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伊達政宗『隻眼の若君は、奥州の闇を暴く 〜のちに独眼竜と呼ばれる男の戦国観察録〜』戦国異聞伝  作者: 常陸之介寛浩 


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第10話 最初の選り分け

 大ごとにならなかったからこそ、始末の悪いことがある。


 祝い膳の器にあったわずかな違和感。

 寝所に残った、ごく薄い香。

 どちらも誰かが倒れたわけではない。御子の顔色が変わったわけでもない。毒と断じるには弱く、悪意と決めつけるには証が足りない。


 もし本当に害が出ていれば、話は早かっただろう。

 表へも報せ、厳しく洗い、誰か一人を引きずり出して済ませられる。

 だが、何も起きていない。


 何も起きていないまま、しかし「誰かが余計なことをしたかもしれぬ」だけが残っている。奥向きにおいて、それは明らかな毒より扱いにくい。


 米沢城の奥向きは、その日も静かだった。


 静かであること自体が、どこか作られたものに思えるほどに。


 御子の寝所への出入りはすでに絞られ、若い侍女たちも以前より慎重に足を運ぶようになっていた。火鉢の位置、湯の熱、布の湿り、乳の時間。すべてが小さな声で確認され、誰もが自分の手を余計に伸ばさぬよう気を張っている。


 その張りつめた空気の中で、片倉喜多は人の動きをさらに洗い直していた。


 誰が祝い膳の支度に触れたか。

 誰が寝所の近くまで来たか。

 どの女房が、どのとき、誰の差図を受けていたか。

 そして、それぞれがその前後に誰と口をきいたか。


 喜多は若い侍女たちから聞き取ったことを、年長の侍女と伊達家譜代の老女の双方へ照らし合わせた。どちらの言い分にも耳を貸す。その代わり、どちらの“都合のよい曖昧さ”も、そのまま受け取らない。


 祝い膳の件だけ見れば、台所の手違いとも言えた。

 寝所の香だけ見れば、誰かの袖から移っただけとも言えた。


 だが、二つを並べてみると、一人の女房の名が幾度か浮かんだ。


 年は三十を少し越えたくらい。最上からの者ではない。かといって伊達家譜代の中核でもなく、もともと奥向きの端の役目を勤めてきた女である。器の運びに一度手を貸し、その翌朝には、別の女房に頼まれたと称して寝所近くへ布を届けに来ていた。


 それだけなら、やはり何でもない。


 だがその女房は、いずれの場でも「自分は頼まれただけ」と答え、誰に頼まれたかを問われると曖昧に言葉を濁した。しかも、濁し方がそのたびに少しずつ違った。


 喜多は、その女房を責め立てなかった。

 責め立てれば、必ずもっと大きな嘘を重ねる。

 必要なのは真実のすべてではなく、どこに“余計な手”が入り込んだかを見極めることだ。


 午後、喜多は義姫付きの年長の侍女と、伊達家譜代の老女の一人を同席させたうえで、控えの間にて報告をまとめた。


 部屋には火鉢が一つ。障子の向こうは変わらず白い。

 雪が深く音を呑む日ほど、人の小声はかえって耳に残る。


「では」


 年長の侍女が、喜多へ視線を向ける。


「聞かせなさい」


 喜多は膝の上に手を置いたまま、低く言った。


「祝い膳と寝所の件、どちらも害意があったと断ずるには足りませぬ」


 老女がわずかに眉を動かす。


「足りぬ、で終えるつもりか」


「終えませぬ」


 喜多は答えた。


「ただし、毒を盛るだの、若君様を害するだのという大ごとではなかったと見ております」


「では何だと」


「余計な細工にございます」


 その一言で、部屋の温度が少し下がる。


 年長の侍女が口を開いた。


「誰が、何のために」


「誰が、については一人、疑いの濃い者がおります」


 喜多は女房の名を出した。

 年長の侍女は無言のまま聞き、老女のほうは目を細めた。


「その者が、祝い膳の器に手を触れ、寝所近くへも布を運んでおります。どちらも役目の外ではない。されど、頼まれた相手の名が定まらず、言い分に揺れがございます」


「それだけか」


 老女の声には棘があった。


「それだけにございます」


 喜多は正面から受ける。


「ですが、それで足りることもございます」


 老女は黙る。


「この者が何か強い害を成そうとしたとは思えませぬ。むしろ、自らの手で事を起こす胆はない。ですが、相手方の不手際を誘うくらいの浅い細工なら、やりかねぬと見ます」


 年長の侍女が低く問うた。


「相手方、とは」


「そこまでは定まりませぬ」


 喜多は少しも飾らずに答えた。


「義姫様付きの者の失点を誘いたかったのか。伊達家譜代の手が緩いと見せたかったのか。そこは読みきれませぬ。おそらく当人も、深く先を見ていたわけではなく……」


「場を濁したかっただけ、か」


 老女が言う。


「はい」


 喜多はうなずいた。


「若君様のまわりで何か起きたように見せれば、相手方の締め付けが甘いと言い立てられます。毒を盛るほどの胆はなくとも、その程度の悪知恵なら働くこともありましょう」


 年長の侍女は息を吐いた。


 それは激しい怒りの吐息ではない。もっと冷たく、呆れに近いものだった。


「くだらぬ」


「くだらぬことで奥向きは乱れます」


 喜多の返しは静かだった。


 まさに、その通りである。


 戦場で人が死ぬのは大ごとのためだ。

 だが奥向きで空気が濁るのは、しばしばこういう“小さすぎる悪意”のためだった。誰かを即座に害するほどではない。けれど、相手の顔に泥を塗るには十分。その泥が積もれば、やがて家の中の目配せや役目にまで響いていく。


 老女が腕を組み、しばらくしてから言った。


「表へ出すか」


「出しませぬ」


 年長の侍女が先に答えた。


「姫様のお耳には入れる。されど表へ出せば、若君様ご誕生の祝いに泥を塗る」


「では内で始末するしかありますまいな」


「始末は軽く見せねばなりませぬ」


 年長の侍女が言う。


「軽く見せて、実際には二度と同じ場所へ立てぬように」


 老女の口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。

 それは賛同であり、また奥向きという場の怖さそのものでもあった。


 喜多はそこで初めて、小さく頭を下げた。


「義姫様のお考えを仰ぐのがよろしいかと」


 その日の夕刻、義姫はその報告を受けた。


 産後の疲れが残る中での話であったが、義姫は最後まで横にならずに聞いた。部屋には最上から従った年長の侍女と、喜多だけが残されていた。御子はすでに寝台で眠っている。


「その女房は、何をしたかったと思う」


 義姫がまず問うたのは、そこだった。


「相手の失を誘いたかったのでしょう」


 喜多が答える。


「相手方の締め付けが甘いと、さりげなく見せたかったかと」


「さりげなく、ね」


 義姫の声は冷たかった。


「若君のまわりで、それをやる」


「大ごとにする胆はなかったかと」


「胆がないから許せると思うの?」


 部屋の空気が、一段冷えた。


 喜多は頭を下げたまま答える。


「許せるとは申しませぬ。むしろ、浅さゆえに厄介かと」


 義姫はしばらく黙っていた。


 その沈黙のあいだ、火鉢の炭が微かに鳴った。障子の向こうでは雪が、いまも変わらず降り続いているのだろう。そうした外の静けさと、義姫の沈黙とが重なると、部屋の中の空気はかえって張りつめる。


「表には出さぬ」


 やがて義姫は言った。


 年長の侍女がすぐに頭を下げる。


「は」


「祝いのあとに、奥向きの女房が余計なことをしたなどと外へ漏らせば、誰が笑うか知れぬ」


 最上か伊達か、それだけではない。外の者はどこであれ、伊達家の内が乱れていると知れば面白がる。義姫はそれを許すつもりはなかった。


「その女房は下げなさい」


「どのように」


「奥向きの中心から遠ざける。御子の寝所には二度と入れるな。祝いの支度にも触れさせるな。代わりに、人目のある雑事へ回せ」


 それは一見、軽い処分に聞こえた。斬るわけでも、追い出すわけでもない。大声で糾弾するわけでもない。


 だが、奥向きに生きる女にとって、それは重い。


 若君のそばに寄れぬ。

 祝い事にも関われぬ。

 人目のある雑事ばかりへ回され、決して“内の深いところ”へ近づけぬ。


 つまり、その女の先はそこで止まるということだ。


 年長の侍女が深く頭を垂れた。


「承りました」


 義姫はさらに言った。


「寝所の出入りは、今より厳しく。布、湯、火鉢、乳。それ以外は許しがあるまで通すな」


「はい」


「品も受け取るな。祝いにかこつけて何か差し入れようとする者があれば、まずこちらへ通せ」


 喜多はその言葉を聞きながら、やはり義姫は甘くないと思った。

 甘くないが、理を違えない。

 感情だけで女房を叩き潰すのではなく、どこを閉ざせばよいかを正確に知っている。


 それが正室としての裁きなのだろう。


 義姫は最後に喜多へ目を向けた。


「そなた」


「は」


「見つけたことはよい。だが、次は起きる前に気づきなさい」


 叱責としては静かなものだった。

 しかし喜多は深く頭を下げた。


「肝に銘じます」


「肝に銘じるだけでは足りぬわよ」


「足りるようにいたします」


 義姫はそれ以上追わなかった。


 その場の処断は、その夜のうちに進められた。


 問題の女房は、表立った咎めは受けない。呼び出され、淡々と新たな役を命じられるだけだ。御子の寝所まわりから外され、祝いにも近づけず、以後は廊下や雑具の手配など、誰の目にも分かる“遠い役目”へ回される。


 そのとき初めて、女房の顔色が変わった。


「わたくしが……何か、心得違いを」


 問う声はかすれていた。


 年長の侍女は答えない。


「申し開きがあれば、いま申すがよい」


 それだけ言う。


 女房は口を開きかけ、閉じた。

 ここで何を言っても無駄だと知ったのだろう。証は薄い。だが、薄いからこそ始末は静かに決まった。言い逃れを重ねれば、かえって自分の浅さだけが際立つ。


「……承りました」


 声は小さかった。


 その女房が去ろうとしたとき、ふと足を止めた。


 廊下へ出る前、襖の向こうにある寝所のほうへ、ほんの一瞬だけ視線を向けたのだ。そこには白い布に包まれた御子が眠っている。まだ名もない、小さな赤子にすぎない。


 それなのに女房の顔には、妙な怯えが浮かんだ。


「あの子の目は……」


 誰に向けるでもなく、ほとんど息に紛れる声だった。


 年長の侍女が眉をひそめる。


「何」


 女房は青ざめたような顔で、なおも御子のいる方を見た。


「まるで、見ていたようで……」


 もちろん、ありえぬ話だった。


 赤子が何を見るというのか。

 まして、女房の浅い企みなど分かるはずもない。


 だが、その言葉を聞いた場の者たちは、誰一人すぐには笑わなかった。


 祝い膳のときも、寝所の香のときも、そして抱いた者や見た者の口からも、御子の“妙な静けさ”についての言葉はすでにいくつか漏れていたからだ。


 女房は我に返ったように頭を下げ、そのまま足早に去っていった。


 あとには、妙な余韻だけが残る。


 喜多はそれを追わず、ただ寝所の襖へ目を向けた。

 御子は静かに眠っている。

 何も知らぬ顔で、ただ小さく息をしている。


 だが、その静かな寝息のまわりで、すでに人は勝手に怯え、勝手に意味を見出し始めていた。


 義姫は報告を聞き終えたあとも、しばらく何も言わなかった。

 やがて、ただ一言だけ告げる。


「二度は許さぬ」


 それが誰に向けられた言葉か、はっきりとは定まらなかった。

 女房へか。

 喜多へか。

 それとも、御子のまわりで浅い争いを始めるすべての者へか。


 おそらくは、そのすべてだった。


 こうして第一の小さな乱れは、いったん始末された。


 誰が明確な悪人であったのかは、最後まで定まらない。

 むしろ、そこが奥向きの怖さだった。

 大きな悪意より、半端な気遣い。

 はっきりした敵より、善意の顔をした浅い細工。

 そうしたもののほうが、祝いの城には入り込みやすい。


 その夜から、御子の寝所はさらに静かになった。

 静かになったぶん、火鉢の音と、赤子の寝息だけがやけに耳へ残る。


 雪の降る米沢城の奥で、まだ名を持たぬ若君は変わらず眠っている。

 そのまわりの大人たちだけが、少しずつ選り分けられ始めていた。

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