第13話 名を得た子、役を得る女たち
名がつくと、人は急に手つきまで変わる。
梵天丸――その名が奥向きの女たちの口にのぼるようになって、まだ幾日も経ってはいない。けれど、米沢城の内側には、たしかにそれ以前とは違う空気が流れ始めていた。
それまでは「御子様」で済んでいたものが、いまはもうそうはいかぬ。
御子様、と呼べば柔らかく曖昧に包めたものが、梵天丸様、と名を呼ぶだけで、急に輪郭を持ち、責めを伴い、立場を帯びる。
名を持つということは、そういうことなのだと、おきぬは朝から何度も思わされた。
外は深い雪である。障子越しの光は鈍く白く、庭木の枝は重たげに垂れ、遠くの櫓の影さえ淡く霞んでいる。冬の奥州らしい、音を吸い込むような朝だった。
だが奥向きの中だけは、静かな熱がある。
火鉢の炭が赤く息をし、湯の気が細く立ちのぼり、乳と薬草と新しい布の匂いが薄く混じっている。その中心にあるのは、もちろん梵天丸の寝所だ。だが、今朝のざわめきは赤子の泣き声のためではなく、そのまわりを囲む役目が改めて定められるためのものだった。
梵天丸と名づけられた以上、もう曖昧なままでは済まぬ。
誰が寝所に入るのか。
誰が授乳を担うのか。
誰が夜番に残るのか。
誰が義姫への取次を行うのか。
誰が布を扱い、誰が湯を見て、誰が火鉢の加減を任されるのか。
そのすべてが、今日あらためて見直される。
部屋の一角では、片倉喜多が梵天丸を抱いていた。名がついたからといって、腕の中の重さが変わるわけではない。小さな身体は軽く、熱は穏やかで、呼吸も落ち着いている。名の前も後も、赤子は赤子のままだ。
けれど、その赤子のまわりの人間はもう違った。
喜多はその変化を、言葉より先に気配で感じ取っていた。若い侍女たちの歩みが昨日より慎重で、年長の侍女たちの視線が昨日より細く、物を置く音一つさえ昨日より抑えられている。
役が定まる前というのは、人の心が最も落ち着かぬ。
どこへ置かれるのか。
誰の下につくのか。
近づけるのか、外されるのか。
人はそれが決まって初めて安堵する。たとえ、その置かれた場所が望んだものではなかったとしても、曖昧なまま吊るされているよりはましなのだ。
おきぬは、盆の上の新しい布を抱えながら、そのことを身に沁みて知り始めていた。
「そこへ置きなさい」
年長の侍女の声が飛ぶ。鋭くはないが、迷いを許さぬ声である。
「はい」
おきぬはすぐに膝をつき、布を定められた位置へ置いた。少し前までなら、こういう細かな指示にもどこか余白があった。だが今は違う。布はここ、湯はあちら、乳の椀はこの順で、火鉢に寄るのは誰、寝所の中へ入るのは誰、と、線が一本一本引き直されている。
その様子を、喜多は黙って見ていた。
今朝の集まりは、見ようによっては地味なものだった。刀を抜くわけでもなく、誰かが声を荒らげるわけでもない。ただ年長の侍女たちと、奥向きの役目を担う女房たちが、それぞれの位置を確認し直しているだけである。
だが、その“だけ”が奥向きでは重い。
役目が定まるということは、そのまま誰が深くへ入り、誰が外へ置かれるかを意味するからだ。
最初に決められたのは、寝所の内側へ入る者だった。
梵天丸のすぐそばへ入れるのは、片倉喜多、授乳を担う女房、夜番を勤める若い侍女、それに布と湯を扱う役の者だけ。しかも、それぞれが勝手に手を出してよい範囲は細かく定められた。
喜多は抱く。
授乳役は乳を含ませる。
布役は布だけを見る。
湯役は湯だけを見る。
取次の侍女は義姫のもとへ言葉を運ぶが、それ以上には踏み込まぬ。
ひとつの役に一つの責めをつける。
責めが定まれば、誰がどこで手を伸ばしたかも見えやすくなる。
祝い膳の違和感と、寝所の香の件を経たあとの処置としては、当然といえば当然だった。
「火鉢へ寄るのは、いま申した二人だけにいたします」
年長の侍女が言う。
「夜の湯の替えも同様に。必要あらば声をかけること。勝手に“見ておきましょう”は要りませぬ」
その最後の言い方に、部屋の何人かが小さく肩をこわばらせた。
善意の顔をした余計な手――その言葉が、もはや奥向きでは合言葉のようになりつつある。
伊達家譜代の老女の一人が、そこで静かに口を開いた。
「名がついた以上、抱き役も曖昧にはできませぬな」
その言葉はもっともだった。
名づけ前ならば、「赤子の世話」という一言で多少の重なりを許せた。
だが今は梵天丸である。
誰がいつ抱いたか、誰がどれだけ近くにいたか、それ自体が意味を持ち始める。
「喜多殿が中心となられるのは、異存ございませぬ」
老女はそう言いながら、喜多を見た。
「ただし、中心であることと、何もかもを一人で抱えることは違いましょう」
「その通りにございます」
喜多は落ち着いて答えた。
「抱く者が一人でも、養う手は一つでは足りませぬ」
その返しに、老女はわずかにうなずいた。
最上側の年長の侍女たちも、表立った異論は出さない。
喜多を中心に置くこと自体は、もはや誰も動かせぬ流れになっている。
問題は、その喜多のまわりを誰が固めるか、だった。
授乳を担う女房の名が呼ばれる。
布を扱う女房の名が呼ばれる。
湯を見、薬湯を整える女房の名が呼ばれる。
義姫への取次を行う侍女の名も、夜番に残る若い者の名も、一人一人定められていく。
そのたびに、部屋の空気が少しずつ変わった。
名を呼ばれた者は、すぐには顔へ出さぬよう努めながらも、胸の内に安堵が広がる。役目を得たのだ。梵天丸のまわりに、自分の置き場があるのだ。
反対に、名を呼ばれぬ者もいる。
そうした女たちは、やはり顔に大きくは出さぬ。だが、膝の上の手が少しだけ強くなる。視線がわずかに伏せられる。奥向きでは、そういうほんの小さな陰りが、そのまま人の沈み方になる。
おきぬは、自分の名が夜番補助として呼ばれたとき、胸の奥で息をついた。
嬉しいのか、怖いのか、すぐには分からなかった。
梵天丸の近くにいられるのは確かに重い役だ。
だが近いということは、何かあったときに最初に疑われる位置でもある。
第一章の小事件を見てきた者なら、そこまで含めて分かる。
それでも、外されずに済んだことへの安堵はあった。
隣で、別の若い侍女がほんの少しだけ肩を落としたのが見えた。
名は呼ばれなかった。
悪いというほどではない。だが、中心からは一歩遠ざけられたのだ。
そういう差が、これから先の奥向きの人間関係を少しずつ固めていく。
喜多は、それを冷静に見ていた。
役目は人を育てもするし、縛りもする。
若い侍女は近くに置かれれば経験を得る。
だが同時に失敗も許されなくなる。
外された女房は、表向き穏やかに従っても、胸の内に小さな棘を残すかもしれぬ。
そうした棘が重なると、また別の“余計な手”になることもある。
だから役目を定めるときは、手際だけでなく、人の心の置き場まで見ておかねばならない。
乳母というのは、ただ抱いていればよい役ではない。
喜多は、改めてそのことを思った。
やがて、義姫付きの年長の侍女が、すべての名を確認し終えて言った。
「よろしい。以後、梵天丸様の寝所まわりは、いま申したとおりにいたします」
梵天丸様。
その呼び方が部屋の中へ落ちたとき、おきぬはまた少し胸がざわついた。
御子様ではなく、梵天丸様。
もう皆、その名で呼ぶのが当たり前になるのだ。
義姫の部屋へ報せが上がると、義姫はそれを静かに受けた。
「喜多を中心に」
「はい」
「授乳役と、布と湯の役も定まりました」
「よろしい」
義姫は短く答えたが、その目は細く動いた。
喜多が中心にあることに異論はない。むしろ、そのほうがよいとすら思っている。
だが中心というのは、人が寄ってくる位置でもある。
これから先、喜多のまわりに何が集まり、何が離れていくのか。義姫はそこまで見ていた。
御子を守るとは、ただ抱くことではない。
誰をそばへ置き、誰を遠ざけるか。
その選り分けを誤らぬことでもある。
義姫は名のついた子の母として、昨日までよりさらに冷たく物を見る必要を感じていた。
同じころ、表では輝宗もまた簡潔な報せを受けていた。
「奥向きの役目が定まりました」
「そうか」
「片倉喜多を中心に」
輝宗はそれを聞いて、表情を大きくは変えなかった。
だが内心では、それでよいと思った。
曖昧なまま人が出入りするより、ずっとよい。
名がついた以上、梵天丸のまわりにも最初の秩序が必要だ。
そして秩序ができれば、その秩序を通じて人の心の動きも見えやすくなる。
父としては、ただ穏やかに育ってくれればと思う。
当主としては、そう願いながらも、すでに家の先を見る。
その二つはやはり、なかなか同じ形にはならなかった。
夕刻、役目の定まった奥向きは、いつもより静かに見えた。
人の数が減ったわけではない。
むしろ皆、定められた働きのためにきびきびと動いている。
ただ、曖昧な者が少なくなったぶん、空気の揺れが小さくなったのだ。
梵天丸はその中で、いつもと変わらぬ顔で眠ったり目を覚ましたりしている。
名前を得ても、役目を持つ女たちに囲まれても、赤子の時間は赤子の時間のままだ。
喜多は寝台のそばで、その小さな顔を見下ろした。
この子はまだ何も知らぬ。
だが、そのまわりの大人たちはもう、それぞれの場所へ置かれ始めている。
これが始まりなのだろうと思う。
梵天丸が育つというのは、この子一人が大きくなることではなく、この子のまわりの人間関係もまた一緒に形を持っていくことなのだ。
夜が少し深まったころ、寝所の前の廊下で、おきぬは布を抱えたまま立ち止まっていた。役目を得たばかりの身には、まだ寝所の近さが落ち着かぬ。火鉢の熱の届く内側と、雪の冷たさが滲む外側との境に、自分が立っているような心地がする。
そこへ、同じく若い侍女がひとり寄ってきた。今日は役目を外された側の女だった。顔には出さぬよう努めているが、沈んだ気配は隠しきれない。
しばらく二人とも黙っていた。
廊下の向こうには静かな白があり、寝所の内側には梵天丸のかすかな寝息がある。
やがて、その若い侍女がぽつりと言った。
「名がついた途端、皆が急にこの子を遠く見始めました」
おきぬは返事ができなかった。
その言葉は、あまりに言い当てていたからだ。
寝所は昨日より厳しく守られている。
梵天丸のそばにいられる者も、いられぬ者も、はっきり分かれた。
皆、この子の近くにいる。
けれど同時に、もう気安く近づける存在ではなくなっている。
近いのに遠い。
若君というものは、きっとそういうふうに育っていくのだろう。
おきぬはそっと襖のほうを見た。
その向こうでは、梵天丸が静かに眠っている。
まだ抱けば軽い、まだ乳を求めて泣く、小さな子にすぎない。
それなのに、もう人は皆、その子を少し遠くから見始めていた。
その変化の冷たさを、おきぬは雪の気配と一緒に胸の奥へ感じていた。




