『消えたはずの温度』
──Opening Scene──**
夜勤の静けさには、いくつかの“段階”がある。
一番深いところは、音よりも先に温度が消える。
自動ドアのセンサーが眠り、冷蔵ケースの振動が
呼吸みたいに弱くなる頃、
このコンビニはようやく“夜”になる。
ぼくは、その瞬間が好きだった。
誰もいないのに、誰かがいた痕跡だけが
棚の間に残っている時間。
あと一歩、世界が黙り込む直前の温度。
その夜も、そうだった。
──なのに。
閉店間際にまとめ買いした客はひとりもいないのに、
レジ画面には「ホットスナック × 1」の履歴があった。
いつの間に? 誰が?
トングも動いてない。
揚げ置きライトもずっと同じ光だ。
監視カメラを巻き戻しても、
該当時間の映像だけが“薄く”なっていた。
ノイズじゃない。
映っているのに、輪郭だけが
水に落とした絵の具みたいにほどけていく。
まるで “そこにいた人間の温度だけ”
最初から存在しなかったみたいに。
ぼくは一度、深く息を吸った。
息が胸で引っかかる瞬間、
違和感は確信に変わった。
──この店に、誰かがいた。
でも “記録上はいない”。
夜のコンビニで、一番やってはいけない矛盾だ。
スマホが震えた。
便利屋の友人・つるぎからだった。
〈お前の店の前で変なの見た。
すぐ外に出ろ。
できれば、誰にも触るな〉
意味が分からなかった。
でも、直感が言っていた。
これは消えた“客”じゃない。
消された“痕跡”だ。
ぼくはコンビニを出る。
ドアが閉まる直前、
店内の温度が一瞬だけ沈んだ。
まるで、
誰かがそこで“呼吸”していた跡みたいに。
──Scene 2:つるぎの視た“ズレ”──**
外に一歩出た瞬間、
夜気が、店内よりわずかに“暖かい”ことに気付いた。
冬なのに。
照明の熱でも排気でもない。
もっと別の──
誰かの体温だけが外に流れ出したような温度差。
つるぎは、街灯の下にいた。
パーカーのフードを目深にかぶり、
耳につけたワイヤレスイヤホンを外すと、
その表情だけで“ただ事じゃない”のが分かった。
「……お前、
店の中で“音が途切れる瞬間”とかあった?」
つるぎの聞き方は、いつも変だ。
質問の内容より、質問の“角度”で
すでに答えが半分出ているタイプ。
「途切れるって……レジの音?」
首を横に振る。
「違う、温度のほうの音。
息が一瞬だけ“途切れた”みたいな。」
ぼくは、無意識に胸の奥の違和感を撫でた。
…確かに、あった。
でも、それを「音」って言われると妙に納得してしまう。
つるぎは、昔から“ズレ”を感じる人間だ。
人の言葉の裏や、風の流れの方向とか、
関係なさそうなものの間にある
**“ノイズみたいな本質”**を拾ってしまう。
「さっき歩いてたら、
お前の店の前だけ空気が揺れてた。
人通りもないのに。
気配だけ先に通っていく感じで。」
つるぎは息を吸う。
冷たさが肺に刺さったみたいに顔をしかめた。
「でな、
すげえイヤな“前兆”見えたわ。」
「前兆?」
「人が“消える”ときの空気。」
ぼくは言葉を失った。
店内で感じた不自然な温度。
ノイズのような映像。
触れた形跡のないホットスナック。
でも──
つるぎの言った“前兆”は、
そのどれよりもはっきりしていた。
「音が、減ってんねん。」
「……減る?」
「そう。消えるじゃなくて、“減る”。
音の量が誰かに吸われていく。
あれが起きた場所は、
そこにいた人の“痕跡”が消える。」
つるぎの声が、街灯の光より静かに沈む。
「それ……犯人とかじゃないの?」
つるぎは首を振る。
「違う。
あれは“現象”。
でも起きる条件だけは、
“人間の行動”にくっついてる。」
そのとき、自動ドアが背後で勝手に開いた。
誰もいないのに。
つるぎが小さくつぶやいた。
「はじまったな。
“消える温度”を持つ奴が、
まだお前の店にいる。」
ぼくは振り返る。
店内はさっきまでと変わらない──ように見えた。
ただ一つだけ違う。
ホットスナックのケース。
揚げ置きライトの光が、
まるで“誰かの影を照らしている”みたいに歪んだ。
──Scene 3:温度の抜け落ちた店──**
自動ドアがまた開いた。
誰も通っていない。
でも──どこかが“減った”感覚だけが残る。
つるぎは、フードの影で目をすがめた。
「……温度、抜かれてるな。」
「温度を……抜く?」
「人が“存在してた痕跡”のほうをや。」
その言い方に背筋がざわりとした。
でも、つるぎは続ける。
「犯人はもう店内にいない。
でも、犯人の“やったこと”だけは残ってる。
お前、レジ横のホットスナック……
最後に触ったの誰や?」
ぼくは無意識に視線を向けた。
ホットスナックのケース。
光がなぜか少しだけ弱まっている。
「あれ……さっき、
誰かが一個取ったはずなんだけど……」
「レジ通ってへんやろ?」
「うん。アラームも鳴ってない。
でもケースの“温度”が確かに落ちたんよ。」
つるぎの眉がぴくりと動く。
「ほらな。
“異常行動”はいつも温度から出る。」
「……じゃあ、万引き?」
つるぎは首を横にゆっくり振る。
「普通の万引きなら、
痕跡は逆に増えるねん。
動きのズレ、視線の逃げ、呼吸の乱れ……
痕跡は“増える”。
でも今回は“減った”んや。」
そのとき、ぼくは気づいた。
レジ横の、
割り箸のケース。
ストローの並び。
雑誌コーナーの影。
ひとつだけ、影が薄い。
「……そこ。
雑誌の棚の前。
影がおかしい。」
つるぎはゆっくりうなずいた。
「そこや。
“そこに居たはずの人”の痕跡だけ、
きれいに抜かれてる。」
「じゃあ……その人はどこに?」
つるぎの声が低く落ちる。
「ここにおらん。
いや、おらんようになったんや。」
ぼくは息を呑んだ。
「……死んだの?」
「ちゃう。
“消えた”んや。」
つるぎは店内をひと巡りし、
ホットスナックの前でしゃがむ。
「これ、温度が落ちてるのに、
油の匂いだけ残ってるやろ。」
「……うん。」
「普通は逆や。
匂いは飛んで、温度だけ残る。
でも今回は、温度だけ消えとる。」
その瞬間、
ぼくの脳が繋がった。
「つるぎ……
これ、誰かが取ったんじゃなくて──
“そこにあった温度だけ盗られた”ってこと?」
つるぎがにやりと笑う。
「そう。
“温度の万引き” や。」
「……人間が?
そんなこと……」
「できる。
冷蔵庫で働いてる人に多いんや。
温度を感じなくなる職業病。
“温度に対して麻痺する”代わりに、
触れたものの温度を奪ってしまう。」
思い出した。
数年前、この店に来ていた常連。
深夜に働く倉庫スタッフで、
いつも手が冷え切っていた。
「……あの人、名前……」
「覚えてるやろ?
今日、店の外の監視カメラに映っとったで。」
ぼくの呼吸が止まる。
「でも──
その人が“消えたのはなんで”?」
つるぎは表情を変えずに、
雑誌棚に視線を向けた。
「簡単や。
自分で“自分の温度”も奪ってもうたんや。
自分の痕跡を全部“消して”もうた。
いるはずの場所から、
存在の“温度”だけ抜けて、
世界から“消えた”んや。」
ぼくは震えた。
まるで心霊現象のようなのに、
全部“人間の行動”で説明がつく。
怖さが圧倒的にリアルだ。
つるぎは立ち上がり、
ぼくの肩を軽く叩く。
「この街な、
こういう“減り方の死に方”がある。
残らんで消える死に方や。」
「……この先どうするの?」
「決まってるやろ。
“どこで消えたか”を辿る。
痕跡が減ったってことは、
逆に“残った部分”がある。」
街灯の下で、
つるぎの影だけがくっきりと伸びていた。
「お前の店はな……
“最後の暖かさ”だけ残っとる。
それが、あいつの“遺体”や。」
ぼくは呼吸を飲んだ。
遺体は──
もう形を持たず、
ただ“残った温度”だけになっていた。
──Scene 4:残った温度と、答えの場所──**
店の外に出ると、
乾いた深夜の空気が、
なぜかほんの少しだけ、“温かかった”。
つるぎが歩きながらぽつりと言う。
「消えた人間はな、
“最後に触れた場所にだけ、
生の名残が残るねん。”」
「……さっきのホットスナック?」
「ちゃう。
もっと“長く触ってた場所”や。」
ぼくは思い出そうとした。
――雑誌棚。
――飲料の扉。
――カウンター。
そのどれでもない。
つるぎが、指で示した。
店の外壁の、
ひときわ白い場所。
「ここや。」
そこは、コンビニに入るたび
ほとんどの人が無意識に触る場所だった。
“入店のとき、手を添える壁”。
つるぎはポケットから
小さな温度計を取り出した。
アナログ針が、ふるふる震えながら上がっていく。
「……なんでそこが温かいん?」
「死んだんちゃう。
“消える直前まで生きてた場所”やからや。」
ぼくの心臓が跳ねた。
「じゃあ、その人は──」
つるぎは、ふっと笑って見せた。
「自分で“ここから消えた”っちゅうことや。」
その言葉が落ちてから、
静寂がゆっくり、街灯の下に沈んだ。
ぼくは震える声で訊く。
「……どうしてそんなことを?」
つるぎは壁に触れる。
まるで誰かの手を重ねるみたいに。
「温度に鈍くなる職業、言うたやろ。
冷蔵倉庫で働きすぎてな、
“温かさ”を感じる閾値が死んどるんや。」
「……それが理由で?」
「ちゃう。
その人はな──
『自分の温度だけが世界で邪魔』やと思ってもうてん。」
ぼくは息が止まった。
つるぎは淡々と続ける。
「冷たさに慣れすぎて、
温かいもん触ると反射で“奪ってしまう”。
人の肩も、飲み物も、子どもの手も。
全部“冷やして”しまう。
そのたびに、“存在の温度”だけ残る。」
胸の奥が痛くなった。
「それで……消えた?」
「そう。
“自分がこれ以上、世界を冷やさんように”や。」
ぼくは言葉が出なかった。
この街の片隅で、
そんな死に方をする人間がいるなんて。
つるぎは壁から手を離す。
「この温度はな、
“最後に誰かが触られた記憶”や。
あの人が触ったんと、誰かが触られたんが、
ここで同時に終わったんや。」
「……誰か?」
つるぎはゆっくりこちらを見た。
「お前や。」
頭が真っ白になった。
「お前、昨日ここを通った時、
誰かと肩ぶつかったって言うてたやろ。
思い出せへんって。」
思い出した。
深夜の帰り道。
ふっとよけそびれた肩。
ただの影みたいな感触。
「それ……あの人……?」
「せや。
“君の温度”が最後の止めやったんや。」
ぼくは震えた。
「でも……なんで僕だけ覚えてない……?」
つるぎは目を伏せた。
「“奪われた温度”は、
人間の“時間の感触”ごと抜け落ちるからや。
記憶の端がざらつくのはそのせいや。」
そう言って、
つるぎはコンビニの方を振り向く。
「行こか。
報告は俺がまとめといたる。
お前は……
“奪われへんように、自分の温度”守っとけ。」
その言葉に、
胸が妙に熱くなった。
つるぎは歩き出し、
ぼくもその背中を追う。
夜風が、すこしだけ温かい。
あの人が消えた理由は、
世界を嫌ったからじゃない。
世界の温度を守りたかったからだ。
それがわかった瞬間、
ぼくの中で“何か”が静かに戻ってきた。
最後に触れられたのがぼくだったなら、
あの温度は──
どこかで、まだ続いている。




