第十七話神は血を覚えている
「それ、痛くないの……?」
リラが、クシムの左腕の紋章をそっとつついた。
月神ナンナに付けられた紋章だ。
「痛えよ」
即答だった。
でも、もう震えていない。
焼けた都の朝。
神の光で白くなった地面に、兄妹だけが立っていた。
「お兄ちゃん、光ってる」
「見るな」
「でも綺麗」
「……ばか」
短いやり取り。
だが、その“普通さ”が異常だった。
エリドゥは滅びた。
人は死に、神が裁き、復讐が始まった。
それなのに。
リラは兄の腕を両手で包み、心配している。
クシムは兵士の亡骸を見下ろした。
石版――『月の欠片』は、砕けず、静かに彼の足元に転がっている。
拾う。
触れた瞬間、脳裏に声が響いた。
――契約成立。
――奪取確認。
――神性模倣、開始。
「……なんだ今の」
「え?」
「何でもない」
リラには聞こえていない。
(俺だけか)
紋章が脈打つ。
熱い。
だが拒絶ではない。
これは拒絶の痛みじゃない。
“適合”の痛みだ。
「お兄ちゃん、これからどうするの?」
「出る」
「どこに?」
「月の届かない場所」
即答だった。
だが――そんな場所は存在しない。
月神ナンナは天にいる。
空を見れば、そこにいる。
隠れることは出来ない。
なら。
奪うしかない。
瓦礫の影から、うめき声がした。
「……生きてる?」
リラが小走りで近づく。
「待て!」
遅かった。
崩れた柱の下から、少女が顔を出す。
同じくらいの年。
血だらけ。
だが、生きている。
「……みず……」
リラは迷わず自分の水袋を差し出した。
クシムは舌打ちした。
甘い。
だが――止めなかった。
少女は水を飲み、二人を見た。
そして。
クシムの腕の紋章を見た。
目が、見開かれる。
「それ……月の……」
空が、震えた。
ぞわり、と背筋が粟立つ。
雲の向こうで、光が揺らぐ。
まるで。
見つけた、と言わんばかりに。
――観測。
――逸脱個体確認。
――排除優先度、上昇。
「……ちっ」
来る。
もう来る。
早すぎる。
「リラ、走れるか」
「うん!」
「その子も連れてけ!」
「えっ」
「今すぐだ!」
次の瞬間。
空から、光が一本、落ちた。
轟音。
地面が蒸発する。
さっきまで三人がいた場所が、消えた。
神は、覚えている。
自分の力を奪った血を。
神は、忘れない。
反逆の匂いを。
瓦礫の隙間を転がり込む三人。
息が荒い。
リラは少女の手を握っている。
「だいじょうぶ。お兄ちゃん強いから」
少女は震えながら言った。
「あなた……何をしたの……?」
クシムは、月の欠片を見た。
そこには、さっきまで無かった文字が浮かんでいる。
【神殺し適性:S】
【供犠条件:未達】
【代替条件:血統進化】
「……は?」
意味が分からない。
だが一つだけ分かる。
生贄は、不要になった。
代わりに。
“俺が変わる”。
「リラ」
「なに?」
「俺が人間じゃなくなっても」
「うん?」
「……兄ちゃんでいられると思うか」
リラは、きょとんとした。
そして笑った。
「なにそれ」
即答。
「お兄ちゃんは、お兄ちゃんだよ?」
迷いゼロ。
嘘ゼロ。
それが。
一番、効いた。
空が再び光る。
今度は三本。
逃げ場はない。
クシムは石版を握りしめた。
「――奪うぞ」
紋章が、全身に広がる。
月光と同じ色の、しかし濁った光。
神の力を、人間の器に無理やり流し込む。
骨が軋む。
視界が割れる。
でも。
止まらない。
止まれない。
「ナンナァァァァァ!!」
少年の叫びが、空を裂いた。
月がわずかに欠けた。
続く。




