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酒と昔話

祭りの余韻はまだ、王都のどこかに微かに残っている。けれど南門の外へ続く道には、もう仮装も笑い声もなく、ただ静かに風が吹き抜けていた。


「……そろそろか」


門の外を見つめていたジンリェンは、ぽつりと呟くと踵を返す。南門の上にはまだ兵士が二、三人いたが、彼らも気を遣うように目を逸らしてくれていた。


ひときわ目立つ白狐の姿――その背を見送ってから、まだ十分も経っていない。


あのまま自室に戻っても良かった。けれど、今夜は祭りの終わりで、兵たちの気も緩む日だ。

そういう時に顔を見せてやるのも、隊長としての“役目”だと、ジンリェンは思っていた。


夜半過ぎ、第四軍の兵舎の一室。

木製の扉を開けて中に入ると、すでにいくつもの湯飲みや酒瓶が卓に置かれ、若い兵士たちの声が飛び交っていた。


「おっ、ジンリェン隊長!」

「本当に来てくださったんですね!」


気づいた数人が、ぱっと顔を上げて笑う。

その輪に、ジンリェンは静かに歩み寄りながら肩をすくめた。


「俺は酒に弱い。酔わせたいなら、他をあたれ」

「いえいえ! 顔を見せていただけるだけで光栄です!」


若い兵士たちは口々にそう言いながら席を詰め、彼のために空間を作った。

そして、その隅のほうには――ジンリェンが誘っておいた第一軍の精鋭たち、見知った顔が数人、既に杯を交わしていた。


「来たな、ジン。遅いぞ」

「第一軍は集合も早いし解散も早いからな。お前が最後だ」


見慣れた声に、ジンリェンは薄く笑みを浮かべる。

肩を並べるのは、過去幾度も生死を共にしてきた仲間たち――戦場でしか語れないものを知る者たちだ。


若者たちの賑わいの中で、年嵩の第一軍の面々と混ざるジンリェンの姿は少し浮いていたが、誰もそれを咎める者はいなかった。むしろ、直属護衛という立場でありながらこうして顔を出すことに、場の空気はほんの少し和んでいた。


「……飲む前に、少しは食っておけよ」


そう言って差し出された乾き物の皿を受け取りながら、ジンリェンは静かに席についた。弟の背が遠くなった静かな夜、祭りの終わりにふさわしい、少しだけ温度の低い始まりだった。


杯を手に取る。

満たされた酒はまだ揺れている。ジンリェンはそれを口元に近づけ、一口だけ含んだ。

喉を通る熱が、内側で静かに火照りを作る。


「ほんとに来るとはな、ジン」

「……断る理由がなかっただけだ」


第一軍の戦士のひとり――筋肉質で日焼けした肌の男が、笑いながら頷いた。


「祭、今年もあっという間だったな。戦じゃない宴くらい、悪くない」

「……ああ」


そう応えたジンリェンの声には、どこか遠くを見るような響きがあった。


「……フーリェンの奴、明日には戻ってくるのか?」

「さあな。少し時間を取ると言っていた」

「へぇ、あのフーリェンが、か」


意外そうに眉を上げた戦士の声に、ジンリェンは視線を落とす。


「あいつは……思っているより、感情に揺れる。分かりづらいだけだ」

「お前に言われるとはな」


皮肉交じりに笑われ、ジンリェンは酒をもう一口、今度はやや深く喉へと流し込んだ。

熱とともに、じんわりと胸が開く感覚がある。


「……おいジンさん、もう酔ってません?」

「まだ二口目だぞ」


冗談混じりに若い兵士が騒ぎ、あちこちで笑いが起きた。ジンリェンは少しだけ眉をしかめるも、それを否定しようとはしなかった。部屋の隅には、簡素な肴が並び、火酒の香りが漂っていた。兵士たちは、普段の厳しい顔からは想像もつかないような笑顔を浮かべ、仲間同士で杯を交わしている。


「……ああいうのを見ると、俺たちも少し老けたな」

「年下が増えたからだろ」

「お前もすぐ後輩に追い抜かれるぞ、ジン」

「……それは困るな」


ぽつりと呟いたジンリェンの横顔に、笑みが浮かんだ。少し前まで、こうして笑っていられる日が来るとは、思ってもみなかった。


戦いのない夜。

それでも、胸の奥にはひとつだけ、満たされないものが静かに沈んでいる。


(……戻ってきたら、話をしよう)


誰に言うでもなく、心の中で呟いた。


――弟が、戻ってくるまで。

今は、ただ杯を傾けて待つ夜。


「ジン隊長」


ふいに、若い第四軍の兵士が声を上げた。酒の勢いもあるのか、頬をわずかに赤く染めている。


「隊長って、誰か心に決めたお相手とか……いないんですか?」


一瞬、空気がぴたりと止まる。

次の瞬間、第一軍の古参兵たちがどっと笑った。


「おいおい、あんまり無茶なこと聞くなよ!」

「そーだ、そーだ。うちの隊長はな、若ぇ頃からずーっと剣一本で生きてきた男だ」

「気をかけるのは弟のことくらいだろう」


からかい混じりの声に、ジンリェンはわずかに眉を下げた。


「……いないな。今も昔も」


静かにそう言って、杯の中の酒を口に運ぶ。

それだけで、また第一軍の兵士たちはどっと笑った。


「だろうなぁ! お前がそう言うと思ったよ!」

「だけどまあ、女の影がないってのもどうかと思うけどなぁ、ジン隊長? お前なんて“三大イケメン”なんて呼ばれてるんだぞ」

「はぁ……その呼び名、何度も言うが本当にやめてくれ」


ジンリェンは疲れたように額に手をやった。だが、特に怒るでもない。昔から、こうした冷やかしに慣れている。そして、ふと視線を動かすと、第四軍の兵士たちが――そのやり取りを、まるで伝説を見るような目で見つめていた。


憧れの視線。


――第四軍の隊長フーリェン。その双子の兄であるジンリェン。ただそれだけで、彼らにとっては十分すぎるほどの象徴なのだ。


「……そういえば」


ジンリェンは視線を兵士たちに戻し、穏やかに問いかけた。


「お前たちから見て……フーは、どんなふうに見える?」


その問いに、彼らは一瞬驚いた顔をしたあと、顔を見合わせながらぽつぽつと口を開き始めた。


「……あの人、すごく静かですけど、言葉選びが丁寧なんですよね。短いのに、ちゃんと伝わる」

「うん、あと……何ていうか、距離感が絶妙。近すぎず、遠すぎず」

「初めは近寄りがたかったけど、一度話すと、もうそれだけで十分って感じがするんです。変な安心感あるんですよね」


思い思いの言葉が重なっていく。

誰もが口々に語るのは、寡黙で冷静な隊長――だがその奥にある、不思議な温度と静かな信頼。


ジンリェンはそれらを黙って聞いていたが、やがて静かに息を吐き、盃を置いた。


「……ありがとう。そうやって、あいつを見てくれてることが、兄としても嬉しい」


その言葉に、兵士たちは少し顔を赤らめ、そわそわと目を逸らす者もいた。それでも、そこに流れる空気は温かく、心地よい。祭りの終わり。酒の香りの中で交わされる、信頼と絆の確認。その夜の記憶は、ジンリェンの胸の奥に静かに残り続けるのだった。


語られる声を聞きながら、ジンリェンはゆっくりと盃を置いた。


思い思いに語られる弟の姿――そこにあったのは、確かな信頼と尊敬。かつては誰にも触れられず、言葉を交わすことすらままならなかった弟が、いまや軍の中で“信頼できる背中”として語られている。


そのことに、ジンリェンの胸はじんわりとあたたかくなっていた。


その変化は、突然ではなかった。

訓練、任務、血のにおいのする戦場の中で、少しずつ積み上げられてきた信頼。

何も言わずとも、そばにいるだけで安心される存在。

それは、かつてのフーリェンには到底得られなかったものだった。


よかった。静かにそう思った。その一言に、どれだけの想いが込められているのか、自分でも測りかねるほどに。


けれど――

そんな安堵の傍らで、ふいに浮かんだのは、さきほど若い兵に投げかけられた言葉だった。


――「ジン隊長って、誰か心に決めたお相手とか……いないんですか?」


笑い話として流したつもりだった。だが、その問いの残響は、不思議な形で胸に残っていた。


(……いないな)


改めて、心の中で呟く。

今も、これからも――たぶん、ずっと。

その答えが、確信に近いことにジンリェンは気づいていた。


思い返せば、幼いころからそうだった。

誰かに憧れることも、恋しさに胸を焦がすことも……どこか、自分には縁遠い感情だった。


うっすらと浮かぶ記憶。

無理やり押し込まれた感情。拒絶も、混乱も、未消化のまま身体に染みついたあの感覚。


それが、自分にとって“恋”というものを遠ざけているのだとしたら――

別に、それでも構わないと、そう思ってきた。


だが、ふと脳裏をよぎるのは、弟の横顔だった。


感情の起伏が乏しく、他人と距離を置くことが当たり前だったあいつが、いつからか“誰か”をまっすぐに見つめるようになっていた。


不思議なことだった。

自分よりもずっと人間らしい感情に疎いはずの弟が、誰かに心を開き、寄り添い合っている――

その事実が、なんだか嬉しくて、少しだけ、寂しかった。


思わず、小さく息を吐いた。

笑うでもなく、苦笑でもなく。ただ、安堵のような、諦念のような、それでいて確かな信頼を孕んだ、静かな呼吸。


シュアンランなら、フーリェンのすべてを受け止められる。あいつなら、弟をただ“弟”としてではなく、ひとりの存在として、真正面から見てくれる。


(あいつは……俺よりも、フーを“人”として扱えるやつだ)


だからこそ、何も言わずに見守ると決めた。

このまま、何も変わらず、何も壊れず、穏やかに――

弟の選んだその道が、どうか健やかであるようにと。


そう願いながら、ジンリェンは再び盃を手に取った。

冷めかけた酒は、少しだけ重く、苦く感じられた。

 「そういえば、隊長」


湯気の立つ酒盃を手にしながら、第四軍の若い兵の一人がふと口を開いた。


「前から気になってたんですけど……その、フーリェン隊長って、前線に出るようになったばかりの頃って、どんな感じだったんですか?」

「最初からああだったんですかね。無口で、黙々と動く感じの」

「あと……けっこう華奢じゃないですか。俺、最初に見た時、ほんとに前線張ってる人だとは思わなかったですし……」

「おいおい、聞き方ってもんがあるだろ」


第一軍の年嵩の兵が苦笑しつつも、どこか同意しているような様子で頷いた。ジンリェンは、淡く笑って盃を置いた。


「……一つ、思い出したことがある」


その言葉に、若い兵たちの目が一斉にジンリェンへと向く。


「ちょうどあいつが第四軍に入って最初の月――西の駐屯地での話だ」


低く落ち着いた声に、部屋の空気が少し静まり返る。

すると、その第一軍の一人が、ふと眉をひそめた。


「ある夜、駐屯地で軽い訓練の後、詰所で休んでいたんだ。そこにいたのは俺と、あいつと、数人の若い兵たちだった」


ジンリェンは静かに酒を一口啜った。


「その中の一人が言った。『こんなひょろい奴が、前線に立つのが納得できない』ってな」

「……え?」


思わずもれた若者の声をよそに、ジンリェンは淡々と続ける。


「それを聞いたあいつは、むすっとした顔をしただけだった。言い返しもしない。ただ……少し苛立った顔をしてたのを覚えてる」

「でも、それが気に入らなかったんだろうな。そいつはさらに言った。“お前が前線に立つ資格があるのか、証明してみせろ”って」

「証明……?」

「その次の瞬間には、もう転がってたよ。そいつが、床に」


場が静まり返る。


「一瞬だった。あいつが音もなく立ち上がって、間合いに踏み込み、技をかけて……見事に転ばせた。派手じゃないけど、完璧な動きだった。抵抗すらできなかったと思う」


目を見開く若い兵たち。その隣で、第一軍のベテラン兵が「らしいな」と笑う。


「そいつが呆然としたまま床に転がってる横で、あいつはこう呟いた」


ジンリェンは記憶の奥を掘り起こすように、目を伏せた。


「――だから、前線に立てないんだよ、ってな」


その言葉に、どこかゾクリとした空気が流れた。


「静かに、低い声だったが……あれほど明確な反論はなかった。場にいた全員が黙り込んだよ」


しんとした空気の中で、ジンリェンは少し口元を緩める。


「それからだ。あいつに対する態度が変わったのは。誰ももう、表立って偏見を口にする者はいなくなった。……力があるって、ただ言うよりも、一発の行動の方が響くからな」


ジンリェンの言葉の奥に、兄としての誇りと、少しの複雑な思いが滲んでいた。

若い兵たちは黙ったまま、何かを噛みしめるように頷いていた。

ジンリェンは軽く笑い、酒をまた一口啜る。


「……でな、その“そいつ”ってのが、今ここにいる」


ジンリェンが指を伸ばした先――第一軍の一角に座っていた男が、驚いたように顔を上げた。


「ちょ、隊長、それ言う!?」


どっと部屋に笑いが広がる。


「おいおい、あれお前だったのか!」

「そりゃ転がされるわ! 無茶言いすぎだって!」

「だーから嫌な予感したんだよ! 勘弁してくれよもう……!」


縮こまる男の肩を、隣の兵が叩き、また笑いが重なる。そんな中、ジンリェンは笑いを堪えつつ、さらりと付け加えた。


「まあ、お前のおかげで、あいつの評価が上がったってことで、よしとするか」

「……まったく、褒められてんだか恥かかされてんだか……」


不満そうに呟く男に、再び明るい笑い声が広がった。


その夜、語られたのは静かな武勇伝でありながら、同時に兵たちの距離を縮める小さな思い出となった。

肩を叩き合い、笑い合いながら杯を重ねる彼らの姿に、確かに一つの“信頼”が育っていることが、何よりも感じられた。静けさが戻った兵舎の一室に、酒の香と湯気がゆるやかに漂う。


「……隊長、やっぱすげぇな」


しばし沈黙の後、ぽつりと誰かがそう言った。続けて、第四軍の若い兵士たちが相槌を打つ。


「一緒に戦ってるけど、改めて尊敬します」

「俺も……いつか、そんな風に堂々と背中を見せられる兵になりたいっす」


熱のこもったまなざしが、静かに盃を傾けるジンリェンに集まっていた。

ジンリェンは、それらを正面から受け止めるでもなく、かといって軽く流すでもなく、ただふと口元に薄い笑みを浮かべた。


「……あいつはあいつのやり方で、道を切り開いてきた。俺は、その隣で見てきただけだ」

「でも、その“隣”ってのが大事なんじゃないですかい?」


そう口にしたのは、年嵩の第一軍の兵士だった。

「どんなに優れた兵でも、信じてくれる奴がいなきゃ、潰れる時もある。……背中を預けられる奴がいるから、踏ん張れる。違うか?」


ジンリェンは少しだけ目を細めた。杯の酒を干し、静かに置く。


「……そうかもな」


それだけ言って、ゆっくりと立ち上がった。


「そろそろ休め。明日も訓練はある。飲みすぎるなよ」

「は、はいっ!」

「了解であります!」


まるで切り替えスイッチが入ったように、兵たちは背筋を伸ばす。ジンリェンは肩をすくめながら笑った。


部屋を出て、廊下へ出ると、夏の夜風が頬を撫でた。


――誰かに背中を預けること。

――誰かの背中を信じること。


思えば、それが隊長という役目の本質なのかもしれない。


フーリェンは、自分の道を自分で決め、歩き出している。あの日の幼さも、不安げな影も、もうそこにはない。けれど兄として、双子として、ずっと見守っていくことだけは、変わらない。


夜空には月が満ち、兵舎の灯が静かに揺れていた。

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