、内心でほっとした。
これ以上、「この子は末恐ろしい」だの「天下に名を轟かす」だのと言われたら、どうした顔で聞いてよいか分からなかった。
宗乙は、そういう安い大言を口にしない。
その代わり、一度置いた言葉だけがやけに残る。
やがて宗乙は下がり、部屋にはまた火鉢の音と冬の白さだけが戻った。
輝宗はしばらく何も言わず、梵天丸の顔を見ていた。
義姫もまた、目を逸らさない。
喜多は抱き方を少しだけ変え、梵天丸の呼吸を確かめる。
同じ言葉を聞いても、三人は違うものを胸に残していた。
輝宗は、後継に要るかもしれぬ目を思う。
義姫は、人に呑まれぬための視線と、その代わりに負うかもしれぬ痛みを思う。
喜多は、養う者として、見えすぎる子の難儀を思う。
それぞれの胸に、宗乙のひとことが別の形で刺さっていた。
夜になった。
奥向きは静まり、梵天丸の寝所に出入りする者も限られる。火鉢の赤だけが部屋の隅に小さく息づき、障子の向こうにはまた新しい雪の気配があった。
喜多は梵天丸のそばで夜番に就いていた。
おきぬは少し離れたところで布を整えていたが、やがて役目を終えて静かに下がる。部屋には、乳母と赤子だけが残る時間が、ほんの少しだけ生まれた。
梵天丸は眠っている。
今日も静かな顔だ。
泣き疲れて眠るのではなく、自分で自分の眠りへ入っていくような落ち着きがある。
喜多はその寝顔を見ながら、宗乙の言葉を思い返していた。
よく見る子になりましょう。
その通りかもしれない。
いや、すでにその片鱗はあるのかもしれない。
けれど、見えることは必ずしも幸いではない。
人の顔色が見える。
場の濁りが見える。
言葉の裏が見える。
そういうものは、時に武器になる。
だがそれ以上に、子の胸を早く冷やすこともある。
喜多は、自分の父や弟の顔を思い出した。
鬼庭良直は骨を見る。
景綱は空気を見る。
人によって、見えるものは違う。
だが、見えるものが多いほど、生きるのが楽になるとは限らぬ。
梵天丸の小さな手が、布の上でわずかに動いた。
喜多はそっとその上へ手を添えた。
「……見る子は」
口にしてから、少しだけ間を置く。
「見えすぎて苦しむこともある」
誰に聞かせるでもない声だった。
梵天丸は眠ったまま、返事をしない。
もちろん、意味も分からぬだろう。
けれど乳母の胸には、その言葉が妙に深く沈んだ。
この子は、人に見られる子である。
同時に、人を見てしまう子でもあるのかもしれない。
その二つを背負って生きるなら、ただ強いだけでは足りぬ。
ただ優しいだけでも足りぬ。
火鉢の炭が、かすかに弾けた。
雪の夜の静けさの中で、梵天丸は変わらぬ顔で眠っている。
だが、その小さな瞼の裏に、やがてどれほど多くのものが映り込むのか――それを思うと、喜多の胸には乳母らしい情と、言いようのないかすかな恐れとが、同じだけ静かに広がっていった。




