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第18話 桑折景長、古き家の秤

 古い家には、古い秤がある。


 それは目に見えるものではない。分銅も、竿も、誰かが手に持つわけでもない。けれど、伊達の家に長く仕えてきた者たちは、それぞれ胸の内にその秤を持っていた。何が伊達らしいか。どこまでが自然で、どこからが片寄りか。誰が家の内へ近づきすぎ、誰が遠ざけられすぎているか。そういうことを、言葉にする前から量ってしまう秤である。


 梵天丸が生まれてからというもの、その見えぬ秤は、城のあちこちで前より忙しく動いていた。


 米沢城の朝は冷えていた。


 雪は降りやんでいたが、障子の向こうの白さはまだ深い。庭の石も木も、堀のほとりも、すべてが薄く凍てたように静まっている。こういう朝は、人の声がよく響く。廊下を渡る草履の裏の音も、火鉢の炭が小さく弾ける音も、いつもより遠くまで届く気がした。


 輝宗は表の一室で、桑折景長と向かい合っていた。


 景長は、遠藤基信とはまた違う種類の重さを持つ男だった。言葉を整えることに長けたというより、長く家の内側にいて、その重みそのものが言葉の後ろ盾になっているような男である。武骨すぎるわけではない。むしろ所作は整っている。だが、その整い方の中に、「自分は伊達の古い側にいる」という譜代の矜持が、隠しようもなくあった。


 輝宗は、そういう男を嫌ってはいない。

 ただ、時に面倒だとも思う。

 古い理を知る者は頼もしい。

 けれど、古い理を知っているからこそ、新しい流れに対して慎重になりすぎることもある。


 景長は礼を尽くしてから、しばらく当たり障りのない言葉を交わした。雪のこと、城下のこと、祝いのあとも続く諸々の気遣いのこと。そういう外側の話を一巡させてから、ようやく本題に近づく。


「梵天丸様も、ようやく名が落ち着きましたな」


「そうだな」


 輝宗は短く答えた。


「奥も、幾分は静まったように見えます」


 景長のその言い方に、輝宗は心の内で少しだけ笑った。


 見えます、である。

 静まったとは言い切らぬ。

 その言い回しに、この男の慎重さと含みがある。


「見えるだけか」


 輝宗がそう返すと、景長は目を伏せたまま答えた。


「人の心までは、静まったかどうか分かりませぬゆえ」


 それはもっともな話だった。


 梵天丸のまわりの秩序は、たしかに一応の形を得ている。寝所に入る者、乳を与える者、布と湯を扱う者、義姫への取次をする者。片倉喜多を中心に、奥向きの流れは整えられた。


 だが秩序ができたということは、同時に「誰がそこへ入れて、誰が外れたか」が明らかになったということでもある。

 それを、人が何も思わず見ているはずがない。


 景長は火鉢のほうへ少し視線を落とし、慎重に言葉を継いだ。


「義姫様付きの方々が、いささか勢いづいておるように見える向きもございます」


 やはり来たか、と輝宗は思った。


 あからさまな不満ではない。

 だが言わずに済ませられぬ程度には、譜代側の目にも映っているのだろう。


「勢いづく、とは」


「若君様ご誕生により、義姫様のお立場が太くなられたのは自然のことでございます」


 景長は言葉を丁寧に積む。


「それ自体に異を唱える者などおりませぬ。されど……奥向きの人の流れ、物の出入り、言葉の通り方までが、あまり一方へ寄りますると、古くから家に仕えてきた者どもの胸には、いささか冷えが残りましょう」


 偏見もある。

 輝宗はそれを知っている。

 最上から来た者たちが目につきやすいだけで、実際には喜多や授乳役、湯や布を扱う者の選り分けは、そこまで露骨に片寄せたつもりはない。


 だが一方で、景長の言葉にも一理はある。


 義姫が嫡男を産んだ以上、その側近くにいる者たちの声が強まるのは自然だ。

 自然だが、それを「自然なことだから」と放っておけば、伊達譜代の者たちは、自分たちがじわじわと奥から遠ざけられているように感じ始める。


 家の均衡というのは、実際に崩れたときより、「崩れそうだ」と思われたときのほうが先に傷むことがある。


「そなたは、どうすべきと思う」


 輝宗が問うた。


 景長は、待っていたようですぐには答えなかった。

 こういう問いには、即答しすぎぬほうがよい。

 一つ間を置くことで、自分が軽い腹積もりで言っているのではないと示す。

 譜代の重みというものは、しばしばそういう間の置き方に宿る。


「いまは……」


 景長はゆっくりと言った。


「動かしすぎぬことかと」


 その答えに、輝宗は内心でまた遠藤基信の言葉を思い出した。

 基信も同じことを言った。

 ただし、基信は“今はまだ早い”という理から。

 景長は“古い家の冷えを大きくするな”という理から。

 同じ結論に至っても、立っている場所が違えば、言葉の底は違う。


「義姫付きの者を下げよと言うのではあるまいな」


 輝宗が少しだけ鋭く言うと、景長はすぐに頭を下げた。


「そこまで申すつもりはございませぬ」


「ならば」


「ただ、譜代の者どもにも『見ておられる』と分かるような扱いを、折々にお示しになったほうがよろしいかと」


 それはつまり、役目を今すぐ動かせという話ではない。

 だが、伊達の古い側も切ってはいないと、折を見て見せてほしいということだ。


 輝宗はしばらく黙った。


 景長の言葉には、たしかに譜代側の身びいきがある。

 最上から来た者たちへのわずかな警戒もある。

 けれどその裏には、「家の骨組みを一気に揺らすな」という考えがあるのもまた事実だった。


 それをただの偏狭として退けるほど、輝宗も若くはない。


「片倉喜多を置いたことについては」


 輝宗が話をずらすように言う。


「いかが見ておる」


 景長はその問いに、少しだけ目を細めた。


「悪くはございませぬ」


「ほう」


「鬼庭の縁、片倉の筋、そのどちらも軽くはございませぬ。義姫様のお側にばかり寄る者でもなく、かといって譜代の老女どものみで固まるわけでもない。あの位置なら、今は収まりましょう」


 そこまで聞いて、輝宗はやはりこの男も秤で見ているのだと思った。


 景長は、喜多という一人の女を評価しているようでいて、実際にはその背後にある家筋の釣り合いを見ている。

 それは武家の男としてごく自然な見方だ。

 だが、そういう見方ばかりで梵天丸のまわりが固まっていくのだと思うと、父としては少しばかり息が詰まる。


「では、いまはこのままでよいと」


「はい」


 景長は答える。


「ただし、この先、学びのこと、傅役のこと、近習のこととなれば、譜代の者どもの目はもっと厳しうなりましょう」


 そこまで来ると、もはや奥向きの人の流れだけではない。

 梵天丸が少しでも大きくなれば、誰がどう教え、誰が何を近くで見せるかという話になる。

 そのときは、今よりもっと家中の秤が動く。


「まだ乳の子だ」


 輝宗が言った。


「そうにございます」


「それなのに、皆もうその先を見ている」


「それが嫡男様にございますれば」


 景長は静かだった。

 そこに同情はない。

 だが冷酷というわけでもない。

 ただ、“そういうものだ”と知っている男の声である。


 輝宗はその声を聞きながら、梵天丸のことを思った。


 まだ名を得て間もない。

 抱けば軽く、眠ればただの子にしか見えぬ。

 だが、その小さな命はもう、家中のさまざまな秤へ載せられている。

 最上との縁として。

 伊達家の柱として。

 譜代と新しい流れの釣り合いの中心として。


 父としては、そこから少し離してやりたい気もする。

 だが当主としては、それができぬのも分かっている。


「……均衡を崩すな」


 やがて輝宗は、低く言った。


「いまは、それでよい」


 景長は深く頭を下げた。


「御意」


「義姫側を押し込めるな。だが譜代の冷えも放つな」


「承りました」


「名目を立てて、人を動かしすぎるな。まだ早い」


「はい」


 景長はそれで十分と分かったのだろう。

 この男は、自分の意見を通したいのではない。

 家の秤が片寄りすぎることを恐れているだけなのだ。

 だから、御館様の口から“均衡を崩すな”が出れば、今はそれで足りる。


 話はそこで終わった。


 景長が下がったあと、部屋にはまた白い静けさが戻る。

 輝宗はしばらくその場で動かなかった。

 障子の向こうの雪明かりが、ぼんやりと部屋へ滲んでいる。


 景長の言葉は、やはり胸に残る。

 偏見もあった。

 だが偏見だけではなかった。

 伊達の古い側が何を不安に思い、何を“片寄り”と感じるかを、あの男は率直に持ってきたのだ。


 それを退けぬこともまた、当主の務めである。


 同じころ、その話の気配は、形を変えて義姫の耳にも届いていた。


 もちろん、輝宗と景長の会話そのものがそのまま伝わるわけではない。

 だが奥向きという場所では、表でどんな空気が流れたかが、やがて誰かの言葉の端や、侍女の気遣いの微妙な変化となって戻ってくる。


 「譜代の方々は、やはり見ておられます」

 そう年長の侍女が慎重に言ったとき、義姫はほとんど顔を動かさなかった。


「見ておられましょうね」


 その返しは、驚きでも怒りでもなく、ただ冷たく静かなものだった。


「義姫様付きの者どもが前へ出すぎておる、と」


「そう申す向きも」


「申すでしょう」


 義姫は寝台のほうを見た。


 梵天丸は眠っている。

 白い布の中で、何も知らぬ顔をしている。

 その寝顔に、人が勝手に秤を当てている。


 最上から来た姫が産んだ子。

 伊達の家を継ぐべき子。

 どちらの理でも語られる。

 どちらにも間違いはない。

 だが、そのどちらもが母の胸には少しずつ痛い。


 義姫は、しばらく黙って梵天丸を見つめた。


 私が産んだ。

 それは確かなのに、もうこの子は伊達の秤に載せられている。

 誰が近い、誰が遠い、誰の手が自然で、誰の声が出すぎているか。

 そういう量り方の中へ、この子はすでに置かれている。


 母としては、その秤を壊してしまいたい瞬間もある。

 けれど正室である以上、その秤の存在を無視もできない。


 義姫は胸の内で、ほとんど苦く思った。


 この子は、私が産んでも、伊達の秤に載せられる。


 その思いは、怒りとも悲しみとも言いきれぬものだった。

 ただ、雪の冷たさのように静かで、逃れようのない現実として胸へ落ちる。


 梵天丸は眠ったまま、指をかすかに動かした。

 まるで何かをつかもうとするように。

 あるいは、すでに見えぬ秤の上へ置かれたことを、まだ知らずにいるだけのように。


 義姫はその小さな手を見つめ、声には出さず、ただ心の中でもう一度その言葉を繰り返した。


 ――この子は、私が産んでも、伊達の秤に載せられる。


 火鉢の炭が、遠くでかすかに鳴った。

 雪に閉ざされた城の中で、母の胸にだけ、その音がひどく冷たく響いた。

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