第14話 片倉の家より来るもの
家の匂いというものは、衣に移る。
それは香のように強く残るものではない。長く身を置いた場所の、炭の焚き方、味噌の匂い、木の湿り、布の洗い方、そうした細かなものが重なって、人の袖や髪にうっすらと染みつく。だから長く城勤めをしている者は、何も言わずとも「どこの家の気配をまとっているか」を、ぼんやりと感じ取ることがある。
その日、片倉喜多のもとへ届いた品にも、たしかにそういう匂いがあった。
米沢城の奥向きは、変わらず冬の白さに閉ざされていた。障子の向こうの庭は雪に埋まり、枝先まで重たげに垂れている。火鉢の熱が届く部屋の内側だけが、乳と湯と炭の匂いで人のいる場所の温度を保っていた。
梵天丸は、ちょうど乳のあとで機嫌よく眠っていた。
喜多は寝台の脇で布を整えていたが、取次の侍女が静かに入ってくると、手を止めた。
「喜多殿」
「何」
「片倉の家より、少々のお届け物が」
喜多はすぐには返事をしなかった。
乳母として奥へ上がってから、外から物が届くこと自体は不思議ではない。替えの衣、手に馴染んだ小物、寒さをしのぐための細かな支度。だが今の喜多は、ただの家の女ではない。梵天丸の乳母であり、その寝所に出入りする中心のひとりである。ゆえに、外から来るものは何であれ、軽く受け取るわけにはいかなかった。
「中身は」
「衣と、手袋、それに家からの言伝と」
「ここへ持ち込む前に見なさい」
「は」
取次の侍女はすぐに頭を下げる。
喜多はその背を見送り、寝台の中の梵天丸へ目を戻した。眠りは浅くない。呼吸も穏やかだ。名がついてから数日、梵天丸のまわりの秩序は少しずつ定まりつつあるが、その分だけ人の出入りや物の扱いには神経を尖らせねばならない。
しばらくして、改めて包みが運ばれてきた。
中身はたしかに身の回りのものだった。厚手の布で仕立てた手袋、縫い目の細かな内衣、針と糸を納めた小箱。それに、家からの口上を伝えるために来た者が、廊下の先で控えているという。
喜多は一つ一つに目を通した。
品は飾り気がない。だが無駄がなく、よく手に馴染みそうだった。いかにも片倉の家らしいと思う。余計な華やぎより、使って崩れぬことを先に考える家だ。
そこへ、年長の侍女が近づいてきた。
「姫様のお許しは取っております。家からの者を、廊下まで」
義姫の差し図が通っているなら、断る理由はない。
「よろしい。だが、ここへは入れずに」
「承知しております」
喜多は一度、梵天丸の寝姿を確かめたあと、部屋を出た。
廊下は冷えていた。障子の向こうから雪明かりがにじみ、板の間には冬の硬さが残っている。その先に、小さな影がひとつ、行儀よく控えていた。
最初、おきぬはそれを小姓かと思った。だが、近づいて見れば違う。子どもである。まだ少年にもなりきらぬ年頃、けれど立ち方には妙なきちんとしたところがある。袖はよく整えられ、視線は忙しなく動かぬ。叱られて固まっているというより、自分から場に合わせている様子だった。
片倉景綱である。
もっとも、この時点ではまだ「後の小十郎」などと呼ばれるはずもない。ただ、喜多の異父弟として、片倉の家から遣わされた幼い男子にすぎない。
だが、その幼さの中にも、目の置き場のよさがあった。
人が話しているときには口を挟まず、呼ばれるまで前へ出ず、しかし周囲の空気だけはよく見ている。
ただの利発とは少し違う、身を小さくして場に収まる術を、もう身につけ始めている子だと分かる。
「姉上」
景綱は喜多を見ると、さっと頭を下げた。
その声音にだけ、わずかに年相応の甘さが混じる。
喜多はそれを聞いた瞬間、ほんの少し顔の力を抜いた。
「来たの」
「家より、冬の支度を届けよと」
「ご苦労でした」
口ぶりは変わらず落ち着いている。
だが、おきぬはその横顔に、ごくかすかな柔らかさが差すのを見た。梵天丸の前で見せる乳母の顔でもなく、年長の侍女たちと渡り合うときの冷静な顔でもない。もっと身近な、家の中だけで出るような表情だった。
景綱もまた、それを見て少し安心したように目を和らげる。
「寒うはございませぬか」
「寒くないと言えば嘘になるわね」
「なら、よかった」
「何が」
「寒いのは、家でも同じですから」
その返しに、喜多はわずかに眉を上げた。
子どもの言葉だが、ただの慰めではない。姉だけが苦しい場にいるのではない、と言いたいのだろう。幼いなりに気遣っている。
「ずいぶん大人びたことを申すようになったわ」
「姉上に笑われぬようにと思っております」
「そう」
そこで初めて、喜多は少しだけ笑った。
本当に少しだけだったが、それでもおきぬには新鮮だった。乳母という役に入ってからの喜多は、いつも気を張っている。笑わぬわけではないが、笑みはたいてい役目の内側で使うものだった。今見せたそれは、もっと家の匂いに近いものだった。
景綱は包みのこと、家のこと、父の鬼庭良直が無駄口もなく「届けよ」とだけ言ったこと、片倉家の細かな様子などを、必要なぶんだけ簡潔に伝えた。そこにもまた、余計に喋らぬ片倉の家の気風が出ていた。
喜多は聞きながら、弟の姿を静かに見ていた。
この子も、いずれ人の下に立つのだろう。
人を見、場を見、言葉を選び、何を飲み込むべきかを覚えていくのだろう。
その始まりが、もうここにある。
梵天丸を抱いていると、自分は育てる側なのだと強く感じる。
だが景綱を前にすると、かつて自分もまた誰かを見ながら育ってきたのだという、別の時間の流れを思い出す。
「中までは無理でも、若君を一目だけ」
景綱がそう言いかけて、すぐに口をつぐんだ。
自分からねだるのはよくないと、言ったあとで気づいたのだろう。
喜多はそれを咎めなかった。
「騒がせぬなら」
短く言って、彼女は景綱を寝所の近くまで連れていった。
もちろん内側深くへは入れない。だが襖の手前から、静かに見るくらいは許される。取次の侍女も、おきぬも、年長の侍女も、その場では何も言わなかった。義姫の許しの届く範囲であれば、片倉の家の幼い者にそれくらいは認められる。
部屋の中は暖かく、火鉢の炭が穏やかに息をしていた。
梵天丸は眠っていた。白い布に包まれ、小さな顔をこちらへ少し向けている。まだ頬は柔らかく、睫毛も短く、眠りの中ではまったくただの赤子にしか見えない。
景綱は、その寝顔をじっと見た。
「小さいでしょう」
喜多が言うと、景綱はうなずいた。
「はい」
「これでも城じゅうを騒がせているのよ」
「分かります」
その返事に、喜多は少し意外そうに弟を見た。
「何が分かるの」
「皆、姉上の顔を見れば」
景綱は小さな声で言った。
「前より、ずっと気を張っておられます」
その言葉は、鋭いというより、よく見ている子の言い方だった。
喜多は一瞬だけ答えを失った。
この子は、自分のことをちゃんと見ている。
幼いからといって、何も分からぬわけではない。
「……余計なことまで見なくてよいのに」
「見えてしまいます」
景綱はそう言って、また梵天丸へ目を戻した。
その一部始終を、少し離れたところから義姫も見ていた。
義姫は表立って顔を出してはいない。襖の向こう、少し開いた間から、喜多と景綱のやり取りを静かに見ている。そこにある空気は穏やかで、家の中のものだった。
喜多は弟の前で少しだけ柔らかくなる。
それはつまり、この女の中に、乳母という役よりもっと古い“人を見守る癖”があるということだ。
ただ胆が据わっているだけではない。生活の中で、弟を見、家を見、必要なことを先回りしてきた女の手つきなのだろう。
義姫はそこに、一つの納得を覚えた。
この女は、人を育てることに慣れている。
けれど、同時に別の感情もまた胸へ差した。
慣れている、ということは強い。
強いということは、時に母の存在を食うこともある。
乳母として有能であることを、義姫は喜ぶ。だが、有能すぎる乳母が子に深く食い込む怖さも、また理解していた。
喜多は梵天丸の布を軽く直し、景綱へ言った。
「もうよい。長居はさせられぬわ」
「はい」
景綱は素直にうなずいた。だが去り際、もう一度だけ寝台のほうを見た。
そして、子どもらしい率直さでぽつりと言った。
「この子、泣かぬときのほうが、こわい顔をしますね」
部屋の空気が、ほんのわずかに止まる。
喜多はすぐには返さなかった。
おきぬも、取次の侍女も、言葉を失った。
梵天丸は変わらず眠っている。まぶたの下に静かな影を落とし、何も知らぬ顔で小さく息をしているだけだ。
なのに、景綱の言葉は妙に場へ残った。
泣いているときではない。
静かなときのほうが、かえって印象に残る。
それはこれまでにも、何人かの口から漏れた感想に似ていた。
景綱自身は、それほど深い意味で言ったわけではないのだろう。子どもの目に、ただそう見えただけだ。
だからこそ、余計に不思議だった。
「子どもが、知ったようなことを」
喜多はそう言ったが、叱るような声音ではなかった。
景綱は少し困ったように頭をかいた。
「すみません。ただ、そう見えました」
「そう」
喜多は弟を見た。
子どもの無邪気さにしては、よく見ている。
そして、梵天丸もまた、子どもでありながら人にそう思わせる何かを持っている。
義姫は襖の向こうで、その言葉を静かに受け止めていた。
この子は、泣かぬときのほうがこわい顔をする。
それが吉兆なのか、不吉なのかは分からない。
だが、少なくともこの子が“ただ可愛らしいだけの赤子”として人の目に映っていないことだけは分かる。
景綱は一礼し、ほどなく帰っていった。
雪の白い廊下を小さな背が遠ざかっていくのを、喜多はしばらく見送った。
弟でありながら、もうただの幼子ではない。
見て、覚え、いずれは誰かの傍らに立つ子だ。
そう思うと、姉としての情がわずかに胸へ満ち、同時に、乳母として梵天丸へ向ける眼差しとどこか重なった。
部屋へ戻ると、火鉢の熱は変わらず、梵天丸の寝息も静かだった。
喜多はいつもの顔に戻り、布を整え、眠る赤子を見守る。
だが、おきぬにはもう見えていた。
喜多の中には、ただ役目だけではない何かがある。
人を抱き、人を見て、人が大きくなるのを待つことに慣れた者の強さ。
それは頼もしい。
けれど、だからこそ少し恐ろしくもある。
雪の降る米沢城の奥で、片倉の家から来たものは、手袋や布だけではなかった。
家の匂いと、姉弟のあいだにしかない柔らかな間と、そして梵天丸の静けさが人に与える奇妙な印象――それらもまた、この日、確かに奥向きへ持ち込まれていた。




