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第16話 授乳の女房、抱く乳母

 赤子を育てる手は、一組では足りない。


 それは冷たい理屈ではなく、あまりにあたりまえの現実だった。


 梵天丸が生まれてから、奥向きでは多くの女たちがその寝息のまわりに集まり、やがて役目ごとに選り分けられていった。片倉喜多が乳母として中心にある。それはもう誰の目にも明らかである。だが中心にあるということは、何もかもを一人で担うという意味ではない。


 むしろ逆だった。


 一人では、とても足りぬ。


 雪の朝であった。

 障子の向こうは白く、火鉢の熱の届く内側だけが人のいる場所の色を保っている。部屋には乳の匂い、湯の匂い、炭の匂い、薬草のごく薄い香りが重なっていた。冬の奥州の城の中で、梵天丸の寝所だけが、小さな命を囲むために別の時間を生きているように見える。


 喜多は寝台のそばに座し、梵天丸の機嫌を見ていた。


 白い布に包まれた小さな身体は、乳を欲しがる前の癖を少しずつ見せ始めている。唇の先がわずかに動き、手が布の上で開き、呼吸が少し浅くなる。泣き出す前に、その気配がある。


「そろそろにございます」


 喜多が低く言うと、控えていた授乳役の女房がすぐに前へ出た。


 年は二十代の後半ほどか。体つきはしっかりとしており、顔立ちは華やかではないが、動きに迷いがない。乳を与えることは、この女房の役だ。喜多は梵天丸を抱いてあやし、熱を見、眠りを見、寝所の秩序を守る。だが、乳を含ませる役目そのものは別にある。


 おきぬはそのやり取りを、少し離れたところから見ていた。


 最初のころは不思議だった。

 喜多が乳母なのだから、乳も喜多が与えるのではないか――そんなふうに、若い侍女は漠然と思っていたのだ。

 だが実際は違う。


 抱く者。

 乳を与える者。

 布を替える者。

 湯を整える者。

 熱や顔色の変わりを真っ先に拾う者。

 義姫へ言葉を通す者。


 どれも女の手だ。

 どれも優しさの内に見える。

 けれど実際には、それぞれが違う責めを持ち、違う緊張の上に立っている。


 授乳役の女房が膝を進めると、喜多は梵天丸をそっと差し出した。渡すときの手つきに無駄がない。寝入りかけの赤子を驚かせぬ角度、首と背の支え方、受け取る側が次にどう動きやすいかまで含めて、もう二人の間に型ができ始めている。


「今日は早いですね」


 授乳役の女房が小さく言った。


「朝の冷えが強うございます。眠りが浅かったのでしょう」


 喜多の返しも静かだった。


 義姫は、その一連の動きを少し離れたところから見ていた。


 ここ数日で、体は少しずつ戻ってきている。けれどまだ、起きていられる時間は限られるし、長く抱き続ければ腕も腰もすぐに痛む。産んだのは自分だ。だが育てる場面の多くは、もう自分一人の手の届かぬところで進んでいく。


 授乳役の女房が、衣を整えて梵天丸へ乳を含ませる。


 場は、しんと静かだった。

 赤子が乳を飲むとき、余計な声は要らない。

 火鉢の炭が小さく鳴り、布の擦れる音がわずかにするだけ。

 梵天丸の口元が規則正しく動き、そのたびに小さな喉がごくりと上下する。


 命が命をつないでいる。

 それは、眺めようによっては、ひどく静かな営みだった。


 義姫はその光景から目を逸らさなかった。


 自分の子が、他の女の乳で満たされていく。

 武家の家では珍しいことではない。むしろ、自然なことだ。乳の出る女を置き、乳母を立て、侍女たちが周囲を固め、そうして若君は育っていく。誰もが知っている理である。


 それでも、知っていることと、胸が痛まぬことは違った。


 この子は私の腹を出た。

 私の血を分けて生まれた。

 なのに、いまこの命を満たしているのは、別の女の体だ。


 その現実は、理屈で片づけられるものではなかった。


 喜多は、義姫の視線を感じていた。


 だからといって、余計な慰めを口にはしない。

 「こういうものです」と言ってしまえば、正しすぎる。

 「おつらいでしょう」と言えば、かえって浅い。

 母の複雑さは、同じ女であっても簡単に代弁できるものではないと、喜多は知っていた。


 だからただ、乳を飲む梵天丸の頬色と、授乳役の姿勢を見ていた。

 乳の出はよいか。

 飲み方は落ち着いているか。

 途中で息が上がっていないか。

 飲んだあとに熱がこもらぬか。


 乳母というのは、抱く者であり、同時に見る者でもある。

 自分の乳を与えぬからこそ、全体を見ねばならぬ。

 それが喜多の持つ役の重さだった。


 やがて梵天丸が乳を離すと、授乳役の女房は小さく息を整えた。額にはうっすら汗がある。冬の朝であっても、赤子へ乳を含ませるというのは、体力の要る仕事なのだ。


「よう飲まれました」


 おきぬがそっと言う。


 授乳役の女房は笑みを見せたが、それは誇らしさより安堵に近いものだった。


「今日は機嫌がようございましたから」


 その言い方にも、おきぬは奥向きの仕事の厳しさを感じる。

 ただ乳をやればよいのではない。

 機嫌、眠り、抱かれ方、熱、部屋の温度、そのすべてが少しずつ噛み合って、ようやく“よう飲まれました”になる。


 喜多が手を伸ばし、梵天丸を受け取った。

 飲んだあとの赤子は少し重たくなる。

 腕の中で体温が落ち着くまでの間に、背を軽くさすり、顔色を見、苦しそうでないかを確かめる。


 授乳役の女房はその間に衣を直し、脇へ控える。

 そこにもまた、役目の分かれ目があった。

 乳を与えた女が、そのまま中心へ残るわけではない。

 抱く者は喜多。

 寝かせる角度を決めるのも喜多。

 夜の変わりを覚えておくのも喜多だ。


 授乳役の女房は、すこし息を整えてから義姫へ深く頭を下げた。


「本日も、ようお飲みあそばしました」


 義姫は短くうなずいた。


「ご苦労」


 それだけの言葉だった。

 冷たく聞こえるかもしれぬ。

 だが義姫は、この女房の働きを軽んじてはいない。軽んじてはいないが、感謝を柔らかく言葉にしてしまえば、自分の胸の内の痛みが崩れそうになるのだ。


 授乳役は一歩下がった。


 その背に、おきぬはひそかな誇りを見た。

 誰より前へ出る仕事ではない。

 名も残りにくい。

 けれど、この役目なしには梵天丸は育たぬ。

 そういう実務の重さを、この女房は身をもって知っている。


 しばらくして、湯役の女房が新しい湯を持ち、布役の女房が洗い立ての布を運び、薬湯を扱う女房が義姫のための支度を整えた。

 誰もが目立たぬように動く。

 けれど、そのどれが欠けても、この部屋の秩序は崩れる。


 人は、若君を見ればつい中心の者ばかりを見る。

 乳母。

 母。

 父。

 だが実際には、その小さな命は、もっと多くの手の上に載せられている。


 義姫はそのことを、嫌でも見せつけられる。


 梵天丸を生かしているのは、自分だけではない。

 授乳役の女房がいて、喜多がいて、夜番の侍女がいて、湯と布を扱う者がいて、薬草の知恵を持つ者がいる。

 それぞれが少しずつ、この子を支えている。


 母としては、ひどくありがたい。

 だが同時に、それがひどく切なかった。


 産んだのは自分だ。

 痛みも、血も、夜の恐れも、自分の身で越えた。

 なのに、育つということは、もう自分だけのものではない。


 義姫は、やがて人払いをした。


 喜多も、授乳役も、年長の侍女たちも下がり、部屋には火鉢の音と、遠くで雪の気配を含んだ静けさだけが残る。梵天丸は寝台で、飲んだあとの安らいだ顔をして眠り始めていた。


 義姫は一人になってから、ようやく表情を少し崩した。


 母であることは、もっと自分ひとりのものだと思っていたのかもしれない。

 だが実際には違う。

 母であることは、産んだ瞬間からもう、多くの手と役目の中へ分けられていく。


 それが武家の現実。

 それが大名家の赤子を育てるということ。


 分かっていた。

 頭では分かっていた。

 けれど、分かっていてなお、胸の奥に残る寂しさまでは消せない。


 義姫は梵天丸の寝顔を見つめた。

 頬にはさきほどの乳のぬくもりがまだ残っている。

 小さな口元は満ち足りたように緩み、指先だけが布の上でかすかに動いた。


 その顔を見ていると、かえって胸が痛んだ。


 この子は私の子だ。

 それは変わらない。

 けれど、この子が育つ過程は、もはや私ひとりの腕の中には収まらない。


 義姫は、誰にも聞かれぬ声でぽつりと呟いた。


「産むのは私。育つのは、皆の手の中で、か」


 その言葉は、恨みではなかった。

 諦めとも少し違う。

 もっと静かで、もっと深い、母だけが知る孤独の形だった。


 火鉢の炭が、かすかに鳴った。


 外では雪が降り続いている。

 城の外も、城の内も、白く静かだ。

 その静けさの中で、梵天丸は多くの女の手を渡りながら、少しずつ生かされていた。

 そして義姫は、その現実を受け入れねばならぬ母として、ただ一人で座していた。

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