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第12話 梵天丸

 名を与えるというのは、不思議なことだ。


 それまでただそこにいた命が、名を持った瞬間に、急に輪郭を得る。昨日までと同じ顔で眠り、同じように乳を飲み、同じように小さな手を握っているだけなのに、人はその名を呼んだ途端、そこへ意味を重ね始める。


 御子。

 若君。

 嫡男。


 それらは立場であって、まだ一人の子の名ではない。


 だが名がつけば、その子はようやく誰それの“何”ではなく、“その子自身”として呼ばれ始める。もっとも、大名家においては、その“その子自身”にすら家の期待と恐れが何重にも被さるのだが。


 米沢城の朝は、いつもより静かに整えられていた。


 雪はなおも城を包んでいる。だが第一話の出産の夜のような切迫はなく、第二話の祝い膳のような浮き立ちもなく、ただ人々がそれぞれに呼吸を調えている気配がある。襖は磨かれ、火鉢の炭は落ち着いた熱を保ち、女たちの歩みも自然と慎ましくなる。


 今日は、御子に名が与えられる。


 奥向きの女たちはそれを知っている。

 表の男たちも知っている。

 そして皆、心のどこかで分かっていた。


 この命名は、ただめでたいというだけでは終わらない。

 この子が伊達家の新たな柱として、もっとはっきりと形を持ち始める日なのだと。


 片倉喜多は、その朝もいつもと変わらぬ手つきで御子の支度を整えていた。


 白い布をやわらかく替え、頬の赤みを見て、乳のあとの落ち着きを確かめる。命名の日だからといって、赤子の身体が急に変わるわけではない。だからこそ、乳母はいつも通りでいなければならない。


 御子はよく眠り、よく目を覚まし、そしてやはり静かだった。


 喜多は布の端を整えながら、胸の内で小さく思う。

 この子は、今日からもっと多くの人に見られるようになるだろう。

 いままでも十分見られていた。だが、名がつけば、皆はより遠慮なく未来を重ねる。

 この子がどう育つか。

 誰に似るか。

 どんな若君となるか。


 まだ何者でもないところに人は勝手に夢を載せる。

 その重みから守ることはできない。

 せめて今だけでも、抱く腕の中ではただの子として息をさせてやりたい――そんなことを、乳母は少しだけ考える。


 おきぬが静かに寄ってきて言った。


「今日は、少し違って見えます」


「何がです」


「御子様が……いえ、まだ名もございませぬのに、なんだか」


 言葉を探しきれずに口ごもる若い侍女へ、喜多は小さく笑みを向けた。


「人の心が違うのでしょう」


 それが正しかった。


 御子が昨日と違うのではない。

 名を待つ城の側が違っているのだ。


 しばらくして、義姫の部屋の空気もまた整えられた。


 義姫はまだ完全には体調が戻っていない。だが今日は、産後の弱りきった正室としてではなく、嫡男の母としてそこに座していた。姿勢に無理はある。顔色も万全とは言えない。けれど、その目にはいつもの強さが戻っている。


 最上の姫であり、伊達の正室であり、そしてこの子の母である。


 その三つを、今日は誰の前でも崩すつもりはなかった。


 喜多が御子を抱いて控えたとき、義姫はしばらく黙って見ていた。


 その目には、これまでと同じく複雑なものがある。

 喜多は使える。

 信も置ける。

 だが、信を置ける相手を警戒せぬ理由にはならない。


 それでも今日は、その警戒を少しだけ奥へしまいこんでいるように見えた。

 この場ではまず、若君が名を得ることそのものをまっすぐ見ようとしているのだろう。


「よう眠っているのね」


 義姫が言う。


「はい。朝からよく落ち着いております」


「名を待つ者は、もっと騒いでもよさそうなものだけれど」


 その言葉には、ほんのわずかに母らしい柔らかさが混じっていた。

 喜多は気づいたが、口にはしない。


 そこへ輝宗が入ってきた。


 表の支度を一通り済ませた顔である。衣にも乱れはなく、声音も穏やかだった。だが穏やかなだけではない。今日という日が、父としても当主としても節目になることを分かったうえで、その二つをきちんと内に並べているような顔だった。


「待たせたか」


「いえ」


 義姫が答える。


 それだけの短いやり取りの中にも、夫婦としての距離と、同じ子の親となった者同士の静かな了解があった。


 やがて、名を与えるための場が整えられる。


 厳か、といっても過剰に飾り立てるわけではない。輝宗の考えどおり、必要以上の騒ぎは避ける。だが軽んじもせぬ。名とはその子がこの先、何度も呼ばれ、何度も書かれ、何度も人の口にのぼるものだ。始まりを粗末にする理由はない。


 部屋の空気がさらに引き締まる。


 侍女たちは声を落とし、年長の者たちは目を伏せる。

 御子はまだ、その意味を知るはずもない。

 けれど、周囲にいる者たちは皆、その瞬間を待っていた。


 そして、ついにその名が口にされる。


「梵天丸」


 その響きが部屋の中へ落ちたとき、不思議なことに、空気の重さが少し変わった。


 それまでもこの子は伊達の嫡男であり、義姫の子であり、米沢城の中心にいる存在だった。

 だが今、その輪郭にようやく“名”が載った。


 梵天丸。


 まだ幼い、丸のつく名。

 されど、確かにこの子の名。


 おきぬは思わず背筋を伸ばした。

 これまで「御子様」と呼んでいた存在が、急に遠くなったようでもあり、逆にはっきり近くなったようでもある。名とは、こんなにも人の感じ方を変えるものかと、若い侍女は胸の内で驚いていた。


 喜多は抱いたままの御子――いや、梵天丸を見下ろした。


 呼び名が変わっても、腕の中の重さは変わらない。

 熱も、寝息も、今日のこの静けさも変わらない。

 だが、その変わらなさこそが奇妙に感じられる。名だけが先に大きくなっていくようだった。


 義姫は、その名を聞いて目を細めた。


 梵天丸。

 その名を胸の内で繰り返す。

 自ら産んだ子に、ようやく一つの名が与えられたことへの感慨はたしかにある。だが喜びに沈みこむことはしない。名がついた以上、この子はこれまで以上にはっきりと伊達家の中へ立たされる。守るべきものが増えた、と義姫はむしろ感じていた。


 輝宗もまた、その名を聞いて静かにうなずいた。


 父としては満ち足りた心がある。

 名も定まり、母子も無事。

 これ以上何を望むのかと言われれば、それで十分とも言える。


 だが当主としては、ここからが始まりでもある。

 梵天丸という名は、これから家中の者たちの口にのぼる。

 誰かは期待を重ね、誰かは近づく機を探り、誰かはこの子を軸に次の十年を考え始めるだろう。


 嫡男の誕生は、家に新たな柱を立てる。

 同時に、その柱の周りに新たな競り合いを呼び込む。


 そのことを、いまこの部屋にいる者は皆、もう知っていた。


 第一話の夜にあったような、無垢な喜びだけでは済まない。

 この子の誕生が、すでに奥向きの空気を変え、女たちの出入りを変え、言葉の温度まで変えてしまったことを、皆が身をもって知ったあとだからだ。


 命名のあと、部屋には静かな祝意が満ちた。


「おめでとうございます」


 誰かが小さく言い、別の誰かが頭を下げる。

 その声音に、もはや最初の日の軽さはない。

 祝っている。

 けれど同時に、この名が持つ重みを皆どこかで感じている。


 喜多は梵天丸を抱き直した。


 名を与えられたばかりの幼子は、変わらぬ顔でこちらを見たり、見なかったりしている。まだ何も分からぬ顔だ。だが、その“分からなさ”が今だけのものなのだと思うと、乳母としては妙にいとおしい。


 義姫はそんな喜多の腕の中の梵天丸を見ていた。

 この子はもう、誰かが勝手に“御子様”とだけ呼んで済ませる存在ではない。

 名を得た以上、もっと明確に人の思惑の中へ入っていく。


 それでも、やはり自分の子だ。

 その思いだけは、命名の前も後も変わらない。


 輝宗は一歩寄り、梵天丸の顔をのぞきこんだ。

 小さなまぶたがわずかに動く。

 泣くかと思えば泣かず、ただ静かに視線が揺れる。


「名をもらっても、騒がぬか」


 輝宗が少し笑う。


 義姫はそれに答えず、ただ目だけで梵天丸を追っていた。

 喜多もまた余計な言葉を挟まない。


 その沈黙の中に、不思議な満ち方があった。

 家族のようでいて、家族だけではない。

 主従のようでいて、それだけでもない。

 これから長く続く関係の、最初の輪郭だけがそこにある。


 やがて人が少しずつ下がり、部屋の緊張がほんのわずかに緩んだころだった。


 梵天丸が、ふいに顔を動かした。


 ほんの小さな仕草だった。

 まぶたが開き、まだぼんやりしたままの視線が、部屋の奥――襖の向こうの気配へ向く。


 誰かがそこに立っているわけではない。

 ただ、人の気配がある。

 出入りを控えている侍女か、小姓か、あるいはただ廊下を過ぎた足音の名残か。


 それでも梵天丸は、そこを見た。


 おきぬはその瞬間、なぜか背筋が冷たくなった。


 理由は分からない。

 赤子がたまたまそちらへ顔を向けただけなのかもしれない。

 けれど、その向け方があまりに自然で、あまりに静かで、まるでそこにいる“誰か”を最初から知っていたかのように見えた。


「……」


 おきぬは思わず息を止めた。


 喜多もまた、その目の動きを見たが、何も言わなかった。

 義姫は目を細め、輝宗はわずかに眉を動かした。

 ほんの一瞬のことだったのに、その場の者には妙に長く感じられた。


 やがて梵天丸は、また何事もなかったように静かになった。

 ただの赤子の顔へ戻ったと言ってしまえば、それまでだ。


 それでも、おきぬの胸には、さきほどのひやりとした感覚が残っていた。


 名を得たばかりの若君。

 まだ何も知らぬはずの幼子。

 けれどその静かな目だけが、時折、年に似合わぬ落ち着きをのぞかせる。


 火鉢の炭が、かすかに音を立てた。

 部屋には命名のあとの静かな余韻が漂っている。

 祝いであり、始まりであり、同時に、何かまだ言葉にならぬ不穏がそこに残っていた。


 その日、城の誰もが若君の誕生を寿いだ。

 だがその静かな眼差しが、やがて人の嘘も、家の闇も、母の沈黙さえ見抜くものになるとは、まだ誰も知らなかった。

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