第17話 遠藤基信、言葉で家を守る
武家の家は、刀だけで立っているわけではない。
戦場に立てば、たしかに槍の長さと馬の強さと、腹の据わりがものをいう。だが城に戻れば、家を保つのは別の力だった。人の顔色を読み、言いすぎぬように言い、黙りすぎて不安を招かぬようにもする。誰を前へ出し、誰を今は伏せさせ、何を見て見ぬふりをし、何を見ぬままでは済ませぬか。その積み重ねで、家の骨は折れずに済む。
伊達輝宗は、その日の朝、そういう男と向かい合っていた。
遠藤基信である。
米沢城の表は、冬らしい張りつめた静けさに包まれていた。雪は夜のうちにまた薄く積もったらしく、庭先の石も松の根元も、白をうっすらと被っている。空は明るいが、陽の色に温みはなく、渡り廊下の板は冷たく乾いていた。そういう朝は、かえって人の声がよく通る。
輝宗は、表向きの用向きをひととおり片づけたあと、奥へ近すぎぬ一室に基信を呼んだ。
基信は、武骨さで人を圧する男ではなかった。年頃は壮年に差しかかり、衣も所作も整っている。目立つほどの華やぎはない。だが、よく整えられたものは崩れにくい。そういう意味で、いかにも「言葉で場を保つ」ことに向いた男だった。
部屋に通されると、基信は無駄のない礼を取った。
「御館様」
「よう来た」
輝宗は短く応じ、向かいへ座るよう目で示した。
火鉢の炭が静かに赤く、二人のあいだの空気を少しだけ和らげている。障子の向こうの白さが、かえって部屋の内側を引き締めてもいた。
しばらく、すぐには本題へ入らぬ間があった。
こういう間は大事だ。
何を言うかだけではなく、どう入るかで話の温度が決まる。
焦れば、こちらが気にしていることを相手に余計に気づかせる。
軽すぎれば、話の重みが消える。
やがて輝宗が、淡く口を開いた。
「奥のほうも、ようやく少しは静まった」
基信はその言葉をそのまま受けた。
「梵天丸様のご命名も済み、皆の心も少し置き場を得たのでございましょう」
「置き場、か」
輝宗は小さく繰り返した。
「そううまくいけばよいが」
その声には、父としての安堵と、当主としての警戒が混じっていた。基信はそれを聞き漏らさない。
「安堵しておる者は多うございましょう」
「そうだろうな」
「嫡男様ご誕生とあらば、家の筋が見えます」
言いながら、基信は言葉を少しだけ選んだ。
「それゆえ、安心もある。されど――」
「それゆえ、先回りもある」
輝宗が先を継いだ。
基信は目を伏せ、わずかに笑んだ。
「御意」
その笑みは、面白がってのものではない。むしろ、避けようのない現実を確認したときの苦いものに近かった。
嫡男が生まれた。
それは家にとって大きな吉事である。
だが吉事だからこそ、人はそこへ寄ってくる。
若君のそばに誰が置かれるか。
誰が将来の傅役となりうるか。
誰の家が、この先近くなるか。
そうした算段は、刀を抜かずとも、祝いの言葉の裏で静かに始まる。
輝宗は火鉢のほうへ手をかざした。
温もりはある。だが、冬の朝の冷えを完全に追い払えるほどではない。
それが、今の家中の空気にも似ていると思った。
梵天丸誕生という熱はある。
だが、その熱のまわりには、冷えた計算もたしかに生まれている。
「そなたの目には、どう見える」
輝宗が問うた。
基信は少し考えてから答えた。
「露骨に動く者は、まだおりませぬ」
「まだ、か」
「はい。いま前へ出るのは、あまりに早うございます。されど、早いからとて、何も考えておらぬわけではありますまい」
もっともな話だった。
「誰が、どこで、何を気にしている」
輝宗の問いは具体である。基信もまた、具体で返した。
「最上との縁が太くなったことを良しと見る者はおります」
「当然だな」
「一方で、奥向きの人の流れが最上筋へ寄りすぎることを、面白く思わぬ譜代もおります」
そこまで聞いて、輝宗は目を細めた。
面白く思わぬ――その言い方は、基信らしい抑えた言葉である。
実際には、もっと露骨な不安や不満もあるのだろう。
「表立って申す者はありませぬが」
基信は続けた。
「皆、それぞれに『どこまでが自然で、どこからが片寄りか』を見ておるのでしょう」
「それを決めるのは、こちらだ」
「はい」
基信は即答した。
「ゆえにこそ、いま役目を動かしすぎぬほうがよろしいかと存じます」
その言葉に、輝宗は少しのあいだ黙った。
基信の言う通りでもある。
梵天丸のまわりの役目は、ようやく最初の型ができたばかりだ。
ここで誰かを上げ下げし、ある家を近づけ、ある家を遠ざければ、それ自体が「御館様はすでに先を決めておられる」という合図になってしまう。
合図は、時に矢より速く広がる。
「喜多を中心に置いたことについては」
輝宗が言いかけると、基信は少しだけ顔を上げた。
「悪くはございませぬ」
「ほう」
「片倉の家筋に、鬼庭の縁もございます。最上一辺倒に見えず、されど義姫様の御心も損ねにくい。少なくとも今は、あれでよろしいかと」
輝宗は、その評価に内心でうなずいた。
自分が考えた筋道を、基信も同じように見ている。
それは頼もしさでもあり、また「やはり人はみなそこを見ているのか」という再確認でもあった。
「だが、いずれは男どもの出番になる」
輝宗が言う。
基信はわずかに頷く。
「それもまた、自然のことでございましょう」
「傅役、近習、学びの相手、馬のこと、弓のこと……」
「はい」
「その前に皆が色気を出し始めれば、厄介だ」
輝宗のその言葉には、うんざりしたような本音が少しだけ混じっていた。
基信はそこに、父としての感情と当主としての先読みの両方を見た。
「ならば今は」
基信は静かに言う。
「“まだ早い”を通すのがよろしいかと」
「何度もか」
「何度でも」
その答えに、輝宗はふっと笑った。
「嫌われるぞ」
「御館様が嫌われて済むなら、安いことでございましょう」
その返しに、輝宗は少し肩の力を抜いた。
基信という男は、こういうところがある。
ことさらに忠義を叫ぶでもなく、勇ましいことを言うでもない。
ただ、家を静かに守るために、誰が少し嫌われれば済むかを冷静に考える。
それがどれほど大事か、武辺一辺倒の家臣には分からぬことも多い。
輝宗は、そこでひとつ別のことを思った。
梵天丸はまだ乳飲み子だ。
それなのに、もうこうして家中の顔ぶれを見渡し、「今は早い」を誰に言い続けるかを考えねばならぬ。
父としては、ただ丈夫に育ってくれればと思う。
だが当主である以上、それだけでは済まぬ。
「子が生まれただけで、人が動く」
輝宗がぽつりと言った。
基信は答えなかった。
その代わり、わずかに目を伏せた。
それで十分だった。
その一言には、誇らしさも、疲れも、少しの苦笑も入っていたからだ。
しばらくしてから、基信はあらためて口を開いた。
「御館様」
「何だ」
「義姫様の御心も、よくお汲みになるべきかと」
「分かっている」
「最上より来られた方々が勢いづくのは自然。されど、それを抑え込めば、今度は御産後の義姫様の御心が冷えましょう」
「……そなたに言われずとも、それは分かる」
輝宗の返しは少しだけ硬かった。
基信はすぐに頭を下げた。
「出過ぎました」
「いや」
輝宗はすぐに打ち消した。
「出過ぎではない。言う者がいなければ、こちらも自分の考えを広げすぎる」
それもまた本音だった。
当主とは、自分の考えがそのまま通ってしまう立場である。
だからこそ、穏やかに異を挟める者が要る。
輝宗は目を少し遠くへやった。
義姫は強い。
その強さに助けられることも多い。
だが強い女ほど、孤立も深い。
最上の姫として嫁ぎ、伊達の正室として座し、いまは嫡男の母である。
そのどれもが彼女を支え、同時に縛っている。
梵天丸の誕生で、義姫の立場はたしかに太くなった。
だが太くなったからこそ、周りの目もまた増えている。
そのことを、輝宗はよく分かっていた。
「……あれも、気を張っている」
誰にともなく漏らすように言う。
基信は、あえて「義姫様は」と言い換えなかった。
夫婦の間の呼び方にまで踏み込まぬのが、この男の利口さだった。
「御産後にございますれば、なおさらに」
「そうだな」
「梵天丸様が、ただめでたいだけの御存在ではないことを、義姫様が誰より知っておられるのでしょう」
その言葉に、輝宗はうなずいた。
第一章の最初、ただ無事を願っていた夜はもう遠い。
いまは梵天丸という名がつき、乳母が定まり、寝所の秩序が定まり、同時に人の視線も定まりつつある。
それは家が整うということであり、同時に、家の中の人の欲が形を持ち始めるということでもある。
基信は立ち上がる前に、最後にこう言った。
「いまは、あまり先を決めすぎぬことかと存じます」
「男どもの役目のことか」
「はい。学びのこと、傅役のこと、近習のこと。皆、いずれ必要になります。されど、早うから名を出せば、名の出なかった家が必ず余計なことを考えます」
輝宗は、その言い方に苦笑した。
「余計なこと、か」
「家を潰すのは大ごとばかりではございませぬ」
基信のその一言は、静かで、よく利いた。
祝い膳の違和感、寝所の香、女房同士の浅い細工。
そういう“小さな余計なこと”を、梵天丸の周りでこの数日、輝宗も嫌というほど見てきた。
家というものは、たしかにそういうものでも崩れる。
「分かった」
輝宗は言った。
「しばらくは、いまのまま置く」
「それがよろしゅうございましょう」
基信は深く頭を下げ、静かに退いた。
部屋に一人残ると、急に火鉢の音が耳についた。
ぱち、と小さく炭が鳴る。
雪明かりに白く濁った障子が、部屋の中の静けさをいっそう際立たせる。
輝宗はその場でしばらく動かなかった。
生まれただけで、人を動かす。
さきほど漏らした自分の言葉が、もう一度胸に返ってくる。
梵天丸はまだ何もしていない。
泣き、眠り、乳を飲むだけの赤子だ。
それなのに、人はそのまわりで動き始める。
寄りたがる者。
今はまだ早いと抑える者。
均衡を見ようとする者。
最上との縁を数える者。
伊達譜代の理を思う者。
そのすべてが、まだ名を得て間もない赤子の周りで、すでに始まっている。
誇らしいことでもある。
嫡男とは、そういうものだ。
家がその存在を軸にできるというのは、喜ぶべきことでもある。
だが同時に、父としては少し気の毒にも思う。
何も知らぬうちから、人の期待や都合に引かれていくのだから。
輝宗は立ち上がり、奥のほうへ目をやった。
梵天丸は今ごろ、喜多の腕か、寝台の中で静かにしているのだろうか。
その小さな命が、城の内外にどれだけの波を立て始めているかなど、知るはずもない。
「……強くならねばならぬな」
独り言のように呟く。
それが梵天丸に向けたものか、自分に向けたものかは、もはや分からなかった。
表では、また別の足音が近づいてくる気配があった。
伊達家の当主としての一日は、梵天丸の寝息とは別のところで止まらぬ。
けれど今日のこの短い話で、輝宗の中では一つ、はっきりしたことがある。
まだ早い。
そして、まだ早いからこそ、人はもう動いている。
雪の朝の静けさの中で、遠藤基信の残した言葉は、火鉢の熱のようにじわじわと部屋へ残っていた。




