帰省
王都の北通り、その一角に、季節の花を揃える小さな花屋がある。白壁に淡く蔦の絡むその外観は、少しだけくたびれているようにも見えるが、それもまた風情のひとつだった。
「……ただいま」
扉を開けて先に足を踏み入れたのは、シュアンランだった。背に負った荷を片手に抱え直しながら、鼻先をくすぐる花の香に、思わず目を細める。
「変わってないね、ここも」
後ろから続いたのは、姉のユキだ。王宮の医務室で働く彼女は、母ナージュの後を継ぐかのように、日々忙しくしている。今日はたまたま同じ日に休暇が取れたため、シュアンランの帰還に合わせてふたりで顔を出すことになったのだ。
「まあ、親父ひとりでやってるからな。変えようがないだろ」
シュアンランはそう言いながら、店内をゆっくりと見渡した。並んだ鉢植えも、壁際の棚も、天井から吊るされたドライフラワーのリースも、数年前と何ひとつ変わっていない。
「親父、市場か?」
カウンターの奥に目をやると、見慣れた木板に走り書きの伝言があった。ユキがそれを拾い上げ、さらりと目を通す。
「うん。仕入れだって。『昼までには戻る』って書いてある」
「じゃあ、それまで店番でもしてるか」
ユキが「いいね、それ」と頷き、エプロンを探しに奥へと消えていく。シュアンランは一度肩を回し、深く息を吸った。
北の砦では、一刻一刻が緊張と隣り合わせだった。
だがここでは、時間の流れが明らかに違う。
王宮でも、戦地でもない、ただの“家”という空間。
そんな当たり前の静けさが、今は何よりも心を落ち着かせた。
店の奥、鉢の合間から差し込む光に、舞い落ちた花弁がひらりと揺れていた。シュアンランは棚からじょうろを取り、水の入った桶に手を伸ばした。
「ねえ、あんた……少し痩せた?」
店の奥からエプロンを結びながら戻ってきたユキが、じょうろを手にする弟をじっと見つめた。
「……そうか?」
シュアンランは水をやりながら、ちらりと姉に目線を寄こす。少しだけ伸びた灰銀の髪は、帰還直後に少しだけ刈り揃えられていた。首元の骨が少し目立つようになった気もする。
「砦は冷えるし、あんた、食に無頓着だからね。ちゃんと三食、食べてた?」
「ルカ殿下が毎日監視してくるから、食べてたよ」
皮肉混じりに笑って言い返すと、ユキも肩をすくめて「そりゃ頼もしい」と返した。会話の合間にも、シュアンランの手は止まらない。慣れた様子で花の根元に水を差し、枯れた葉をそっと摘む。
「でも、砦から戻ってきたって聞いて、母さん安心してたよ『大きな怪我もなくて上出来ね』ってさ」
「……それ、母さんじゃなくて姉ちゃんの口癖だろ」
「ふふ。バレたか」
ユキは小さく笑って、カウンターに置かれた木箱の中身を確かめはじめた。花のタグや針金、手入れに使う道具が雑多に並ぶその箱を見て、シュアンランは思わず声を漏らす。
「……変わってないな、これも」
「そりゃあね。父さん、道具の配置変えるの嫌がるから。たぶん今日も、“勝手にいじるなよ”って言ってくるよ」
そう言って、ユキはくすりと笑う。どこかしら苛立つことの多い王宮や砦での生活と違い、ここでの時間はまるで草花の成長のように、静かで緩やかだった。
「……明日には戻るんだっけ?」
ユキがふと問いかける。
「ああ。夕方には顔を出さなきゃいけない」
「そっか。じゃあ今夜は、あんたの好物でも作ろうか。しょうがないから作ってあげる」
「やった。……俺も久しぶりに、ちゃんとした飯が食いたいと思ってた」
顔を見合わせて笑い合う姉弟の傍ら、店先の風鈴が、風に揺られて涼やかに鳴った。
日が傾き始めた頃、店の扉が控えめな音を立てて開いた。
「ただいま」
低く張りのある声とともに現れたのは、シュアンランとユキの父――リウ。かつては王国軍に所属し、数年前に退役した狼獣人の男だ。精悍な顔つきに白髪交じりの黒髪、がっしりとした体格は今も健在で、風雨に焼けた腕には泥のついた軍手が残っていた。
「おかえり、親父。畑も寄ってきたのか?」
「そうだ。朝方まで降ってた雨で土が柔らかくなっててな。いま植え替えしてきたところだ」
リウはそう言いながら、くたびれた外套を脱いで壁のフックにかけると、店内にいた二人に目をやった。
「……なんだ、今日は揃って帰ってきたのか」
その声音には照れくさいような、けれど確かな喜びが滲んでいた。
「ただの帰省だよ。少し、顔見たくなっただけ」
ユキがさらりと答えると、隣のシュアンランも軽く頷いた。
「少しの間だけど、今日と明日の昼までは家にいる」
「……そうか」
リウは、無言で近づいてくると、久しぶりに息子の肩をどんと叩いた。無言の、それでいてどこか不器用な父の愛情。それを受けたシュアンランは一瞬目を見開いたが、すぐに少し笑った。
「骨が軋む」
「まだ若いくせに情けないこと言うな」
そう返して笑ったリウは、台所の水で手を洗うと、「夕飯はどうする?」とユキに尋ねた。
「私が作るよ。揚げ餅と、魚の甘煮。あとは野菜の煮物でもと思ってる」
「おう、助かる。……じゃあ、俺は米を研いでおくか」
そんな風に自然と役割が分かれ、会話の中に生活の音が混じりはじめる。
やがて、鍋からふわりと出汁の香りが立ちのぼり、茶碗が並べられ、湯気をたてた炊きたてのご飯が食卓に置かれる。
「ほら、あんたも座って」
「……いただきます」
久しぶりに囲む家族三人の食卓。黙々とご飯を口に運ぶ中、ふとシュアンランの箸が止まり、ぽつりと呟いた。
「……こういうの、久しぶりだな」
「そうだね」
ユキが笑って頷く。
「戻ってくるたびにそう言うくせに、すぐまた出てくんだもの。ちょっとは長くいてくれてもいいのに」
「……そうもいかないだろ。いろいろあんだよ」
そう答えながらも、頬に浮かぶ安堵の色は隠せない。
「まったく。母さんも、口では“立派になった”なんて言ってるけど、内心いつも心配してるのよ?」
「……知ってるよ」
小さく答えたシュアンランの視線は、どこか柔らかい。
静かに進む、実家での夕食のひととき。
王宮とも北の砦とも違う、柔らかな時間が、そこには流れていた。
箸を進めながら、ふいにリウがふと顔を上げる。
「そういえば、最近はどうなんだ。……あの子とは」
無造作に投げかけられた言葉に、箸を持っていたシュアンランの手がぴたりと止まった。
「……誰のこと」
聞き返す声には、明らかにわざとらしい無関心が滲んでいた。
「誰って、お前が昔から好いてる、あの白い狐の子だよ」
「フーリェンね」とすかさずユキが補足しながら、にやりと笑う。
「まったく、父さんも覚えなさいよ。息子が惚れてる相手でしょ?」
「……惚れてるとか言うな、うるさいな」
目を逸らしながらぼそりと呟くシュアンランに、父と姉の笑い声がかぶさる。
「何が“言うな”だ、照れることないだろ。昔はあんなに後をつけてたっていうのに」
「……うるせぇ」
小さな声でそう返したシュアンランは、顔を上げずに箸を動かす。耳だけが、わずかに赤く染まっていた。
ユキはそれを見逃さず、口元を手で押さえて吹き出した。
「ふふっ、ほんっと分かりやすいなー。顔に出過ぎ。ああ、フーにこの顔見せたい」
「やめろって……」
口をへの字に曲げながら、シュアンランは米をかき込む。けれど――その口元には、ほんの少し、照れ隠しの笑みが浮かんでいた。
「でさ、最近は手とか繋いでるわけ? それとももうちょっと進展あった?」
湯飲みを傾けながら、悪びれもなく言葉を重ねてくる姉に、さすがのシュアンランも食べかけの魚を皿に戻した。
「……なんでそんなこと、姉ちゃんに報告しなきゃいけないんだよ」
「だって気になるじゃん。あのフーが相手だし」
「関係ないだろ……」
げんなりとした顔をして立ち上がり、空の茶碗を持って台所に歩き出すシュアン。ユキはそれを背中越しに見送りながら、いたずらっぽく笑った。
「わかりやすい逃げ方~。あーあ、いじりがいある弟で助かるわ」
「お前なぁ……」
後ろから聞こえた息子の嘆き声に、リウがくつくつと笑う。
「ま、からかうのもそれくらいにしといてやれ。顔真っ赤じゃねぇか、さっきから」
「はーい」
ユキは軽く手を挙げて返事をしたが、口元の笑みは全く反省の色を見せていなかった。洗い物を流しに置いて戻ってきたシュアンランは、ちゃぶ台の端に腰を下ろし、ふう、と一つ息を吐く。
「……で? 他に何か、まだ言いたいことある?」
「ううん、ないない。満足した」
お茶を飲みながら肩をすくめるユキに、今度こそ本気で呆れた顔をしてシュアンランが眉をひそめる。
「……ほんと、姉ちゃんって容赦ないよな」
「だって、恋してる弟なんて可愛いじゃん」
「……バカにしてるよな?」
「してないしてない、ちょっとからかってるだけ」
呆れて返す言葉も見つからず、頭をかくシュアンランの横で、父のリウがまた湯を啜る。
顔には出さずとも、フーリェンの存在は家族にもちゃんと認められていて――
それが、どこか嬉しかった。
ほんの少し、背筋を伸ばすように姿勢を正すと、シュアンランは立ち上がる。
「風呂、先入る」
「はいはーい、フーの夢でも見てきな」
「うるさい」
背を向けながらぴしゃりと切り捨てて、台所の奥へと消えていくその後ろ姿に、ユキとリウはまた顔を見合わせて、穏やかな笑いを漏らす。
夜はまだ深まっていく。
家族の灯は、揺れることなく静かにともっていた。
肩まで湯に沈みながら、シュアンランはゆっくりと息を吐いた。
(……せまっ)
王宮の兵舎にある、天井の高い大浴場を思えば、この風呂場はまるで湯船付きの桶だ。壁も天井もすぐそこにある。湯が跳ねればすぐ冷えるし、背を伸ばそうにも膝が当たる。けれど、そのどこかに懐かしさを感じるのもまた事実だった。
窓の外では、虫の音がかすかに響いている。熱い湯に首まで浸かり、ぼんやりしていると、風呂場の引き戸が開いた。
「お、よく暖まってるな」
低く穏やかな声とともに、タオルを肩にかけたリウが現れた。手には湯桶と石鹸。
「親父も入るのか」
「そりゃあ、風呂は一日一回の贅沢だからな。たまには一緒にどうだ」
「ああ、どうぞ」
ごく自然に、隣へと腰を沈めるリウ。湯が静かに波打ち、男二人の肩が並ぶ。
しばらくの沈黙。
「……そういえば、最近も、時々見かけるよ。あの子」
ぽつりと、湯の音に紛れてリウが口にする。
「……は?」
シュアンランが目を細めて横を向くと、父は湯船の縁にもたれながら、どこか楽しげな目をしていた。
「フーリェンのことさ。お前の“大好きなあの子”」
「……まだその話引きずってんのかよ」
むくれたように返すシュアンランに、リウは声をあげて笑う。
「いやいや、つい言いたくなってな。たまに王都で見かけるんだよ。花の仕入れの帰りとかにな。声はかけないけど、見ればすぐわかる」
「……そりゃ、まあ……目立つからな」
「そう。たいてい、外套を目深にかぶって、何かのお使いしてたり。逆に、隊服姿でぴしっと立って警備してるときもある。姿勢がいいからすぐに目に入るんだ」
「…………」
「なんだよ、黙って」
「……なんか、親父の方が俺よりフーの目撃率高くないか……?」
シュアンランが湯の中で膝を引き寄せ、むすっと呟く。リウはその様子を見て、再び朗らかな笑みを浮かべた。
「男ってのは、好きな人ができると変わるもんだ。……母さんの若い頃と似てるんだよな、あの子」
「それは言うな」
ずるりと肩まで湯に沈んで顔を背けるシュアンラン。
けれど、湯気の向こうで父子の笑みは静かに重なっていた。
風呂から上がると、家の中には柔らかな灯りがともっていた。すっかり夜も更け、外の雨は止んだらしい。窓越しに見える花壇の向こうには、まだどこか湿った夜の匂いが残っていた。
「やっとあがったんだ」
リビングの長椅子に腰を下ろし、薄手の毛布を膝にかけていたユキが、湯気の残る弟を見て微笑んだ。手には未読の本が一冊、ページは開かれたままだった。
「……姉ちゃん、まだ起きてたのか」
シュアンランは髪をタオルで拭きながら、少し気まずそうに言った。
「まぁね。なんとなく寝そびれただけ。……お風呂、狭かったでしょ?」
「うん。あと、親父が長湯でさ。風呂場で人生語られるとは思わなかった」
「ふふ。父さん、風呂に入ると喋りたくなるのよね」
ユキがくすくす笑う。どこか嬉しそうなその顔に、シュアンランも少し肩の力を抜いたように椅子に腰かけた。風呂上がりの熱がまだ残る身体に、夜の空気がひんやりと心地よかった。
「……なにか言いたそうな顔してる」
不意にユキが、じっと弟を見つめた。鋭い、けれどどこか優しいまなざしだった。
「……風呂で、フーの話になってさ」
「うん」
「なんか……俺よりよく見かけてるっぽくてさ。ちょっと、なんか、もやっとした」
ユキは微笑んだまま、ソファの背に軽くもたれた。
「しょうがないじゃない。あんたたち、直属護衛兼隊長なんだから。そりゃ会わないわよ」
「…それは分かってる」
「本当に、フーのこと大好きなんだから」
「そりゃ……好きだけど……」
呟いた声は妙に素直で、ユキはその横顔を見つめながら少し笑った。
「ねぇ、シュアン」
「ん?」
「フーは……あんたが思ってるより、あんたのこと見てるよ」
「……うん」
灯りの下、夜風が少しカーテンを揺らした。
やがてユキは毛布を整え、読んでいた本を閉じた。
「じゃあ、私はそろそろ寝るわ。あんまり夜更かししないでね」
ユキが立ち上がり、部屋の明かりを消そうとしたそのとき、ふと振り返り、にやりと笑った。
「そうそう、あんまりがっつき過ぎないことね。フーの体、見るのはあんただけじゃないのよ」
シュアンランはその言葉の意味を瞬時に理解して、顔がみるみるうちに真っ赤になる。
「え、えっと、その、違う……」
言葉が空回りして、結局何も伝わらないまま。
そんな弟の慌てぶりを見て、ユキは思わず声をあげて笑い、満足そうに頷いた。
「いいリアクションね。よしよし、じゃあおやすみ」
軽やかな足音を残して寝室へ向かっていった。
残されたシュアンランは、頬を掻きながらひとりぼんやり座り込んでいた。体のあちこちが火照っているのを、どうすることもできなかった。
日が西へと傾き始めた頃、シュアンランとユキは黙々と片付けを終え、帰り支度をしていた。陽の光は長く伸びた影を作り、店内を穏やかに染めている。
そこへ、リウがゆっくりと声をかけた。
「おう、そろそろ帰るのか」
二人は顔を上げ、父の存在に気づく。
リウはしばらく間を置いてから、静かにシュアンランの方へ向き直った。
「シュアンラン。お前は、国を背負って常に最前線で戦っている。それを、俺は誇りに思ってる。本当だ。自慢だと、思っているよ。だが、無理はし過ぎるな。母さんや、ユキ、俺は…もちろん、フーリェンも、お前のことを思っている」
シュアンランは一瞬目を伏せ、そして力強く頷いた。
「あぁ、分かってるよ。ありがと、父さん」
父の言葉に、シュアンランの声は揺るぎなかった。
リウは穏やかに微笑み、三人の影が夕陽に溶けてゆく。
王宮に戻り、無言で隊服に袖を通す。
剣を握れば、胸の奥に再び熱が灯る。
この国のために。愛する者たちのために。
灰銀の狼は、迷わず最前線へと歩み出す。
それが――シュアンランという男の選んだ、生き方だった。