第15話 鬼庭良直、孫を見る目
武辺の男というものは、赤子を前にしても、結局は戦の理で物を見る。
そう思わせる男が、この日、雪を踏んで奥向きの近くまでやって来た。
鬼庭良直――伊達家中でも一段と名の通った武辺者であり、片倉喜多の父でもある。人の話を飾って聞くような男ではない。戦場で役に立つか立たぬか、腹が据わっているかいないか、ものを見る目に濁りがあるかないか。そのあたりで人を量る癖が、衣の裾より先に歩いているような男だった。
米沢城は、その日も冬の白さに包まれていた。
堀端には雪が重く積もり、城門から続く道も、踏み固められたところだけがかろうじて土の色を見せている。空は明るいのに暖かさはなく、吐く息はたちまち白く砕ける。そんな朝、良直は表にて輝宗へ挨拶を済ませたあと、奥向きへ上がる許しを得た。
もちろん、誰でも好きに奥へ入れるわけではない。
まして梵天丸の寝所まわりは、ここしばらくで一層、出入りが厳しくなっている。
だが良直は、ただの見物人ではない。
鬼庭の家としての重みもあれば、乳母となった喜多の父としての筋もある。
無遠慮に踏み込むためではなく、きちんと礼を通した上で、短く顔を見る。それならば許される立場にあった。
奥へ近づくにつれて、城の空気が変わる。
表の男たちの声は遠のき、代わって火鉢の匂いと乳の匂い、そして人が声を潜めて生きる場所の、独特の静けさが立ち上ってくる。良直のような男には、いささか息の詰まる空気であったかもしれぬ。けれど彼は眉ひとつ動かさず、ただ背筋をまっすぐにして歩いていた。
喜多は、父が来たと聞いてもすぐには表情を変えなかった。
梵天丸を抱き、寝台のそばに座したまま、まずは御子の機嫌と部屋の様子を確かめる。父が来るからといって、乳母の手が緩んでよい理由にはならない。そういう線引きを、いまの喜多は自分の中で強く持っている。
それでも、鬼庭良直が襖の外に控えていると聞くと、胸のどこかに、家の土の匂いにも似た感覚がよぎった。
父である。
親しいとは、言い切れない。
遠いとも、言い切れない。
幼いころから、良直は優しく言葉を尽くす父ではなかった。褒めるにしても「よし」の一言、叱るにしても「違う」で済ませるような男である。娘に情がないわけではない。だがその情の見せ方を、もともとよく知らぬ人なのだと喜多は思ってきた。
だから会うたび、胸の内には少しだけ硬いものが残る。
娘として甘えたいわけではない。
けれど相手が父である以上、ただの他人でもいられない。
その半端な距離が、いまも消えずにある。
取次の侍女が静かに声をかけた。
「喜多殿。鬼庭殿が」
「お通しなさい」
ほどなく、良直が入ってきた。
無骨な男である。
年は重ねているが、背はまだ崩れず、肩のあたりには武人特有の重さがある。顔には深い皺が刻まれているが、それは衰えというより、これまで見てきた死地と歳月がそのまま沈んだような刻み方だった。目つきは鋭い。奥向きの柔らかな空気に収まりきらぬものがある。
部屋へ入った瞬間、おきぬは思わず背筋を伸ばした。
何かを怒鳴ったわけでもないのに、その場の温度が少し変わる。
武辺の男とは、こういうものかと若い侍女は黙って息を呑んだ。
良直はまず、義姫の方へ礼を尽くした。
正室のいる場である以上、それを違えるほど粗野ではない。
義姫もまた、鬼庭良直という男を軽くは見ていない。
伊達家中において、武辺としての信を積んできた男であり、同時に喜多の父である。
ゆえに、ただの老人として扱うことはない。
「鬼庭殿」
「お加減はいかがにございます」
「ようやく、少しずつ」
「それはようございました」
言葉は短い。だが、それで十分だった。
良直は無駄に柔らかな物言いをせず、義姫もまた、それ以上を求めない。
やがて良直の視線が、喜多の腕の中にある梵天丸へ向いた。
そのときだけ、ほんの少し、目の奥の色が変わった。
孫を見る目――と、簡単に言ってしまえばそうなのかもしれない。
だがそこには、ただの祖父の情だけではないものも混じっていた。
武家の男子を見る目。
家の先を背負うかもしれぬ幼子を見る目。
そうしたものが、老人の鋭い眼差しの底にある。
「……静かな子だな」
良直がまず言った。
喜多は短く答える。
「はい」
「よく眠るか」
「眠るときは。だが、起きておるときはよく見ております」
その返しに、良直はわずかに鼻を鳴らした。
娘らしい物言いだと思ったのかもしれぬ。
ただ可愛いとか、よく泣くとか、そういう話ではなく、“見ている”と来た。
「抱いておるのは、おまえか」
「いまはわたくしにございます」
「手は慣れたものだ」
「そう見えるなら」
そこで一瞬だけ、父娘のあいだに微かな間が落ちた。
良直に褒められたと言ってよいのか分からぬ言い方。
喜多もまた、素直に礼を返すほど柔らかくはない。
だが棘立てるほど遠くもない。
その曖昧な距離が、二人にはかえって自然だった。
良直は少し近づき、喜多の許しを待つように一拍置いてから、梵天丸の寝顔を見下ろした。
赤子は機嫌よく眠っている。
顔はまだ丸く、頬は柔らかく、どこからどう見ても今はただの幼子だ。
それなのに良直は、しばらく黙って見たあと、ぽつりと言った。
「骨が太くなりそうだ」
おきぬには、その言葉の意味がすぐには分からなかった。
骨が太い。
赤子を見て、そんなことを言うのか。
けれど良直にとって、それは武家の男子へのほとんど本能のような見方なのだろう。手足のつき方、胸の呼吸の深さ、泣き方の質、抱かれたときの体のこわばり――そうしたものを、この男は戦に立つ男の形へ勝手につなげて見てしまう。
義姫はその一言を聞いて、目を細めた。
男たちは、幼子に対して時に驚くほど単純だ。
丈夫そうだ、骨が太そうだ、目がよい、泣き声が大きい。
それだけで先の強さを喜ぶ。
もちろん、その単純さの中にも真実はあるのだろう。
武家の嫡男に弱さがあってよいとは、誰も言わぬ。
けれど義姫には、その見方がどこか恐ろしくも感じられた。
まだ何も知らぬ子に、もう武家の男としての期待を載せる。
その荒さが、母の目には寒々しい。
「鬼庭殿は、ずいぶん早うから先をご覧になる」
義姫が静かに言うと、良直は頭をわずかに下げた。
「武家の子にございますれば」
「まだ乳の子でございます」
「乳の子ゆえ、でございましょう」
良直はまっすぐに答えた。
「乳の子のうちに見えるものもあります」
義姫はそれ以上言い返さなかった。
否定しても無駄だと知っている。
この男にとって、赤子は愛でるだけのものではない。
将来、馬上に立つかもしれぬ者として、最初から見てしまうのだ。
喜多は、そのやりとりを聞きながら胸のどこかで小さく息をついていた。
父は梵天丸を“家の先”として見る。
それは分かる。
鬼庭良直という男が、そうでないはずもない。
だが乳母として毎日抱いている身からすると、それは少し早すぎるようにも思える。
梵天丸は、まだ眠り、乳を求め、機嫌が悪ければ眉を寄せるだけの子だ。
家の先でも、武の柱でもない。
今この瞬間は、ただ生かされ、守られねばならぬ小さな身体でしかない。
それでも、父の見方をまるきり否定しきれない自分もいることを、喜多は知っていた。
この子が伊達家の嫡男である以上、いずれ誰もがそう見るようになる。
ならば、いまからその重みを感じる者がいても不思議ではない。
喜多は自分の中に、乳母としての眼と、武家の家の女としての眼が同時にあるのを感じた。
その二つが重なるときもあれば、ぶつかるときもある。
いまは、どちらかといえばぶつかっていた。
良直はしばらく梵天丸を見たあと、ふいに喜多へ言った。
「疲れておるか」
意外な問いだった。
喜多は一瞬だけ父を見た。
「……務めにございます」
「務めでも、疲れるものは疲れよう」
「父上に案じられるとは思いませなんだ」
その返しに、良直はわずかに口の端を動かした。笑ったと言うには荒い、しかし完全な無表情でもない。
「案じてはおらぬ。倒れられては困るだけだ」
「それなら安心いたしました」
父娘の会話としては、あまりに乾いている。
だが、その乾きの奥にかすかな情があることを、二人とも知っていた。
他の者には少し刺々しく見えても、これがこの二人の遠さであり近さなのだ。
義姫はそのやりとりを横目で見て、また別の感情を抱いていた。
喜多は強い。
それはもう疑いない。
この父のもとで育ち、このような物言いを身につけ、それでいて奥向きで必要な柔らかさも失っていない。
そういう女を乳母に持つことは、梵天丸にとって悪くない。
だが悪くないことと、安心できることは違う。
強い乳母は、子のそばに深く根を下ろす。
それを使えると思う反面、母としては本能的に身構えてしまう。
義姫の胸には、またその複雑な感覚が広がっていた。
やがて良直は、もう長居はせぬというふうに身を引いた。
「よう見せてもらった」
その一言で十分という顔だった。
梵天丸は、相変わらず眠っている。良直がこれほど大きな影を部屋へ持ち込んだというのに、泣きもせず、ただ静かに寝息を続けている。
「騒がぬな」
良直がもう一度言う。
「はい」
喜多が答える。
「騒がぬ子ほど、よく見よと申します」
「そうだな」
良直はそれにうなずいた。
そして帰り際、表へ戻る前に輝宗とすれ違った。
短い時間だったが、男同士の間にはそれで足りるものがある。
輝宗が目で問えば、良直もまた目で返す。
「ご覧になったか」
「見ました」
「いかがであった」
輝宗は穏やかに尋ねたが、その声音の底には父としてのわずかな緊張もあった。良直のような男が、自分の子をどう見るか。聞いておきたい気持ちがあるのだ。
良直は少しだけ振り返り、奥のほうを見やった。
「よい目をしております」
それだけ言った。
たった一言。
だがその言葉は、輝宗の胸に妙な重さを残した。
誇らしいとも思う。
父としては、そう言われればやはり嬉しい。
目がよい、というのは武家の男子には悪くない評だ。
けれど同時に、不穏でもあった。
第一章の初めから折々に語られてきた、あの妙な静けさ。
見ているような、見抜いているような、年に似合わぬ目元。
それが、鬼庭良直のような男にまで「よい目」と言わせるのだ。
輝宗は短くうなずいた。
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
聞けば、言葉にしすぎてしまいそうだったからだ。
良直はそのまま去っていった。
雪の気配を衣にまとい、武辺の男らしい重さを残して。
あとには、火鉢の熱と、梵天丸の静かな寝息と、そして「よい目をしております」という一言だけが残った。
父としては誇らしい。
当主としては少し気になる。
乳母としては、ますますよく見ておかねばならぬと思う。
母としては、男たちが幼子へ向ける期待の荒さに、やはり冷える。
同じ赤子を前にしても、見る者の胸の内で、こうも違う思いが生まれる。
梵天丸はまだそれを知らない。
ただ静かに眠っているだけで、人の心をそれぞれ別の方角へ揺らしていた。




