月の死
その日、マハの王が死ぬ。
「月蝕が!」
「ああ……王が、身罷られる……!」
天に煌々と輝く月が欠けるのを、城の天文学者達がその目に捉えた。すぐさまその報せは城中に伝わり、それは宝物殿にいる第三王子も例外ではない。
「アフラ殿下! 殿下はいずこにおられますか!」
「ヤナドか。私はここだ!」
資料室から艶やかな黒髪を結った少年が顔を出す。侍従の表情に何が起こるかを悟った、マハ王国の第三王子──アフラは悲しみに顔を強ばらせたが、唇を引き結び僅かに頷いた。
「申せ」
「月蝕が……始まりましてございます……」
「……分かった。兄様は」
「既に帰城されておられます」
「そうか。……支度をする」
アフラが足早に部屋に戻ると既に女官が身支度の準備を整えていた。香が焚かれ、夜空のように濃い紫色の衣装を着せられる。この特別な紫色は、王族のみが纏うことを許された喪の色だ。仕上げに魔除けの宝剣を渡され、アフラは王の寝所に向かう。
「アフラ様、御到着でございます」
「父様、アフラが参りました」
「…………おお…………アフラ…………」
父王シャフリーズ三世が横たわる寝台の傍らには、侍医や家臣の他にアフラの兄セリオンとその妻シュラがいた。
痩せた父王が手を震わせアフラに触れようとする。アフラは涙を滲ませながらその手を握ったが、その瞬間異変が起きた。
「──セリオン様、月が!」
「ッ……」
「なっ……どう、して……!」
神官の声にアフラも窓に目を向ける。寝所から見える月が、急速に欠け始めたのだ。
「ぉぉ……太陽、よ…………」
「父様! そんな……まだ刻は……!」
「……すまぬ……すまぬ、我が子ら……よ……」
シャフリーズ三世の手から力が抜け落ちる。まるで残った命を拭い去られたように、マハ王国三十八代国王シャフリーズ三世は崩御した。
「…………」
「…………」
重苦しい沈黙が王の寝所に満ちる。
「……葬儀を執り行う」
「……はい。兄様」
アフラは立ち上がると祭具を持つよう神官に指示を出す。王位を継ぎ、喪主を務めるのは兄のセリオンだが、それに必要な祭壇や祭具の管理をしているのはアフラであるからだ。
「……セリオン陛下……」
シュラが口上を述べようとしたその時、セリオンは剣を抜いて立ち上がった。
「!」
「セリオン様!?」
殺気を感じ取ったアフラも宝剣を抜く。真っ直ぐにアフラの首を狙った剣を辛くも受け止めたが、国一番の武人と謳われるセリオンの剣は重く、またその膂力の差は悲しい程に開いていた。
「な……にを、するのですか、兄様……!」
「……心配すんな。どうせ行くところは同じだ」
セリオンが押す力を強めるとそのまま押し倒され、受け止めている宝剣に罅が入る。
「っ」
バキン、と金属が折れたのと同時にその刃がアフラの首に触れ──その首が離れた。
「あ……ああ……!」
「シュラ様!」
シュラが倒れるが、セリオンはそれを意に介することもせずに首を斬られたアフラをじっと見つめている。
「な……なぜですか、セリオン殿下……」
「殿下の王位は確かなものです! なにもこのような……」
「黙れ」
セリオンが剣を振ると離れているはずの臣下の胸が斬り裂かれる。死の恐怖に誰もが口を噤む中、更なる異変が起きた。
「──ああああああああぁぁぁアァああああああああぁぁぁぁあぁああぁああああああああああぁぁぁぁあぁああぁああああああああああぁぁぁ!!!!!!」
体から斬り落とされ、息をすることの無いはずの口から絶叫が響く。かつてそれらが繋がっていたことを示す血の帯が、転がった首と体を繋ぐように輝くと蠢いた。
「火を持て!」
「は……はいッ!」
頭と体の間にある血の糸はより合わさり怒涛の勢いで短くなっていく。分けられた火が届く頃には、アフラの首は元の体と繋がった。
その瞬間、アフラの射干玉の髪が、肌が、纏っている紫までもが「白」となった。
「──何なのですか、これは」
先程の異変を認識しているのか、アフラは上体を起こしてはいるがその体は震え、頭を抱えている。
「どうなっているのですか? 私は?」
それは、この場の誰もが思っていることだった。
「──分かっているのは……」
「!」
「お前が、死ななきゃならねぇってことだな」
アフラの血がついた剣が再び振るわれる。身を守るものは無く、アフラは迫り来る死の痛みに強く目を閉じる。
しかしそれが訪れる事はなく、代わりに剣と剣がぶつかる音が響いた。
「──二度も、この方を斬れるなどと思ったか」
「……誰だ、テメェは」
アフラの前に立ち、セリオンの剣を止めたのは、黒い甲冑と外套に身を包んだ騎士だった。
「ど……どこから現れた!?」
「こやつ、影から現れたぞ!」
「影から!?」
「……影渡り。あのクソ坊主か!」
セリオンは後ろに跳ぶと侍従から松明を奪う。松明を束ねている布を切り裂くと二人と自分の間合いに燃える木片をばら蒔いた。その火が影に触れると「何か」に燃え移ったように黒く変わり、黒騎士は僅かに舌打ちする。
「アフラ様、ここから脱します」
「あ……貴方は……」
「今は生き延びる事だけをお考え下さい。……ここには、貴方の味方は限りなく少ない」
気付けば兵士が寝所の扉を塞いでいる。騎士がアフラを抱えると同時にセリオンが斬りかかった。
「ぬっ!」
「おおっ!」
烈しい剣戟の音が響く。騎士の攻撃を躱したセリオンが騎士の剣を蹴り上げ、剣は宙を舞い床に突き刺さる。しかしそれに動じることなく騎士は紐のついた布玉を取り出すと口で紐を引き、地面に叩き付けるともうもうと煙が立った。
「逃がすな!!」
「ぎゃっ!」
「ぐわあっ!」
剣を構えた兵士をものともせず騎士は扉を破り城内を突っ切る。
「アフラ様。口を閉じ、しっかりとお掴まり下さい。舌を噛みます」
「え──」
「隊列を組め! ここを通すな!」
走る騎士の前を槍を持った兵士達が塞いだ。騎士は速度を弛める事無く道中の兵士を掴み、最も大柄な槍兵に向かって投げ飛ばし隊列に穴を作ると、それを踏み台にして窓から城の外へ飛び降りた。
「飛び降りたぞ!?」
「追え、追えーーっっ!」
──かくして、実兄に斬られ甦ったアフラは、突如現れた騎士によって救われマハ王国の首都から脱出した。これが彼らの、呪いとも祝福ともいえる運命の始まりであった。