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子狐

夏の空は、どうしてこんなにも広いのだろう。


陽射しは容赦なく照りつけて、空気までじりじりと焼いていた。石畳の隙間からは草がのび、風の抜ける影ひとつすら貴重に思えるほどの昼下がり。


訓練場の隅、建物と塀のあいだ――ようやく風が通るその日陰に、フーリェンはうずくまっていた。


目線の先にいるのは、激しく剣をぶつけ合う、自分と年の変わらない二人の少年。


一人は、兄ジンリェン。


生まれた時から、ずっと一緒だったはずなのに、こうして剣を握り、誰かとぶつかり合う姿を見ていると、何歩も先を歩いているように思えた。


そして、もう一人。


最近よく話しかけてくれる狼の少年――シュアンラン。


耳の先がぴくりと揺れるたびに、風が尾をなびかせる。ヒューマンとのハーフだと言っていたが、その影は全くない。大振りな振りに、大胆な動き。なのにその声は不思議と柔らかい。


互いに真正面からぶつかって、打ち合って、笑って。ときどき息をついて、また剣を構える。


その様子は、まるで遊びのようにも、訓練のようにも見えた。


――でも、きっとどちらも本気で。


そんなふたりを、フーリェンはただ、ぼんやりと見つめていた。


あの輪の中には、まだ入れない。


入ろうとすれば、足が竦む。声をかけようとすれば、喉がつまる。怖くはない。兄は優しいし、シュアンランも、まっすぐな目で見てくれる。


けれど独りで歩き出すには、この世界はまだ、あまりに広すぎた。


影の中で、そっと膝を抱えなおす。指先は汗ばんでいて、砂粒が張りついた。


草が揺れた。蝉が鳴いた。木剣がまた音を立てた。


その全部が遠くて、でも、少しだけ――羨ましかった。


風が吹いて、兄の白い上着がひるがえる。

それに目を細めたフーリェンは、すこしだけ息を吸って、そしてまた、小さく息を吐いた。


まだ、ここにいる。

今は、まだ、それでいい。


風がまたひとつ吹き抜け、木陰を作っていた葉の影を揺らす。日陰の涼しさがわずかに薄れるその一瞬、フーリェンの傍らにもう一つの影が差し込んだ。


気配は静かだったが、子狐の耳は敏感にそれを捉えていた。そっと顔を上げると、そこには一人の男が立っていた。


ベルトラン。女王直属の護衛にして、訓練場の誰もが頭の上がらぬ厳しい教官。そしてなにより――この王宮で、白狐の双子を「個人」として見てくれる、数少ない大人のひとり。


彼は何も言わず、ただゆっくりと腰を落とし、片膝をつくようにしてフーリェンの隣に座った。そして、大きな手で、そっとフーリェンの頭を撫でる。乱れた髪を優しくなで直しながら、視線だけを訓練場の方へ向けた。


「……気になるのか?」


低く落ち着いた声だった。


その声に、フーリェンはほんの少しだけ頷いた。まるで音を立てないほど、かすかな動き。それきり、何も言えなかった。


兄たちが、また木剣を交えている。汗に濡れた額、笑い声、土煙。あの輪の中は、やはり遠い。


ベルトランは無理に言葉を引き出すこともなく、黙って隣にいた。彼の背中は大きくて、鎧の匂いと夏の陽射しの匂いが混ざっていた。


しばらくして、フーリェンはゆっくりと膝を解いた。

まだ不安で、体は思うように動かなかったけれど――それでも、立ち上がることはできた。ためらうように伸ばした指先が、ベルトランの隊服の裾に触れる。


ふと、ベルトランが隣にくっつく子狐へと声をかける。


「……お前も、やってみるか?」


その声は、いつものような厳しさを孕んでいなかった。強要でも、試すような響きでもなかった。ただ、――可能性の扉を、すこしだけ開けてみせるような問いかけ。フーリェンは、驚いたように彼へと視線を向けた。


目が合う。


驚きと、不安を織り交ぜた顔で見つめる子狐に、ベルトランは優しく手を差し出した。その手を、フーリェンはおずおずと取る。


ひやりとした金属の感触が指先に触れたのは、彼の手甲の一部だったかもしれない。けれど、それでも温かかった。


「こっちだ」


ベルトランは短くそう言って、フーリェンの手を引いた。


おっかなびっくり、という言葉がぴたりと当てはまるような歩みだった。砂に足をとられそうになりながらも、フーリェンは懸命に彼のあとをついていった。


二人のいる中央ではなく、その少し外れ。ベルトランは立てかけてあった訓練用の武器の中から一本選び取ると、その木剣を掲げて見せた。


「こいつは軽めのやつだ。お前には、こっちの方が扱いやすいだろう」


そして、両手で柄を持ち、フーリェンに向けてそっと差し出した。フーリェンは、戸惑いながらその木剣を見つめた。恐る恐る、両手を伸ばす。その小さな手が柄を包むと、木剣は少しだけ重みを持って腕に沈んだ。


――握るという行為。


それだけのことなのに、心が、どこかざわめく。

指をぎゅっと握り直して、フーリェンはただ、静かにベルトランの顔を見た。


そんなフーリェンの姿に、ベルトランは小さく笑った。そのままフーリェンの肩に軽く手を添ると、視線を訓練場の中央へと向けた。


「……よく見ろ」


低く、しかしどこか柔らかさを含んだその言葉に、フーリェンもつられるように目を向ける。


そこには、変わらず木剣を打ち合う二人の少年の姿があった。


どちらも、自分と同じ年頃のはずなのに、剣を振るう動きにはどこか風格さえ感じられた。汗を拭うことも忘れて夢中で剣を交わすその姿は、まるで何かに挑む戦士のようにすら見える。


「最初から上手い奴なんていない。ただ――繰り返すことで体が覚える。それだけのことだ」


そう言うと、ベルトランはフーリェンの背中にそっと手を当て、姿勢を正した。猫背になりかけた肩を引き、足を肩幅に開かせて、両手に握られた木剣がまっすぐ前を向くように、ゆっくりと導く。


「まずは、振ってみろ。重さに慣れるところからだ」


フーリェンは、小さく息をのんだ。

緊張と不安が混ざったまま、両手で木剣を握りしめる。ぎこちなく、少し震える腕。


それでも、意を決して一太刀振り下ろした。


ぶん、と風を切る音がした。


それは決して美しい動きではなかった。剣筋は逸れ、腰も浮つき、力も均等ではない。


だが、それはたしかに「はじめての一歩」だった。


「…ふっ」


小さく笑う声が、すぐ隣で聞こえた。


「よし、もう一度。今度は、…ジンリェンを見てみろ。お前の兄貴だ。動きをよく見て、なぞるんだ」


促され、フーリェンは再び兄の方を見た。


ジンリェンはちょうど一拍間を取って、シュアンランに向かって斜めに踏み込み、滑らかに木剣を振り抜いていた。


構え、踏み出し、腕の振り――すべてを、フーリェンはじっと、まるで吸い込まれるように目で追った。


そして次の瞬間。


フーリェンの身体が、自然に動いた。

肩の力を抜き、足を一歩踏み出し、両手で剣を振るう。先ほどまでの覚束なさは消え去っていた。


まるで鏡が映し出したかのように、兄と同じ動きを、寸分違わずなぞってみせる。


ベルトランの目が、見開かれた。


踏み込み、上体の角度、腕の振り――動きの鋭さや重みこそ、ジンリェンには及ばない。だが、それでも「再現」という点においては、ほとんど完璧と言ってよかった。剣筋を、姿勢を、彼はただ「見て」、そのまま「写した」。


「……無自覚、か」


思わず口に出した言葉に、自身で小さく苦笑する。

恐ろしい才能だ、とベルトランは思った。


普通であれば、幾度も繰り返して、身体で覚えていくものを――この子は「一度見る」だけで、輪郭を掴み取ってしまう。


きっと、これまでにも、同じことを繰り返してきたのだろう。


思い返せば、フーリェンはいつも静かだった。よく見ていた。口数は少なく、輪の外から誰かをじっと見つめていることが多かった。


けれど、それはただ臆病だからではなかった。

見ることで、世界を知ろうとしていたのだ。

真似ることで、自分をそこに繋ぎ止めようとしていたのだ。


王宮に来てから、三年。


何も与えられなかった時期に、彼が唯一できたこと。それは、「見ること」だったのだろう。


ひたすら目に映るものから拾い集めて、かたちにしてきた。


「……なるほどな」


ベルトランは、フーリェンの手元にそっと目を落とす。


小さな手が握る木剣。それを振るう姿はまだ頼りないが、芯の部分には何かしらの「型」が、すでに息づいていた。


「お前は――本当に、おもしろい子だな」


そう呟いた声に、フーリェンは振り返った。


大きな目が、不思議そうにベルトランを見上げていた。まるで、自分が何かを成し遂げたという実感すら持っていないような、あどけない表情。


それがまた、この才能の底知れなさを物語っていた。


 






**

数日後――


王宮の外れ、石造りの門を越えた先にある訓練場には、朝から幾人もの兵士たちが集まっていた。


そこは、「零軍」と呼ばれる精鋭部隊の拠点。訓練も規律も厳しく、王国最古参の兵士たちが揃う場である。その中心に、一つだけ異質な影があった。


訓練場には不釣り合いな、小さな子狐。


その子狐の手は、ベルトランの大きな手にしっかりと握られている。


訓練場に立つその小さな体は、まるで凍りついたように固まりきっていた。耳はぺたりと頭に伏せ、尻尾はふくらんだ毛を精一杯しぼませるようにして、脚の間に巻き込まれている。


見慣れない広い空間。鋼のにおい。鋭い視線と、背筋の伸びた兵士たちの姿。


フーリェンはまるで怯えた小動物のように、ぷるぷると肩を震わせていた。


その様子に、兵士たちが一斉に吹き出す。


「ちょ、隊長!震えてますよこれ!」

「おいおい、連れてくるにしたって早すぎるだろ!」


笑いが、訓練場のあちこちから沸き起こる。


それは悪意ではない。ただ純粋に――この場にそぐわないほどちんまりとした子狐の姿が、あまりにも予想外で、あまりにも可愛すぎたのだ。


けれど、当の本人にしてみれば、たまったものではない。


ビクリと体を強張らせたフーリェンは、次の瞬間、くいっとベルトランの服の端を引っ張ると、彼の足元にしがみついた。小さな手が鎧の縁を掴み、ぴたりと身を寄せる。


「……まったく」


ベルトランは、フーリェンの頭に軽く手を置いたまま、ため息混じりに言った。


「笑ってる暇があるなら、ちゃんと見てろ。こいつが今に、驚かせる側になる」


その一言に、兵士たちが「えっ」と互いに目を見合わせる。冗談半分の言葉が飛ぶ中で、フーリェンはベルトランの脇から、ちらりと視線を上げた。


しがみついてくる子狐の背に手を添えたまま、ベルトランは兵士たちへと顔を上げた。


「こいつを、今日から零軍に入れる」


その一言に、一瞬、場が静まる。


ぽかんとする兵士たちに構わず、ベルトランは続ける。


「外に慣れさせたいんだ。狭い部屋に閉じこもらせておくには、もったいない」


淡々と、しかし迷いのない口調だった。


「それに、剣筋が悪くない。吸収が早い。俺が見た中でも、稀なタイプだ。育て甲斐がある」


その言葉に、数人の兵士たちが目を丸くし、次いで笑いとともに、どこか本気で驚いたようなざわつきが広がる。


兵士たちの多くは、子狐の経歴を知っている。王宮に連れて来られたあの日のこと。訳あってなかなか部屋から出ることも叶わず、出歩けるようになったのも、つい最近のことであること。そして何より、ベルトランが彼を時折気にかけていることも。


厳格なあの男が、自分から一人の子供に向き合っている。その事実だけでも十分珍しかったのに、まさか、零軍に“入れる”と言い出すとは。


それでも。


誰一人として「反対だ」とは言わなかった。


「……まあ、あんたがそこまで言うなら、付き合いますけどね」


口々にそんな声が上がる中、ベルトランはふと視線を落とす。


「聞いていたな?お前は今日から、この隊の一員だ」


フーリェンはまだベルトランの隊服に顔を埋めたままだったが、微かに耳がぴくりと動いた。

ベルトランはその耳を軽くつつくようにして言う。


「……大丈夫だ。ゆっくりでいい。その“目”を、ここでも使ってみろ。見て、覚えて、いつか……追いついてみせろ」


その声に、フーリェンはようやく、そっと顔を上げた。







**


「育てる」とベルトランは言った。

だが、実際に始まったのは、剣の訓練ではなかった。

まず最初に与えられた“任務”は、ただ隅っこに座っていることだった。


訓練場の端、陽射しを避ける木陰の下にぽつんと置かれた小さな木の椅子。そこがフーリェンの定位置となった。


ベルトランがフーリェンへと指示したことは一つだけ。


「よく見ろ。それで十分だ」


フーリェンは、その言葉に素直に従った。

じっと、静かに。騒がず、焦らず。

目の前で繰り広げられる訓練風景を、ただ見つめ続けた。


剣の振り方、足の動き、掛け声、体の向き、休む時の息の抜き方――


彼の瞳はまるで水面のように、それらを正確に映し取り、心の中にしまい込んでいく。


そして、誰も見ていないと思っているような隅で、ひとり木剣を手に持ち、見よう見まねでその動きをなぞってみせる。


その繰り返し。

それが、彼にとっての「学び」だった。


最初こそ半信半疑だった兵士たちも、次第にその小さな背中に目を向けるようになっていった。


なにせ、いつもそこにいる。


静かで、控えめで、でも決して邪魔はせず、こちらをじっと見てくる。ふわふわの尻尾とぴんと立った耳を揺らしながら、けれど驚くほど真剣な目をして。


――気がつけば、兵士たちはその存在に慣れていた。


休憩のたびに、誰かしらがフーリェンのもとへと足を運んだ。


「見てたか? 俺の華麗な踏み込み」

「ほら、クッキー。半分こしようぜ。さっきおばちゃんに貰ったやつ」


撫でられ、笑いかけられ、おやつを手渡され――


フーリェンは最初、困惑していた。目を見開き、じっと差し出されたものを見つめるだけだった。


けれど、少しずつ。


小さな手でおやつを受け取るようになり、口を閉ざしたまま、こくんと頷いて応えるようになった。

ときには、小さな声で「ありがとう」と呟くこともあった。


そのたびに兵士たちは大騒ぎだった。


そんな様子に、本人はまた困ったように耳を伏せてしまうのだが――それもまた、皆の笑いを誘った。






**

それから、四年の月日が流れた。


かつて訓練場の片隅で、耳を伏せて震えていた子狐の姿は、もうどこにもない。


今そこに立っているのは――誰よりも鋭く、誰よりも正確に剣を振るう、一人の少年だった。


軽やかな足取りで地を踏みしめ、しなやかな動きで剣を構える。


ひと振り目。風を裂く音とともに、剣筋が空に弧を描く。

ふた振り目。狙い澄ました軌道で、木人の肩を正確に打ち抜く。


そのすべてが、洗練されていた。


鋭さと柔らかさ、力と速さ。相反する要素を兼ね備えた動き。


――それは「見て」「覚え」「重ねた」日々の結晶。


若さゆえの吸収力、そして何より、最初から持ち合わせていた天性の「目」。


大人たちが驚いたのも無理はなかった。


正確無比。まるで機械のように正しい。


しかし機械のようでいて、どこか温かみがあるのは、彼がただの模倣に留まらず、それを「自分のもの」として咀嚼し、血肉にしてきた証だった。


口数も、少しずつ増えた。


話すときの口調は、どこか兄ジンリェンに似ている。余分な言葉を削ぎ落とした、静かで淡々としたものだ。だが、その中にも彼なりの温度がある。


誰かに褒められたとき。稽古の合間に甘い菓子を差し出されたとき。あるいは、ふとした拍子に兵士たちが口にするくだらない冗談に、肩を震わせて笑ったとき。


その笑顔は、まぎれもなく少年のものだった。

年齢相応の、柔らかであどけない笑み。


ただ強くなったわけではない。ただ器用になったのでもない。


フーリェンという少年は、時間と人と温もりに育てられながら、確かに“ここ”に根を張り、成長したのだった。


「よし、そこまで! 休憩だ!」


訓練場に号令が響くと同時に、剣を振っていたフーリェンはぴたりと動きを止めた。


汗をひと拭きしながら、彼はいつものように木陰へと歩いていく。その途中で、肩を叩かれた。


「なあなあ、フー坊。お前、踏み込み、俺の真似たろ?」


声をかけてきたのは、零軍の中でもとりわけ陽気な中堅兵士。フーリェンはちらりと彼を見上げる。少しだけ口元を緩めて、素直に答える。


「うん。昨日、やってた動き。背中の軸、少し左に傾けてた」

「うわ、細か……!」


彼は目を丸くしたあと、わざと大げさに両手を上げた。


「だーめだこりゃ! もう隠し技とか無理だな、ぜんぶ見抜かれる!」

「隠すような技、あんまり使わないと思うけど」

「……たしかに」

「ほら、座れよ。今日の差し入れ、俺のとっとき。干し果実入りのクッキー」


隣の兵士が紙包みを開くと、周囲にいた他の兵士たちもぞろぞろと集まり出す。


「フー、ほらお前、これ好きだったろ?」

「こいつが黙って食うときは本当にうまい証拠なんだよな~」

「……ありがとう」


フーリェンは簡潔に礼を言って、クッキーを一口齧る。さくりと音がして、ほのかに甘い香りが立った。


そして、ほんの一瞬――彼の口元がふわりと緩んだ。


「あ、笑った!」

「おい、また俺らの勝ちだな。笑わせた回数、今日でリューは2点目だ!」


わいわいと騒ぐ兵士たちを横目に、フーリェンは軽く首を傾けた。


「それ、勝ち負けで数えてたの?」

「もちろんだ! お前の“笑顔コレクション”は貴重品だからな!」

「…………」


呆れたような無表情のまま、フーリェンはもうひと口、クッキーをかじった。だがその頬は、わずかに、ほんのわずかに緩んでいた。


そんな何気ないやりとりに、兵士たちは目を細める。


誰よりも静かで、誰よりも鋭く、けれど誰よりも優しい目を持った少年。


かつて、耳を伏せてぷるぷる震えていた小さな子狐は――今や、自分たちの仲間であり、誇りでもある。


その姿を、少し離れた場所からベルトランは静かに見つめていた。


――随分と、変わったものだ。


剣の軌道が洗練されたとか、技が一段と鋭くなったとか――そういうものではない。立ち姿。話し方。何気ない仕草。その一つひとつに、「子供」だった彼の影はもうなかった。


気づけば、背丈も追いついていた。

元より小柄な体つきではあるが、その分、彼は軽やかで無駄のない動きを身に付けた。細い体幹を巧みに活かし、重心移動と間合いの読みで勝負するスタイルは、もはや一流の片鱗すら見せている。


ふと、昔の記憶がよみがえった。


あのときは――まだ子狐だった。


訓練場の真ん中で、兵士たちの笑いに震えて、ぺたんと耳を垂らしながら、必死にベルトランの足にしがみついていた。あの細い指。びくびくしながらも必死に木剣を握っていた姿。守るように、庇うように、その隣に立っていた日々。そんな日々が、もう懐かしいと思えるほど、時間は流れた。


今や彼は、誰かの背中に隠れる存在ではなくなった。

むしろ――他の誰かにとって、背中を追う存在にさえなりつつある。


兵士たちに交じって笑うその横顔を見ながら、ベルトランは静かに目を細めた。


この少年は、もう「見ているだけ」の子供ではない。


“戦える目”を持ち、“笑う口”を持ち、“歩く足”を持った――立派な兵士の一人だった。








**

その年の冬。

 

王宮の中庭にうっすらと霜が降りたその日――零軍は王都を発った。女王ヘラの北方移住に伴い、護衛として共に白の砦へと向かうことが決定したのだ。


そのとき、フーリェンは十四歳。

少年から青年へと、身体も心も変わり始める時期だった。


誰もが思った。――彼を連れていくべきではないのか、と。


フーリェンは、あまり感情を見せない。

別れの朝も、変わらぬ顔で荷を運ぶ兵士たちの間を歩いていた。寂しいとも、行かないでとも言わなかった。


だからこそ兵士たちは不安だった。

無理をしているのではないか。置いていってしまって、本当にいいのか。


「連れてけばいいじゃないですか、隊長。戦力的にも不安はないはずです」


出発の前夜、リューがそう口にした。

他の者たちも皆、どこか納得しきれていない顔をしていた。


それでも、ベルトランの答えは変わらなかった。


「――残す。それは変わらない」


それは静かで、強い決意だった。


「俺たちが与えてきた道は、もう充分だ。これからは、自分で選び、歩く時間だ」


厳しさではなかった。ただの見放しでもない。

それは、育てた者にしかできない選択だった。



それから二年の歳月が経った。


砦の冬は厳しい。

肌を刺すような風の中で、焚き火に身を寄せる兵士たちの間では、たびたび“王都”の話題が出る。


「……あいつ、ちゃんと飯食ってんのかな」


リューのそんな呟きに、誰もが一瞬、焚き火を見つめたまま黙り込む。誰とは言わずとも、思い浮かべている顔は同じだった。


フーリェン。

十四の冬に王宮に残し、あれきり声を交わしていない。


あの静かな少年が、果たしてうまくやれているのか――。心配しない者など、いなかった。


だがその不安は、ある日の報せによって、あっけなく吹き飛ばされることになる。


女王付きの使者が持ってきた文書。

それを開いたベルトランが、珍しく声を漏らした。


「……ほう」


兵士たちが一斉に振り返る。


「何かありました?」


問いかけに、ベルトランはほんのわずかに口角を上げた。

 

「フーリェンが、第四王子直属の護衛に任命されたそうだ。それと、第四軍の隊長にも」


その場が、数秒、静まり返る。


「…………は?」


最初に言葉を発したのは、リューだった。


「い、今、護衛って……直属……!? 隊長って……あの隊長!?」

「あのぷるぷる耳ぺた子狐が!?」


「今は十六だ。成獣だな」


ベルトランが淡々と補足するが、周囲の混乱は収まらない。


「まじかよ……やったじゃねぇか、アイツ……」

「え、普通にすげぇだろ……王子の護衛って」


思い思いに言葉を漏らしながら、やがてその場には笑いと歓声が広がっていた。


心配は、誇りに変わった。

あの冬、震える背中を見送りながら、それでも信じた“あの子”が――


ちゃんと、自分の居場所を掴み取っていたのだ。


焚き火のはぜる音の向こうで、誰かが言った。


「なあ、いつか会いに行こうぜ。アイツの“隊長姿”、見てやらねえと」


そんな冗談混じりの声に、焚き火を囲む者たちは一様に笑いながら頷いた。


――けれど、彼らはまだ知らない。


その報せが届いてから、さらに三年の月日が流れた後のこと。


北の砦の正門に、白の隊服をはためかせた一人の青年が、第四王子と並んで現れる日が来ることを。


そして――

共に戦場に立ち、命を預け合い、背中を任せる日が訪れることを。


今、この焚き火の灯りの中で語られる未来は、まだ笑い話にすぎない。


だが確かに、その物語の幕は、すでに上がりはじめていたのだった。

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