兵士と直属護衛
任命式の場は、軍における数少ない「格式」を重んじる儀式のひとつだった。
広間に集まる者の大半は、正装に身を包んだ上官や貴族。まだ名もなき一兵士である自分のような存在は、片隅でひっそりと息を潜めて立っているしかなかった。
だが、その日だけは不思議と空気が違っていた。
壇上に名を呼ばれて上がったのは、二人の若者だった。
一人は灰銀の髪を短く刈った青年。狼の耳と尾を持ち、均整の取れた体つきと、落ち着いた歩調。
目元は穏やかだが、よく見ればその内には鋭い光が宿っていた。
もう一人は、白銀の髪と狐の耳を持つ青年――いや、少年と言っても差し支えない。
しなやかな長身ではあったが軍装はまだやや大きく映り、それでも一歩ごとに乱れのない礼儀があった。
そのまなざしは氷のように冷たく、だが静かな炎を内に宿しているようでもあった。
「ジンリェン。お前を、第一皇子アルフォンス殿下直属護衛に任命する」
「シュアンラン。お前を、第二王子セオドア殿下直属護衛に任命する」
「名誉ある任を、全うせよ」
厳かに響く任命の声と、続く敬礼の一斉音。その光景を、ランシーは無言のまま見つめていた。
ジンリェン。
シュアンラン。
その名も、その姿も、彼にとっては風の噂で聞く程度のものだった。
それなのに、ふたりが並び立つだけで、不思議と場の空気が変わるのが分かった。
ただの若者――いや、少年と呼ぶに等しい年齢。自分より一つ、あるいは二つ以上下かもしれない。
だが彼らは、今この場で皇子の直属護衛に任じられた。
それは、選ばれた者にしか立てない位置だ。
劣等感でも嫉妬でもない。
ただ、純粋に――
(……すごいな)
それだけが胸に浮かんだ。
彼らがそこに立っていることが、何の違和感もなかった。
そう、最初からそうなるべくしていたような、奇妙な納得感すらあった。
二人は最後まで言葉を発さなかった。
ただ並んで礼を取り、そのまま無言で壇を降りていく。
灰銀と白銀――狼と白狐。
その背中を見送りながら、ランシーはなぜか心の中に、火が灯るような感覚を覚えていた。
この時の印象が、後に続くあらゆる出来事の伏線になることなど、まだ知る由もなく――。
初めての休暇日は、意外なほど静かだった。
王都に来てから、あれこれ気を張り続けていたせいか、いざ自由な時間を与えられても、何をしていいのか分からなかった。街に出る気にもなれず、かといって寝て過ごすほど器用でもない。
結局、体を動かしていないと落ち着かず、ランシーは足の向くままに訓練場へと歩いていた。
いつもの喧噪もなく、砂の舞う広場には人気がない――かに思えたが。
遠くで、打ち合う音が響いていた。木剣と木槍が、乾いた音を立ててぶつかり合っている。
そのたびに、空気が軽く震え、足元の砂がわずかに舞い上がる。
音のする方へ目を向ける。
訓練場の中央、そこにいたのは――数日前、任命式で壇上に立っていたあの二人だった。
白銀の狐のジンリェンが、鋭い踏み込みと共に木槍を突き出す。
対する灰銀の狼のシュアンランは、それを確かな動作で受け流し、無駄のない返し手で斬り込む。
一撃、一撃に力はあるのに、妙な静けさがあった。
言葉も掛け声もない。だが、彼らの間には明確な“やりとり”があった。
互いが何を狙い、どう動くか。すべてを知っている者同士の、静かな模擬戦。
(……また、すごいもん見ちまったな)
訓練を見ているというより、舞を見ているような心地だった。
呼吸が合っている。目線、間合い、攻守の流れ。そのどれもが、恐ろしいほど滑らかだった。
ふと、動きが止まった。いや、正確には、打ち込みの直前で寸止めされたのだ。
その瞬間、二人の視線が同時に、こちらを向いた。
ぎくり、と肩が動く。
隠れていたわけではないが、じろじろ見ていたのは確かだ。言い訳がましい言葉が喉まで出かけたそのとき――
「……何か用か?」
静かな声が飛んできた。口にしたのは、シュアンランだった。
灰銀の髪を揺らし、剣を肩に担ぎながら、まっすぐにこちらを見ている。
「いや……別に。訓練、見てただけだ」
慌てて手を振り、つい語尾が濁る。すると、もう一人の少年――ジンリェンが、軽く木槍を下ろして歩み寄ってきた。
「見慣れない顔だな。第三軍か?」
「……ああ。新しく入った、ただの兵士だよ。ランシーって言う」
「ランシーか」
ジンリェンは名前を繰り返し、どこか無表情のまま、しかし真っ直ぐな目で見据えてきた。
その目に、値踏みするような意図はない。ただ、何かを見極めようとしている、そんな静かな光。
「――そうか」
ぽつりとそう言って、ジンリェンは軽く頷いた。
そして、ふと隣にいたシュアンがぽつりと呟く。
「……どうせ暇なんだろ。剣ぐらい握ったらどうだ?」
それが、どこまで本気だったのかは分からない。
けれど、その誘いに乗ったことが、すべての始まりだった――と、後にランシーは思うことになる。
あの日を境に、ランシーは二人の直属護衛と、ちょくちょく顔を合わせるようになった。
最初こそ遠慮があった。直属護衛ともなれば、王族の近くに仕える者。軍内でも特別な立場のはずだった。けれど、彼らと話しているうちに、そんな垣根は不思議と消えていった。
ジンリェンは、相変わらず言葉が少なく、感情を表に出すことはあまりなかった。だが、その静けさの中には、確かな思慮があった。話していると、少し遅れて意味が届くような発言をすることがあり、それに気づくたび、ランシーは内心で唸った。
一方のシュアンランは、ジンリェンよりもやや口が悪く、気怠げな印象を与えることが多かったが、実際にはよく周囲を見ていた。人の動きにも、心にも敏い。ランシーが小さく疲れているときなど、言葉には出さずともさりげなく水筒を投げてよこすような、そんな気遣いもあった。
「直属護衛」という肩書きのわりには、二人とも驚くほど自然体で――というよりも、自然体であろうとしているように見えた。気を張り詰めて生きてきた者に特有の、柔らかさに似た「距離の取り方」だった。
ランシーもまた、肩肘を張ることはしなかった。
というより、身分や礼儀作法を意識するような育ちではなかったから、そもそも張り方を知らなかった。
「……おまえ、敬語とか使わねぇのな」
ある日、シュアンランが笑いながらそう言った。
「え、使った方がいいのか?」
真顔で聞き返すと、シュアンランは思わず吹き出した。
それを見ていたジンリェンも、ほんのわずかに唇をゆるめていた。
たぶん、二人にとっても気楽だったのだろう。
まだ十五、十六で護衛という重責を担っていた彼らにとって、軍内で歳の近い者と気兼ねなく言葉を交わせる機会は、数えるほどしかなかったに違いない。
「……ランシーって、変なやつだな」
シュアンランが、あるときぽつりとそう言った。
けれどその声には、からかいでも呆れでもない、微かな好意が混じっていた。
不思議なものだ、とランシーは思う。
少し前まで名前も知らなかった二人が、今では日が暮れるころに連れだって訓練場へ向かう仲になっている。
肩書きも、所属も、出自も違う。
それでも、ただ剣を握り、汗を流して笑い合う時間が、確かにそこにあった。
(……なんだ。案外、王都も悪くないかもな)
そう思ったのは、出会って三度目の訓練終わり。
誰もいない更衣室のベンチで、水を飲みながら空を仰いだときだった。
数日後。雲ひとつない青空の下、軍本部東の訓練場では、合同訓練の準備が進んでいた。
第三軍と第四軍による合同戦術訓練。王都周辺の小規模部隊で定期的に行われる実戦形式の練習で、いくつかの班に分かれて模擬戦を行うものだ。
ランシーにとっては、初めて参加する規模の訓練だった。
だが、その割に気持ちは落ち着いていた。最近よく顔を合わせるジンリェンやシュアンランは姿が見えない――おそらく、直属護衛として別任務についているのだろう。
それが少しだけ寂しい気もしたが、彼らと同じ場にいれば気が引き締まるのも事実で、今日は少し肩の力を抜いて臨めそうだった。
集まった兵士たちの中には、見慣れない顔も多かった。
地方駐屯から呼ばれた者、第四軍の若手、他の軍のベテランたち。
それぞれが小さな輪をつくり、各班へと割り振られていく。
その中で、ふと――ランシーの目に、一人の兵が映った。
白銀の髪、狐の耳、細身の背。
軍装に袖を通し、陽の光を受けながら静かに佇んでいる。
その姿は、数日前に見た“あの少年”と、よく似ていた。
(……ん?)
思わず足を止める。けれど、すぐに首を傾げた。
似ている。確かに似ている。だが――何かが違う。
雰囲気、と言えばいいのだろうか。ジンリェンのそれは、どこか“研ぎ澄まされている”印象があった。張り詰めた糸のように、常に周囲を観ている気配。だが、いま目にした白狐は、もっと柔らかく、影のように風景に溶け込んでいた。
(……いや、そもそもあいつは第一軍だろ。ここにいるわけがない)
そう思い直し、視線を逸らす。それでも、心のどこかにわずかな引っかかりが残った。
もしも彼が、こちらに気づいていたなら――名を呼べば、振り向いたのだろうか。
それとも、あれはそもそも……別人なのか。
問いを口にすることもなく、やがて訓練が始まった。
ランシーは、自分の班の位置につき、いつも通りの動作で剣を構えた。
だがその間も、なぜか脳裏には、あの「白狐の後ろ姿」が、ぼんやりと焼きついて離れなかった。
合同訓練が終わり、兵舎へと引き上げる隊列の中に身を沈めながらも、ランシーの心にはまだ、昼間の白狐の姿がくすぶっていた。支給された水筒を握ったまま、無意識に歩を止める。
視線の先。訓練場の隅。人影が一つ、石の腰掛けに座っていた。
白色の毛並み、狐の耳。小柄な体つきに、少しだけ土汚れのついた軍装。その手元には、簡素な水筒が揺れていた。夕焼けに光を透かしながら、白狐は、ただ一人で水を飲んでいた。
迷いはなかった。訓練場にはもうほとんど人がおらず、歩み寄る足音はすぐに気づかれる。
数歩。いや、もっと手前――距離を詰めたその瞬間、白狐の視線がぴたりとこちらを捉えた。
警戒。
その二文字が、まるで風のようにランシーの肌を撫でた。
白狐の目は、驚くほど冷めていた。少年のように見える容姿に反して、その眼差しは、まるで刀身のように鋭い。眉間にわずかな皺を寄せ、じっと自分を見上げてくる。
(……似てる)
胸の内で、はっきりと思う。この目だ。周囲に目を配りながらも、一切を遮断するような――まるで、心の扉が閉じられているかのようなまなざし。
ジンリェンと、同じ目をしていた。
「おまえ……」
言いかけて、言葉が詰まる。名前も、所属も、何も知らない。
白狐は、水筒の口をそっと閉じると、わずかに身じろいだ。逃げるでもなく、威嚇するでもなく。
ただ、「これ以上近づくな」と言わんばかりの、静かな拒絶。
けれど、それが余計にランシーの興味を掻き立てた。
ランシーは少し息を整え、迷わず口を開いた。
「…お前さ…兄弟はいるか?」
問いかけた途端、白狐の瞳に一瞬だけ警戒の色が浮かんだ。
けれど、彼はそれ以上の言葉を返さず、ただじっと、大きなその目でランシーを見つめていた。
その沈黙に少し気まずさを感じ、ランシーはすぐに言葉を続けた。
「……ごめん、急に変なこと聞いて。俺はランシー。認識してくれているかは分からないけど、さっきの合同訓練の時にお前を見かけたんだ」
声は柔らかく、できるだけ敵意を抜こうと努めていた。
「お前にさ、すごく似てるやつを知っている。ジンリェンって言うんだけど……」
名前を口にした瞬間、白狐の耳がぴくりと動いた。
目の前の少年の表情が、わずかに変わる。
沈黙が続く。
やがて、その小さな胸が静かに上下し、白狐はかすかな声で答えた。
「……兄だ」
その言葉は短く、でも重く響く。
その言葉に、ランシーは間髪入れずに続けた。
「やっぱりな!すげー似てんな。双子か?」
勢いよく喋るランシーに、白狐は目を丸くしてしばし沈黙した。
「なんだこいつ……」とでも言いたげな、呆れと困惑の入り混じった表情を浮かべている。
そんな白狐を見て、ランシーはにやりと笑いながら訊ねる。
「お前、名前は?」
彼は少しだけ迷ったように眉をひそめ、やがて小さな声で答えた。
「………フーリェン」
ランシーはその名にふと気づき、目を細めて笑った。
「…へぇ、兄弟どっちも花の名前なんだな」
冬時期になると、道端や王都の花屋でよく見る白い花。一面に群生するその花の名前を冠した、目の前の白狐。確かにその名の通り、華がある見た目をしているし、どこか儚げな雰囲気もある。
そんな、他愛もないやりとりをしていると――というよりも、ランシーがほぼ一方的にフーリェンに対して話していると、後ろから二つの足音が近づいてきた。その足音の持ち主に気が付いたランシーが、後ろを売り剝きながら声を掛ける。
「よお」
夕暮れの色が差し込む中、姿を現したジンリェンとシュアンランに向かって、ランシーがひらりと手を振った。声は軽く、笑顔も変わらない。
ジンリェンは静かにまばたきし、シュアンランはわずかに眉を上げる。
二人の視線が、ランシーとその目の前に座るフーリェンに向けられた。
「……お前ら、知り合いなのか?」
問いかけたのはジンリェンだった。いつぞや弟と隣の狼男に対しても、同じようなことを聞いたような気がすると思いつつ、目の前の二人に問いかける。
そんなジンリェンの問いに、「いや、今知り合ったとこ」と、ランシーは笑って答えた。
その隣で、フーリェンが小さく困り顔になる。
口元をわずかに引き結び、なんとも言えない表情でランシーをちらりと見る。
そんなフーリェンの頭に、すっと大きな手が置かれた。
「……お前に言ってなかったな」
静かにそう言って、ジンリェンが弟を軽く引き寄せる。
「俺の弟だ。フーリェン」
その言葉に、ランシーは「ああ」と頷く。
「今、本人から聞いたとこ。やっぱりなって思ったんだよ。双子かー。田舎には結構いたけど、ここじゃ初めて見たな」
朗らかに笑いながら言うランシー。それは本当に、ただの感想だった。
だが、その言葉に――三人が、ふと揃って静かになる。
ランシーには気づかれぬほどの、一瞬の間。
「……初対面で、間違えたりしなかったか?」
沈黙を破るように、シュアンランがぽつりと訊いた。
その声には、どこか冗談めかした響きがあったが、同時に微かに、気まずさが混じっていた。
「いや…似てるけど体格差あるし、雰囲気も違うしな。別人だってのはすぐ分かったぞ」
あっけらかんと言い切るランシー。その瞬間――ジンリェンの視線がわずかに逸れ、フーリェンは無表情を保ったまま、目を伏せる。
そして、シュアンランは……ぼりぼりと頭を掻いた。
無言のまま、乾いた風が通り過ぎる。
微妙な空気が一瞬だけ流れたあと、それを断ち切るように、ジンリェンが口を開いた。
「……で、今日の訓練はどうだった?」
その問いに、ランシーは「ん?」と肩をすくめ、すぐに笑顔を戻した。
「楽しかったぞ。あんな大勢で一斉に動くの、初めてだったからな」
冗談めかして拳を軽く握って見せると、すぐ隣のフーリェンがぽつりと呟いた。
「……こっちは、第三軍の兵が巨漢ばっかで、ちょっと怖かった」
素直すぎる感想に、ランシーは目を見開いた。
「マジか。全然怖がってる感じしなかったけどな」
「……そう見えてるだけ」
フーリェンはそっけなく言ったが、彼の尻尾は左右にふさふさと揺れていた。
(へぇ……意外と喋るじゃん)
ランシーは心の中で少し驚いた。
冷めた目と、警戒心を滲ませた視線。纏う空気は氷のような目の前のフーリェンは、兄ジンリェンと比べて人を寄せ付けない雰囲気があった。しかし、ジンリェンとシュアンランが加わったことで、彼の表情が、少し和らいだのが分かった。ついさっきまでの警戒心は、もう薄れているようにさえ見える。
それが面白くて、もっと話を引き出してみたくなる。この兄とはまた違う雰囲気を持った白狐に、どんどん興味が湧いてきた。
「……お前、意外と喋るな。最初無言だったのに」
そう言うと、フーリェンはふいと視線をそらした。
その仕草が少しだけ子供っぽくて、ランシーは笑いそうになるのを堪える。
横でそのやりとりを見ていたジンリェンとシュアンランが、ふっと笑った。
ジンリェンが、静かにフーリェンの頭を一度撫で、それからランシーに向き直る。
「……第三軍と第四軍は訓練の時間が被ることも多し、今後も顔を合わせることになるはずだ。こいつはなかなか自分からは喋らないが……仲良くしてやってくれ」
その言い方は、隊長としての命令ではなく、兄としてのお願いだった。
「もちろん。だって、面白いしな」
ランシーはにやりと笑い、フーリェンのほうを見やる。
「な?これからよろしくな、フーリェン」
その言葉に、フーリェンは少しだけ、ほんのわずかに――口元をゆるめた。
気づかれない程度の、ささやかな表情。
――この時の出会いから、数年後。
二人だった直属護衛は、気づけば四人になった。
訓練場だけの他愛ないやりとりはいつしか日常の一部となり、日の暮れた訓練場で剣を交えた仲間は、戦場で背中を預ける戦友へと変わっていった。
皇子の盾となり、王国軍の最前に立つ。数多の兵士を従える四人の獣護たちの物語は、ここから始まったのだった。