出立
「兄様、大変お世話になりました。大僧正様、それと世話をしてくれた方々にもよろしくお伝えください」
「ああ。……アルカイオスは大丈夫か?」
「え、ええ」
「……昨日、教えまして」
昨晩、言葉通りひっくり返ったアルカイオスは一夜が明けてからもアフラが何かする度にぎくしゃくとしている。イザナが呆れたように扇子で肩を叩いてようやく落ち着いたが、先が思いやられているのは言わずとも分かった。
「まあ、スエンがいるなら大丈夫だろう。アフラ、お前にこれを」
イザナは黒絹の袋を取り出すとアフラの手に乗せる。袋を開くと、中に入っていたのは縁に黒瑪瑙や紅玉髄などの宝石があしらわれた鏡だった。豪奢ではないものの非常に精巧な細工が施されており、一流の職人によって作られたであろうことは想像に難くない。
「これは見事な……。兄様、よろしいのですか?」
「構わない。俺が持っていたところで役には立たんしな。……恐らく、お前は大きく力を使うと色が変わってしまうのではないかと考えている。お前は他者の変化には敏感だが自分の事には疎いゆえな」
「……はい。ありがとうございます、兄様」
アフラは鏡を袋に戻すと大事に懐へしまった。
「そうだ、兄様。私達の名付けに立ち会って下さった方はどこの国の御方なのですか?」
「いや……それは、私も教えて貰うことはできなかった。だが、父が言うには──『訪ねるのであれば、必ず相見える』と」
「……?」
「父の知己である事には違いないだろう。ひとまずは、グラシャを目指したらどうだ」
「『瑠璃の都』! 伝説の都ですね!」
グラシャはマハ国から見て西にある国の中でも最も栄えている国だ。様々な宝石を産出する豪商の国で、特にその首都は美しい瑠璃色の建造物が立ち並ぶという。
「……では、兄様。ご健勝であられますよう」
「ああ、お前も無理をしないようにな。アルカイオス、頼んだぞ」
「命に代えましても」
「それと、下兄様と喧嘩はしないでくださいませ。周りが苦労をするのですから」
「……ああ、留めておくよ」
イザナの微笑みは信用ならないとアフラも分かっていたが、ここで問答をしてもどうにもならない事も分かっていた。名残惜しい気持ちを振り切って、アフラは門を出た。
「それでは!」
「うむ」
門が閉まる音を背中に受けながらアフラとアルカイオスは山道を下る。
「……うん?」
「どうされましたか?」
「スエンの鞍がある……」
馬小屋に着いた二人は自分の愛馬に装備をつける為用具室に向かおうとしていたが、スエンには既に馬具が用意されていた。
「これは……王族の鞍ではございませんか?」
「あ、ああ。これはどういう……」
アフラは何かに気付くとスエンの首にかけたままの箱を開ける。そこには新たな巻紙が入っていた。
[これで兵站の件はチャラですぞ、殿下]
「……何ですか、これは」
「ガルガン将軍だ……」
「兵站の件……。……もしや、かの将軍の「やらかし」というのは、相当だったのでは?」
「……ああ、まあ、そうだな。何とかはしたが、それでも大事にはなった」
アフラは頑なに仔細を語らないが、兵站に関わる大事というだけでアルカイオスも大体を察することができた。
「しかし、仮にも自国の王子に対してこのような口の利き方、不敬ではありませぬか」
「ガルガン将軍とは私達が幼かった頃からの付き合いゆえな。将軍の気楽な振る舞いは落ち着くのだ」
「……左様ですか……」
「憎めない性格なのだ、ガルガン将軍は」
それに、これはいい物だぞ、とアフラはやや声を弾ませる。
「これは影潜みの鞍といってな。持ち主の影に馬を潜ませておけるのだ。しかもこれは鞍そのものにまじないが刺繍されているゆえ、力が失われにくくなっている。助かるな」
「なるほど。上手く使えば奇襲になりますな。しかし、王族用となるとおいそれとは持ち出せないのでは」
「まあ、良いだろう。この鞍は柔らかいとか何とかと言って、下兄様は折角献上されたのにろくに使わなかったのだし」
「……セリオン殿の鞍なのですか?」
するとアフラは拗ねたように頬を赤くした。
「良いのだ。兄様の使わぬものを使ってなにが悪い! 大体、そもそも兄様だって私の使っている筆とか文鎮とかを勝手に持って行くのだ。隠していた茘枝を食べられたことだって……。……っとにかく、良いのだ!」
「……っ、ふ、ふっ……」
「わ、笑うでない」
「い、いえ。失礼しました。あまりに微笑ましいので、耐えきれず」
「微笑ましい?」
ええ、とアルカイオスは目尻を拭う。
「王族の兄妹というと、もっとすました関係なのかと思っておりましたので」
「王族の……まあ、そういう国もあるかもしれないな。そう思うと、私達は大分伸びやかに育てられたのだと思うよ」
支度を整えるとアルカイオスが地図を開く。西には公道が続いており、アルカイオスはその道沿いにある街を指した。
「このメサという街に友人がおります。少々癖がありますが非常に頭が良く、頼りになる男です。アフラ様さえよろしければ、この者の随行をお許しいただきたいのですが」
「私にとってはありがたい事だが、その者が旅をしたいかどうかは分からないのではないか?」
「ご安心を。この男は前々から西に並ならぬ興味がございます。嫌とは言いますまい」
「そうか……では、行こう!」
「はっ!」




