雨
雨は、予報にはなかったはずだった。
ぽつり、ぽつりと落ちていた水音は、気づけば大粒の滴となって、土と草の匂いを溶かしながら地面を叩いていた。雲は灰色にたれこめ、まるで誰かの気まぐれに引きずられるように、風も少しずつ冷たさを帯びてゆく。
「……走れ、フー!」
「……うん」
短く返して、フーリェンは濡れた外套の裾を片手で押さえながら、シュアンランの隣を駆けた。風が白い髪をはためかせ、露に濡れた頬に張りつく。年上の狼の青年は、そんな彼をちらりと横目で確かめ、手を伸ばしそうになって、けれど思いとどまった。
「……あそこ、納屋か? 屋根、あるぞ!」
田園の中にぽつんと立つ小さな木造の小屋を見つけて、シュアンランが指を差した。羊飼いが休憩に使うような簡素な建物。壁板には年季が入っていたが、雨をしのぐには十分だった。
二人はそこでようやく足を止めた。荒くなった呼吸を抑えながら、軒先に身を寄せる。瓦屋根を打つ雨音が、かすかに心地よいリズムで響いていた。
「まさか、降るとはなぁ。天気、裏切られたな」
「……予報は、あてにならない」
フーリェンはそっと外套のフードを外した。湿った白髪が頬に張りついている。彼はそれを鬱陶しげに払いながら、ぽつりと呟く。
「……でも、ちょっと楽しかった」
「そうだな」
そう言って、シュアンランも隣でフードを外す。狼の耳がしっとりと濡れ、ピクリと動いた。雨宿りの軒先。ふたりの間には、さほど距離はなかった。けれど、その空気はどこか、穏やかに静まっていた。
しばらく待つも、雨は止む気配がなかった。
打ちつける水音は徐々に強さを増し、風もそれにあおられて時折ざわりと畑を揺らす。外套のフードから垂れた水滴が、木板に細かい輪を描いて消えていく。
フーリェンはその様子を黙って見つめていた。隣では、シュアンランが腕を組み、何か考えるように空を仰いでいる。
「……雨脚、強くなってきたな。こりゃ、しばらく止みそうにない」
「……うん」
短く返したフーリェンが、濡れた前髪をかき上げる。その仕草に目を細めながら、シュアンランはふと、遠くから響いてくる鈍い車輪の音に耳を傾けた。
「……馬車?」
彼の言葉に、フーリェンも顔を上げる。
しばらくして、田のあぜ道をゆっくりと進む荷馬車が視界に現れた。茶色い幌をかぶった古びた木製の車体。泥の跳ねる音とともに、馬が一歩ずつ進む。
そして、馬車がふたりの姿を認めて止まると、幌の隙間から白髪混じりの老人が顔を覗かせた。
「おやおや……こんなところで雨宿りかい? 若いの、風邪をひくぞ」
朗らかな声だった。顔には深く刻まれた皺、くるんとした眉と笑いジワが印象的な、どこか懐かしい雰囲気の人物だった。
「……ええ。急に降られてしまって」
シュアンランが軽く会釈をすると、老人はにこにこと頷く。
「そこの先を右に折れたところに、儂の宿があるんだ。どうせ空きもあるし、送っていってやろう。よければ一晩、休んでいきない」
「……いいんですか?」
シュアンランが思わず問い返すと、老人は笑いながら、ぽんぽんと車体の側面を叩いた。
「若者に雨の中を歩かせるほど、儂も薄情者ではないさ」
その申し出に、ふたりは一瞬視線を交わした。隣のフーリェンがわずかに頷くのを見て、シュアンランも笑って答える。
「では、ありがたくお言葉に甘えさせてもらいます」
「……ありがとう、ございます」
ふたりは荷馬車の幌をくぐって中へ入った。馬車が再びゆっくりと動き出す。幌の外では、まだ雨が降り続いていた。揺れる荷台の中、ふたりは並んで腰掛ける。湿った空気の中にも、わずかに干し草の匂いが混じっていた。
荷馬車が宿に着いたのは、それから十分ほど後のことだった。
道端にぽつんと建つ小さな二階建ての建物。瓦屋根の軒先からは雨が細く垂れていて、入り口の灯りが夕闇の中にほのかに滲んでいた。
「着いたぞ。ようこそ、“雨宿りの宿”へ」
老人が茶目っ気たっぷりに言ってから、荷台の後ろを開けてくれた。雨はまだ止まず、空には厚い雲が広がっている。フーリェンとシュアンランは外套のフードをかぶり直し、短く礼を言ってから外に飛び降りた。
「遠出の途中だったのかい?」
「はい。今日は国境沿いまで花を見に行ってたんです。帰り道で雨に降られてしまって」
「おやおや、それは大変だったねぇ。部屋は空いてるから、着替えて休むといい。夕飯の支度もすぐにできる」
朗らかなその言葉に、ふたりはまた軽く頭を下げた。案内された部屋は二階の角部屋で、窓からは雨に煙る畑が見えた。小ぢんまりとしていたが、木造りの温もりがどこか懐かしく、シュアンランはすぐに気に入ったようだった。フーリェンは荷を下ろすと、黙って濡れた外套を脱いで壁のフックに掛けた。濡れた髪が肩に張りついていて、無言のままタオルでそれを拭っている。
「風邪、ひいてないか?」
声をかけたシュアンランに、フーリェンは小さく首を振る。
「平気。……でも、靴が濡れた」
ぼそりと、少しだけ不満げな声で呟いたのが可笑しくて、シュアンランは吹き出した。
「取り敢えず、服だけ借りてくるか。俺、下行って聞いてくる」
「うん、ありがとう」
フーリェンは静かに頷いた。
しとしとと降り続ける雨音が、窓の外から響いてくる。その音を背に、シュアンランは部屋を出て階段を降りていった。
フーリェンは、静かになった部屋の中で、少しだけ目を細めた。国境の田園と、冷たい雨と、そして、こうして雨宿りの宿にたどり着いた偶然。
悪くない一日だった――そう思いながら、濡れた髪のしずくを指先ではじいた。
囲炉裏の火がゆるやかに揺れていた。石造りの炉の上には煮込み鍋がかかっており、野菜と鶏肉の香ばしい匂いが室内に満ちている。オーナーの老人と、シュアンラン、そしてフーリェンの三人は、囲炉裏を囲んで木製の低い卓を囲んでいた。
「ほんとに助かりました。風呂まで貸していただいて……」
シュアンランが頭を下げると、オーナーは朗らかに笑った。
「なに、雨の日の道連れに手を貸すのは、この宿の流儀さ。あんたたちも、若いうちは思い出をたくさん作るといい」
そう言って、オーナーは自ら用意してくれた湯気立つ器をフーリェンに手渡した。フーリェンは無言のまま受け取ると、小さく頭を下げて礼を言う。
そんなフーリェンは今、貸してもらった簡素な麻の上衣に、柔らかなスカート型の袴を合わせていた。
生地は軽く、風通しのよい夏用だが、明らかに女性向けに仕立てられたものであり、ウエストのリボンの結び目や裾の刺繍などが、それを際立たせていた。
「……フー。その、服……大丈夫か?」
食事をよそいながら、小声でシュアンランが訊ねた。
けれど、フーリェンはいつもと変わらぬ調子で、さらりと答える。
「…うん。借りれるだけありがたい」
「……そりゃ、まあ……」
目を伏せながら、器の中の煮込みを掬うフーリェンの横顔に、シュアンランは苦笑を浮かべた。
本人はまったく気にしていないようだ。いつも通り無表情気味で、時折味の感想を短く呟く程度。だが、その姿が普段より少し柔らかく、どこか幼く見えるのは、きっと貸してもらった服のせいもあるだろう。
彼の…いや、彼女の言葉数は少ない。だが、その無言の背後に流れる「どうでもいいことは気にしない」という考え方を、シュアンランはよく知っていた。
「この宿の裏に、広い畑があってね。明日は天気がよければ案内してあげよう。風が抜けて、景色もなかなかいい」
オーナーの提案に、二人は同時に顔を上げた。
「……見たいです」
先に返したのはフーリェンだった。小さな声だったが、確かな意思を持った口調で言葉をつむぐ。
そんなフーリェンの反応に、オーナーは気をよくしたのかにっこりと笑って続けた。
「せっかくの旅なんだ。雨に降られたとはいえ、今夜はゆっくり楽しむといい」
そう言って、オーナーはどこか茶目っ気のある笑みを隣のシュアンランに浮かべた。
ふと、スープを飲む手を止めたシュアンランの頬に、ほんのわずかな熱が灯る。その言葉の意図を察して、反応に困ったように目を逸らす。一方で、フーリェンはといえば、特に動じる様子もなく、淡々とした表情で老人に会釈を返した。
「……ありがとうございます」
ごく普通にそう返す姿に、シュアンランは内心、肩の力が抜けるような、けれどちょっとだけ複雑な気持ちになりながら、湯気の立つ器に視線を戻した。
部屋の灯りは落とされ、窓の外ではまだ雨音が優しく続いていた。貸してもらった夜着に身を包み、二人は並んで各々の寝台に腰を下ろしていた。
話題は特に決まっていない。旅の道中の出来事、通り過ぎた村で出会った犬の話、借りた服が少し丈短だったこと――そんな他愛のない会話がぽつぽつと交わされていた。
それでも、どこかで気が散ってしまう。視線は自然と、隣の白い髪へ、伏せられた睫毛へ、結ばれていない唇へと向かっていた。
(……近い)
内心でそう思いながら、シュアンランは口には出さない。手を伸ばせば、きっとすぐに触れられる距離だった。はたから見れば、自分たちは「そういう関係」に見えるのだろうと分かっていた。実際、周囲の何人かからは、それとなく冷やかされたこともある。
だけど、自分の口からはまだ一度も、その先の言葉を言ったことがない。訓練場の夏の日、真正面から「好きだ」と伝えた、あの日を最後に――
あれから、二人の距離は確かに縮まった。一緒に過ごす時間も増え、会話の中の沈黙が怖くなくなった。
でも、それは親友であるジンリェンとの親しさとは、また違う。言葉にしにくい、けれど確かに胸の奥に触れるような、どこか繊細な距離感。
顔に出ない彼の…彼女の感情は、やっぱり分かりにくい。言葉も少ないから、なおさらだ。
それでも一緒にいたくなる。分からないままでも、傍にいたいと願ってしまう。
曖昧で、不安定で、それでいて心地よくて――
シュアンランは、もやもやとした感情を抱えたまま、小さく息を吐いた。
フーリェンは隣に座ったまま窓の外の雨をぼんやりと見つめていたが、やがてシュアンランの視線に気づいたのか、小さく首をかしげてこちらを見た。
「……どうしたの?」
「え、いや……なんでもない」
慌てて目を逸らす。心臓が一つ、跳ねた。
だが、そんな彼らの様子を見て、フーリェンは何か別の理由を勘違いしたらしい。そのままの動きで、布団をたたむ音がして――気づけば、ふわりと、自身の布団に身体が滑り込んできた。
「眠れないの?」
「……ちょ、ちょっと待て! お前、なんでこっち来るんだ…っ」
布団の隅が沈み、すぐ横に、白い髪がぴたりと寄り添ってくる。驚いて上半身を少し起こしたシュアンランに、フーリェンはきょとんとした顔で応えた。
「たまには一緒に寝るのも、いいかと思って」
その言い草があまりにあっさりしていて、逆に返す言葉をなくす。
“たまには”って、いつもそういう関係だったか?と自問しかけたシュアンランの思考は、次の言葉で完全に崩された。
「もうちょっと詰めて」
「いや、お前……!」
抵抗の意味を込めて少しだけ体を起こすが、寝台は広くなく、そうして空けた隙間に当然のようにフーリェンが入り込んでくる。もはや拒否権はなかった。
(なんなんだ、もう……)
心の中で頭を抱えつつ、シュアンランはため息まじりに身を横たえた。横並びになると、フーリェンとの距離は驚くほど近い。ほんの数センチ先に、白く柔らかそうな髪があって、無防備な呼吸が聞こえる。触れようと思えば、ほんの少しの勇気で指が届く。
シュアンランが身体を硬直させていると、隣から、ひそやかな声が降ってきた。
「……音、すごいよ」
「は?」
思わず聞き返すと、フーリェンは小さく、けれどはっきりと頷いた。
「心臓。ドクドクいってる」
まるで耳元でささやかれたように感じて、シュアンランは飛び上がりそうになるのを必死で堪えた。
焦って言い訳を探すが、何をどう繕っても見苦しくなるだけだという予感だけはある。だが、そんなシュアンランを彼女は特に問い詰めるでもなく、ただ静かに、まっすぐこちらを見つめていた。
その視線に追い詰められるように、しばらく沈黙の間が落ちた。
そして――「……もういいや」と、小さく呟くように息を吐いた。
「……お前とこうしてると、鼓動くらいどうしたって早くなるんだよ。分かってんだろ、今さら」
顔を見られないように、視線を天井へ向ける。
「……今の関係だって、俺は十分満足してるんだ」
ぽつりと、天井を見上げたまま、シュアンランは言った。
「一緒にいて、言葉を交わして、隣で笑ってくれるだけで、正直、満たされてる」
そこまで言って、一度だけ息を吸う。吐き出す言葉は、静かな雨音のように、胸の奥からこぼれた。
「……でも、それ以上を望んでしまう自分もいるんだ。どうしても」
まるで、雨にかき消されるのを願うような声だった。でも、フーリェンの耳は、それを逃さずにいた。
静かに、だけど確かに――布団の中、ぴたりと寄り添っているフーリェンの身体が揺れる。そして、わずかに頬が触れ合うほどの距離で、彼女が口を開いた。
「……うん。知ってた」
たったそれだけの言葉が、雷鳴よりも大きく、シュアンランの胸に落ちた。
シュアンの静かな告白を聞いたフーリェンは、しばらく黙って考え込んだ。やがて、ゆっくりと体を起こし、そのまま横たわるシュアンランの上にそっと覆いかぶさる。静かな呼吸が交わる中、彼女はためらうことなくシュアンランの額に優しくキスを落とした。
それは、フーリェンが考えうる最大限の愛情表現だった。触れ合う額の温もりが、言葉以上に強く二人の心を結びつけているように感じられた。シュアンランの目がゆっくりと開き、そこには驚きと温かさが混じった光が宿っていた。
彼女は小さく微笑み、囁いた。
「これが、僕の……好き、の形。」
二人は言葉なく、その静かな夜に包まれていた。
フーリェンは、小さなキスの余韻を残したまま、そっとその場に身を預けるようにして彼の隣に横たわった。しんとした空気の中、どちらからともなく深く息をつく。
「……さっきの、おじいちゃんの言葉……」
静かに口を開いたのはフーリェンだった。
「気づいてなかったわけじゃない。……ああ言われるってこと、僕らがどう見えてたかも……わかってたよ」
その声は、いつもよりほんの少し、言葉の輪郭が柔らかかった。
フーリェンは目を伏せながら、ゆっくりと続けた。
「言葉にするのは、……苦手だけど、……僕はちゃんと、考えてるよ。……今の、この距離のことも。君がくれた気持ちのことも」
わずかに視線を逸らしながら、けれどはっきりとした声音で告げる。
「……僕は、それを受け取りたいと思ってる。……シュアンなら、いいと思ってる」
その言葉は、フーリェンにとっても簡単なものではなかった。感情を口にすることに不器用な彼女が、少しずつでも進もうとする、その選択。
隣でそれを聞いていたシュアンランは、まっすぐにフーリェンを見つめていた。触れられない距離にいた想いが、いまようやく、少しだけ近づいた気がした。
翌朝。空はすっかり晴れ上がり、昨日の雨が嘘のように青空が広がっていた。しっとりと潤んだ大地には、太陽の光がやさしく降り注いでいる。
宿の裏手にある広い畑を、オーナーに案内されながら歩く二人の獣人。
すでに着替えを終えた二人は、そのまま出発できるよう、各々の私服の上から外套を羽織っていた。ふと、風にひるがえった外套の裾に目をやったオーナーが、そこに刺繍された軍の紋章に気付く。
「……おや、お前さんたち、ずいぶん立派なご身分だったんだねぇ」
少し驚いたようにそう呟いたオーナーに、フーリェンは曖昧な笑みを浮かべて小さく首を振る。シュアンランも苦笑を浮かべながら、「ただの兵士ですよ」と答えた。
「いい宿でした。他の兵たちにも伝えておきます」
そう言うと、オーナーは顔をくしゃりと笑顔にして頷いた。
「またいつでもおいで。こんな静かな場所でも、歓迎するよ」
畑の真ん中で交わされたその言葉を背に、二人は再び王都へと向かって歩き始める。
風が、北から吹き抜けた。
「……っくしゅん」
フーリェンが、控えめに小さなくしゃみをする。その瞬間、彼の足元に、きらりと細く霜柱が立った。
それに気づいたシュアンランが、ふっと口元を緩めて笑い、頭をかく。
霜柱――氷の能力。それは、フーリェンが誰かに触れ、一部取り込み、模倣した証だった。
言葉にはしないまま、フーリェンはわずかに目を細め、足先で霜をやさしく踏み砕く。きらきらと砕けた結晶が、朝の日差しの中できらめいていた。
そして、何事もなかったかのように、ふたりはまた歩き出す。
これは、狼の青年が18、白狐の青年が17になる、ある年の秋口のこと。
ふとした時隣にいる曖昧な関係から、恋人という名前のついた関係へと変わった、ある日のこと。
――穏やかな陽光の下、二人の背は、並んで遠ざかっていった。