第11話 梵天丸の名を待つ朝
名がつく前の子は、まだ何者でもない――そう言う者がいる。
けれど、それは大名家の子には当てはまらない。
名がなくとも、すでに人はその子を見ている。
まだ呼び名の定まらぬうちから、嫡男として見、最上の血を引く子として見、伊達の次代として見、あるいは自らの先の立身につながる存在として見ている。
名がついて初めて重みを持つのではない。
重みがあるからこそ、その名が待たれるのだ。
米沢城の朝は白かった。
夜のあいだにまた雪が積もったらしく、障子越しの光には水気のない冷たさがある。庭木の枝は重たげに垂れ、塀の向こうも屋根の向こうも、どこまで行っても白に埋もれていた。こんな朝は、城全体が息を浅くしているように感じられる。
奥向きもまた、そうだった。
第十話までの小さな騒ぎは、表向きにはいったん収まっていた。祝い膳の違和感、寝所の香の気配、余計な手を差し入れた女房の遠ざけ。誰もそれを大ごとにはしなかったし、しないまま済ませたことによって、むしろ空気は落ち着いたように見える。
だがそれは、安心したということではない。
余計な出入りが減ったぶん、今度はひとつひとつの動きがよく見えるようになった。湯を運ぶ者、布を替える者、御子の様子を問う者。その数が減ったからこそ、いま奥向きには「次に何が定まるか」を待つ緊張が静かに満ちている。
御子の名が、まもなく定まる。
その事実が、火鉢の熱の届く範囲にまで、じわじわと広がっていた。
片倉喜多は、寝台のそばに座して御子を見ていた。
白い布に包まれた赤子は、朝の浅い眠りの中にあった。目を閉じ、時おりまぶたをかすかに動かし、指先だけが布の上でゆっくり開いては閉じる。乳を飲む時刻も、眠る間も、少しずつ整ってきている。生まれたばかりの混沌とした呼吸から、ようやくこの子なりのリズムができてきたのだろう。
喜多はそれをよいことと見ていた。
赤子は育つ。
育つということは、日ごとの型が生まれるということだ。
型があれば、違いが分かる。
違いが分かれば、早く気づける。
乳母としては、それが何よりありがたい。
おきぬが静かに近づいてきて、湯気の立つ椀を少し離れた場所へ置いた。
「今朝はよくお眠りですね」
「名を待つ身にしては、落ち着いております」
喜多がそう返すと、おきぬは小さく笑いかけ、それからふと思案顔になった。
「名がつけば、やはり皆の見方も変わるのでしょうか」
「変わります」
喜多は即答した。
「いまも見ておる者は見ております。ですが、名がつけば、その視線に形がつきます」
「形」
「はい。まだ“御子様”で済んでいるものが、名を得れば、もっとはっきりと“この先の誰か”として扱われます」
おきぬはその言葉を聞いて、寝台の中の小さな顔を見た。
まだ何も分からぬように眠っている。
それなのに、名がつくというだけで、人の見方まで変わるのだという。
大名家とはやはり不思議なものだと、若い侍女は思った。
喜多は御子の頬を見た。熱はない。呼吸もよい。今日のこの静けさは、単に穏やかなだけの静けさだ。あの妙な香や、祝い膳の違和感のようなものは今のところ感じない。
それでも彼女は、心のどこかで思っていた。
この子に、人はもう未来を載せすぎている。
まだ名もない。
まだ抱かれて眠ることしか知らぬ。
それなのに、強くあれ、賢くあれ、家を継げ、家を守れ、誰に似よ、誰に呑まれるな――そうした願いや恐れが、すでにこの小さな体のまわりに集まっている。
育てる者としては、少し気の毒にも思う。
だが、気の毒と思ったところで、何も軽くはならない。
この子はそういう場所に生まれたのだ。
そのころ、別室では義姫が静かに座していた。
産後の疲れはまだ残る。だが最初の頃よりは顔色も戻り、枕に凭れた姿にも、以前の張りが少しずつ戻ってきていた。年長の侍女が、名づけの日取りや祈祷の手順について低く報告している。
義姫は一つ一つを聞きながら、余計な相槌を打たなかった。
名が定まれば、この子はただの“御子”ではなくなる。
人がその名を呼ぶたび、そこに伊達家の次代という意味が重なる。
彼女にとってそれは、喜びであると同時に、どこか身を固くすることでもあった。
「御館様のお考えでは、無駄に騒ぎ立てず、内々を整えてから、と」
侍女が言う。
「そうでしょうね」
義姫は淡く答えた。
「輝宗様はそういうお方よ」
感情をあからさまに流さない。
喜びの場でも、先々の乱れを先に見てしまう。
それは当主としては正しい。
夫としても、父としても、頼もしい。
だが、その正しさがいつも心を軽くするとは限らない。
義姫は視線を伏せた。
名がつけば、この子はいよいよ多くの人間の手の中へ入る。
いや、正確には、より多くの人間がこの子へ理由をつけて近づいてくる。
傅役だの、近習だの、教育だの、祝いだの。
すべてがもっともらしい理屈を持ちながら、結局は「この子のそばにいたい」という欲へつながっていく。
そのとき、自分はどこまでこの子を囲い、どこまで離すべきなのか。
義姫はまだ答えを持っていなかった。
ただ一つだけ確かなのは、この子が簡単に人へ呑まれるような者であってはならぬ、ということだけである。
母としての情か。
最上の姫としての警戒か。
伊達の正室としての計算か。
おそらく、そのどれもだろう。
少し遅れて、輝宗もまた奥へ入った。
表の用をひと通り片づけたのだろう。衣に外気の冷たさが少し残っている。だが顔つきは穏やかで、御子の部屋へ入る前に一度だけ息を整えた。
喜多はすぐに頭を下げる。
「御館様」
「起きているか」
「いまは眠っております」
輝宗は寝台の傍へ歩み寄り、白い布の中にある小さな顔を見た。
生まれたときより、ほんの少しだけ顔つきが締まったようにも見える。もちろん気のせいにすぎないのだろうが、親というものはそういう些細な違いを見つけてしまう。
「名がつけば、また騒がしくなるな」
輝宗は独り言のように言った。
喜多は答える。
「いまの静けさは、名を待つ静けさにございます」
「そうか」
輝宗は短くうなずき、寝台の脇へ腰を下ろした。
しばらく、何も言わなかった。
父としては、まず無事に育ってほしいと思う。
大きな病もなく、よく食い、よく眠り、骨太に育てばそれでよい。
けれど、当主としてはそこにもう一つ先がつく。
家を背負えるように。
人を束ねられるように。
ただ強いだけでなく、強さの向きを誤らぬように。
輝宗は、自分の中にも二つの願いがあることを知っていた。
腕が立つだけの男では足りぬ。
情に流されるだけの男でも困る。
荒いだけの者は家を壊す。
柔らかすぎる者は家を守れぬ。
そのあわいに立つのは難しい。
難しいが、そこへ育てねばならない。
寝台の中で、御子が少しだけ身じろぎした。まぶたが開き、まだ焦点の定まらぬ目が、父のいるあたりをぼんやりと捉える。泣きはしない。ただ、静かに目を向けている。
輝宗はそれを見て、ふと笑みを漏らした。
「やはり、静かな子だな」
「はい」
「静かでいて、どこか油断ならぬ」
喜多はその言葉に返事をしなかった。返さずに、ただ御子の呼吸を見ていた。
育てる者にとって、こうした評はまだ早い。
だが、早すぎると知りつつ、人はつい先を見てしまうのだ。
輝宗は少ししてから、御子の額に手をかざした。熱はない。
それを確かめると、小さく息をついた。
「名がつけば、この子もいよいよ皆の口に乗る」
「はい」
「それもまた定めか」
「大名家の御子にございますれば」
喜多の答えは、淡々としていた。
だがその淡々とした言い方の中に、どこか養う者の目があった。
持ち上げすぎず、軽んじもせず、今はまだこの子が“今のこの子”であることを守ろうとしているような目だ。
輝宗はそれを感じ取り、ありがたくもあり、どこか羨ましくもあった。
乳母は、まだ何者でもない赤子としてこの子を見ることができる。
父はどうしても、その先を見てしまう。
それは当たり前の違いであり、だからこそ役目も違うのだろう。
やがて輝宗は立ち上がった。
「義姫のところへも寄る」
「は」
「御子が起きたら、無理に起こし続けるな。眠れるときは眠らせよ」
「承知いたしました」
輝宗は一歩進みかけて、そこでまた振り返った。
白い布の中の小さな命。
まだ名もなく、ただ息をしているだけの子。
けれど、その静かな体の上には、すでに父の願いも、母の願いも、家の願いも載せられかけている。
重いだろうな、とふと思った。
もちろん赤子にそんなことは分からない。
分からなくてよいのかもしれない。
だが、分からぬうちに載せられていくものがあるのが、家というものだった。
義姫の部屋へ移ると、そこにはまた別の静けさがあった。
義姫は輝宗を見ても、過剰な愛想は見せなかった。
だが、冷たく追い返す気配もない。
この数日で、お互いに少しずつ“親となったあとの距離”を測っているような空気がある。
「名づけのことは聞いたか」
輝宗が問うと、義姫はうなずいた。
「聞いております」
「大げさにはせぬ。だが、軽くもせぬ」
「それでようございましょう」
義姫の返しは簡潔だった。
少し沈黙が落ちる。
やがて義姫が、ぽつりと言った。
「あの子は、強くならねばなりませぬね」
輝宗はその言葉を静かに受けた。
「そうだな」
「人に呑まれるようでは困る」
「分かっている」
「あなたは、優しすぎるところがあるわ」
それは責めるようでいて、責めきってはいない言い方だった。
輝宗は少しだけ笑った。
「そなたは厳しすぎる」
「そうでなければ、この城ではやっていけませぬ」
「それも分かっている」
夫婦の会話としては、柔らかいものではなかった。
だが、この二人なりの率直さでもあった。
輝宗は視線を少し落とし、低く言った。
「強く育て」
それが義姫に向けた言葉なのか、自分に言い聞かせたものなのか、曖昧なまま宙に置かれる。
「だが――」
そこで彼は、ほんのわずかに声を緩めた。
「ただ荒いだけの者にはなるな」
義姫はその言葉に返事をしなかった。
けれど、その沈黙は否定ではなかった。
強さは要る。
だが荒さだけでは足りない。
その二つを併せ持て、というのは、子に願うにはあまりに難しいことかもしれぬ。
それでも父は願ってしまう。
輝宗は自分の言葉が、どこか遠い先を見ていることに気づいていた。
まだ名もつかぬ幼子に向けるには、早すぎる願いだ。
だが、その早すぎる願いこそ、大名家に生まれた子の定めでもある。
部屋の外では、雪がなおも静かに降っていた。
名を待つ朝の静けさは、やがて名前を持ったあとのざわめきへ変わるだろう。
その前の、わずかな間。
父は父の願いを持ち、
母は母の警戒を抱き、
乳母は養う者として、まだ何者でもない幼子に載せられすぎた未来の重みを見ていた。
そして寝台の中の御子は、それらを何一つ知らぬまま、静かに息をしていた。
まるで、やがて名を与えられるその瞬間を、何も知らぬ顔で待っているかのように。




