ワイン
窓の外には、ゆるやかな秋風が吹いていた。
色づいた葉が空を舞い、王宮の中庭を金と朱に染めていく。
セオドアの執務室。
整然とした書類の山の中、シュアンランはひときわ分厚い報告書に目を落としていた。
『第七地区の監査記録』――重苦しい表紙に反し、そこに綴られた文字は一つ一つ、確かに未来へと繋がる足跡だった。
「……ずいぶん片づいたな。あと二、三冊か?」
「はい。あとは写しを保管庫に回せば」
「ふむ……お前の手際の良さに、毎度ながら感心するよ」
セオドアの穏やかな声に、シュアンランは小さく笑う。
「自分でやっていたら、来年までかかっていたかもな」
「過小評価がすぎますよ、セオドア様」
そんなやりとりを交わしながら、二人は一瞬だけ会話を切り、開け放たれた窓から入り込む外気に耳を澄ませた。
――カラン、カラン。
訓練の終わりを告げる鐘の音が、王都の秋空に響き渡る。
「……いい音だな」
セオドアがぽつりとつぶやく。
その横顔には、どこか遠くを見るような静けさがあった。しばし風と音を楽しんだのち、セオドアがふと声をかける。
「シュアンラン」
「はい」
「戸棚の一番下を開けてみろ」
「……?」
奇妙な指示に、シュアンランは眉をひそめた。
しかし主の命令とあらば、従わぬ理由もない。
重い木製の戸をゆっくりと開ける。
中から現れたのは――
「……これは」
深紅のラベルを貼った、重厚なガラス瓶。
明らかに高級品と分かるワインが、ひときわ丁寧に収められていた。
「先日、政務のために面会した貴族にもらってな。家門の威信とかなんとか言っていたが……まあ、贈答品だ」
椅子に凭れながら、セオドアがあっさりと説明する。
「明日、お前は非番だったな。持っていけ」
「いえ、しかし……もったいないです」
遠慮がちにそう返したシュアンランに、セオドアはわずかに目を細めた。
「どうせ一人で飲む量じゃない。お前“ら”が飲めばいい」
「……“ら”?」
繰り返したその言葉に、ふと、心のどこかが温まるのを感じた。
――お前が、ではなく。お前らが。
セオドアの言葉の選び方は、いつだって慎重だ。
それをわざわざ、複数形にしたのなら――
「……ありがとうございます。頂いていきます」
静かに頭を下げると、セオドアは「うむ」と頷き、窓の外に視線を戻した。
秋は、深まりつつある。
それでも今日の空は、どこか優しかった。
夜の王宮は、昼とはまるで別の顔を見せていた。
人の気配はまばらで、灯りだけが道を示すようにぽつぽつと並んでいる。
その静けさの中を、一本の瓶を抱えた灰銀の狼が歩いていた。革の手提げ袋の中には、セオドアから託された深紅のラベルのワイン。風が吹くたび、瓶がかすかに鳴る音が耳に心地よかった。
(“お前ら”が飲めばいい――か)
セオドアは昔からそういうところがある。
決して余計な干渉はしない。けれど、たまに、シュアンランに対して甘い気がする。
訓練場の裏手を通り、灯りの消えた第一軍兵舎の方へ向かう。まず最初に目をつけたのは、ジンリェン。
この時間でもまだ書類整理をしていることが多い。
案の定、管理棟の小窓から、ほのかに灯る明かり。
そっと扉を開けて中を覗くと、ジンリェンが帳簿を前に湯気の立つ茶を手にしていた。
「……お前、まだ働いてんのかよ」
気配に気づき、ジンリェンが目を上げた。そして、シュアンランの手元に目をやり、小さく笑う。
「……随分と良さそうなワインだな。差し入れか?」
「セオドア殿下から。おまえらで飲めってさ」
「ふーん……で、お目当ての人物は?」
核心を突くような問いに、シュアンランは咳払いでごまかした。
「……まだ探してるとこ」
「そっか」
ジンリェンは茶を置いて立ち上がると、帳簿をさっと閉じた。
「じゃあ、探しに行くか。俺も飲む気になってきた」
「……おい、仕事終わったのか?」
「今、終わらせた」
有無を言わさぬ笑顔に、シュアンランは肩をすくめる。やれやれとため息をつきつつも、内心はどこか安堵していた。
「……じゃあ、次はフーか。ランシーも見つかればいいな」
「どうせどっかで兵士と食って飲んでるんだろ、あいつは」
そんなことを言いながら、二人の男は歩き出す。
秋の夜、王宮の片隅で――少しずつ、ひとつの時間が集まろうとしていた。
月が、白く王宮の中庭を照らしていた。
その下を、白狐と狼の男が並んで歩いている。
第四軍の詰所を過ぎ、訓練場裏手の渡り廊下を抜けたあたりで、ふと向こうから現れた人影が一つ。
「あ?」
シュアンランが目を細めるより早く、向こうが声を上げた。
「おお、シュアンじゃねえか。……って、ジンもいるのか。どうした?これから風呂か?」
肩に外套をかけ、口元には油の香りを残す満足げな笑顔。言うまでもなく、ランシーだった。
「……おまえ、また食いすぎて動けなくなってたろ」
「食ったは食ったけど、動けないってほどじゃねーぞ。今日は鍋だったんだ。南の砦から届いた魚があってな――」
「詳しくは聞いてない」
シュアンランがピシャリと遮ると、ランシーは唇をとがらせた。
「ちぇっ、つれないやつだな。んで、何の用――」
そう言いかけたところで、ランシーの視線がシュアンランの手元に吸い寄せられた。
「……って、それ、酒じゃねえか!」
声が一段階跳ね上がる。ジンリェンが小さく笑いながら首をすくめた。
「よく分かったな。見た目で」
「当たり前だろ。酒飲みの目をなめんなよ」
食後の満腹顔が、あっという間に上機嫌に切り替わっていた。
「まさか、今から飲むのか?」
「フーを探してた。お前も来るか」
そう誘ったジンリェンに、ランシーは二つ返事で答えた。
「行く!もちろん行く!」
「……お前さあ、少しは落ち着け」
「いや、でもさ、いい酒ってのはタイミングが命なんだよ。こうして腹も満たされた夜に、仲間と一緒に飲むってのが最高なんだ!」
ランシーの声が廊下に響き渡る。
その賑やかさに、ふと空を仰いだジンリェンが呟いた。
「……さて、残すはフーだけか」
「そうだな」
シュアンランもまた、ゆっくりと歩き出す。
ワインの瓶が小さく鳴り、三人の足音が秋の夜に混ざっていった。
王宮の夜道を三人で歩く。
ジンは少し前を行き、ランシーは「食いすぎた」と言いながら腹をさすっていた。シュアンはその中間、ワインの瓶をしっかり抱えたまま、時折視線を左右に向けながら歩を進めている。
「……いねぇな」
ランシーがぽつりとつぶやいた。
「部屋にもいなかったし、訓練場にもいなかった。兵舎の裏も見た。……あいつ、外任務だったか?」
「今日は王都配備のはずだけどな…」
ジンリェンがそう答えた瞬間、渡り廊下の向こう側から、ほのかな笑い声が聞こえてきた。
耳をそばだてると、それは柔らかく落ち着いた声と、それに応える静かな声。ひとつは――第四皇子、ルカの声だった。視線をやれば、ちょうど回廊の先に、月明かりの下で向かい合って談笑している二人の姿が見えた。その隣で、深いフードをかぶり、口元だけに笑みを浮かべる青年。第三皇子、ユリウス。
「……お二人とも、ご機嫌ですね」
先に声をかけたのはジンリェンだった。
ルカが振り返ると、すぐにやわらかな笑みを浮かべる。
「ああ、こんばんは。三人そろって、どうしたの。……夜の散歩?」
「いや、散歩というより、フーリェンを探してて」
「なるほどね。で、見つかったのかい」
「部屋にもいませんでした。外任務じゃないはずなんですが」
ジンリェンの問いに、ルカは少しだけ目を細めた。
そして、困ったように苦笑する。
「……この時間に部屋にいないのなら、多分、“あそこ”じゃないかな」
「“あそこ”……?」
ランシーが首を傾げる。
ルカは語らず、ただ指先で中庭のさらに先――
西棟の屋上を示した。
「あの子、たまに行くんだ。ひとりになりたいときにね」
「冷えるから、早く行ってやって。……それ、美味しいワインなんだろう?」
いたずらっぽく微笑むルカに、ジンリェンとシュアンランはそれぞれ軽く頭を下げた。ユリウスは、何も言わず。ただ、フードの影から静かに三人を見送る。
「ユリウス様も、おやすみなさい」
ランシーが手を挙げて別れを告げると、ユリウスは小さく笑って手を振り返した。
空には、秋の星々。静かな風が、まるで誰かの所在を教えるように、そっと吹き抜けていった。
西棟の螺旋階段を登りきると、冷えた夜風が頬を撫でた。薄雲に隠れかけた月の光が、瓦の上に淡く広がる。静まり返った屋上の奥に、ひとつの影が腰を下ろしていた。
白い耳と、揺れる尻尾。
「……いた」
シュアンランが声を漏らすと、まるでその言葉が届いたかのように、白狐がゆっくりと振り返った。
屋根の縁から身をのぞかせ、月光の中に浮かぶ狐の横顔が、三人の姿を見つけて目を細める。
「……三人そろってどうしたの?」
驚く様子もなく、どこかのんびりとした声音でフーリェンが言った。その声に、シュアンランが肩にかけていた革袋を少し持ち上げた。中から覗くのは、深紅のラベルが貼られたワインボトル。
「セオドア様からいただいた。……“みんなで飲め”ってさ」
その言葉に、フーリェンの琥珀色の瞳がわずかに揺れた。ほんの一瞬だけ迷ったような間があり――それから、静かに立ち上がる。屋根の上からするりと降りるその動きは、まるで風そのもののようだった。
足音ひとつ立てずに、フーリェンは三人の前に降り立つ。
「……じゃあ、せっかくだし」
フーリェンが口の端を小さく上げて言うと、ジンリェンとランシーも自然と笑みを浮かべた。
言葉は少ないけれど、それだけで十分だった。
夜はこれから。
四人の静かな時間が、ようやくそろった。
「――あ、そうだ」
屋上からの帰り道、四人が並んで歩いている途中で、ふとフーリェンが足を止めた。
「どうした?」と振り返るシュアンランに、フーリェンはぽつりと呟く。
「シュアンの部屋に行く前に、ちょっとだけ食堂に寄りたい」
「……食い物なら、ランシーが食い尽くしてるぞ」
「おいおい失礼だな、俺は人の分まで手は出さねぇっての」
そんなやりとりを交わしながらも、三人はフーリェンに続いて静かな夜の食堂へと足を踏み入れる。すでに夕食は終わっていて、灯りも半分以上落とされている。それでも、フーリェンは迷いなく厨房の奥へと消えていった。
ランシーがこっそり厨房の影を覗きこもうとして、ジンリェンに小突かれる。しばらくして、カチャリと瓶を持ち上げる音と共に、フーリェンが戻ってきた。
その手には、三本ほどのガラス瓶――中には、干し柿、甘いベリー、薄く削がれた林檎のドライフルーツが詰められている。
「……それ、お前のだったのかよ」
ジンリェンがやや呆れたように言った。
その声に、フーリェンはきょとんとした顔を向ける。
「何が?」
「いや……その瓶。冷蔵庫の隅にずっと置いてあるの、誰のだか分かんなくてな。たまに整理する度に“処分するか?”って話になってたんだぞ」
「処分される前に気づいて良かった……」
フーリェンが瓶をぎゅっと抱きしめるようにして持ち直す。シュアンランが笑いながら肩越しに尋ねた。
「そんな好きだったか?ドライフルーツ」
「結構、好き。王都警備の時とか、休憩中に買ってた。……甘すぎないし、長く食べられるし、あと……」
言いかけて言葉を切り、フーリェンはちらりと三人を見た。ほんの少しだけ照れくさそうな顔。
「……一緒に食べやすいから」
「……あー、もうなんか、ずるいな」
ランシーが先に笑い出し、それにつられるようにジンリェンもシュアンランも声をあげて笑う。
こうして、四人はワインとドライフルーツを手に、ゆるやかに夜を進めていった。
シュアンランの部屋に戻ると、すでに炉には火が入り、室内には木の香りとわずかな煙の匂いが漂っていた。四人は各々椅子やベッドの縁に腰掛け、持ち込んだワインとドライフルーツを囲んでいた。
「ワイン用のグラス、ないんだよな」
棚を軽く探っていたシュアンランが、肩をすくめる。
「いいよ、飲めれば何でも」
そう言って、フーリェンが手に取ったのは深緑の陶器のマグカップ。ジンリェンも無言で同じようなマグを手に取り、ランシーは一際でかい鉄製のカップを器用に回していた。
ワインを注ぎながら、ジンリェンがふと隣のシュアンランを見る。
「……お前、ワイン好きだったか?」
「いや、正直、あんまり強くない」
「え、じゃあなぜ持ってきた」
ランシーがけらけら笑いながら突っ込む。
だが、シュアンランは平然としたまま、ジンリェンのマグを軽く持ち上げると、手のひらに冷気を走らせた。次の瞬間、掌から生まれた小さな氷の欠片が、カランと音を立ててジンリェンのマグに落ちた。
「割るだろ?お前、明日も任務だろ」
「……もらう。ありがとう」
ジンリェンもまた、少し疲れたような微笑みを浮かべる。シュアンランは自分の分のマグにも氷を数個落とし、同じようにワインを注ぐ。かすかに立ち上る湯気の中、赤色の液体がふわりと香った。
「フーは?」
「大丈夫」
フーリェンは、さらりと返し、瓶から直接マグへと注ぐ。その手際に無駄はなく、ワインの深い紅が陶器の中に静かに満ちていく。
「……まじで強いんだよな、フーは」
ランシーが少しだけ感心したように呟いた。
彼もまた、マグになみなみとワインを注ぎ、一口でぐいと煽る。
「うん、これ、美味いな」
開けたばかりのワインは、香り高く、それでいて角のない優しい味わいだった。しばらく無言のまま、グラス代わりのマグを傾ける音だけが、静かな部屋に続く。
ジンリェンは時折、氷の音を聞きながら、ゆっくりと味わうように飲んでいた。フーリェンはマグを傾けつつ、膝に置いたドライフルーツの瓶の蓋を指先で回している。
「……これだけ静かに飲むの、久々かもな」
ランシーのつぶやきに、ジンリェンがこくりと頷く。
「祭の時みたいな、どんちゃん騒ぎもいいけど……こっちは、落ち着くな」
「……そうだな」
シュアンランが、マグを片手に炉の火を見つめながら答えた。
風の音も、兵の足音も届かない小さな空間。
そこには、戦場では得られない平穏と、変わらぬ絆だけが在った。
時間の経過とともに、マグの中身は静かに減っていった。ランシーは朗らかな調子のまま、何の抵抗もなく杯を重ねていた。目元はほんのり赤くなっているが、声はいつも通り、というよりむしろ少しだけ饒舌だ。
一方で、フーリェンはというと――
「……お前、ほんとに飲んでるよな?」
ジンリェンが訝しげに問いかける。
フーリェンは静かに頷いた。
「うん。普通に、飲んでるよ」
「……顔色、一つ変わってないんだけど」
ジンリェンの言葉に、ランシーが大げさに肩をすくめて言う。
「だよなー。俺の飲み相手で一番手強い」
「そうなの?」
ジンリェンがマグを口に運びつつ尋ねたが、その手の動きはやや鈍い。目元はうっすら赤く、視線もどこかぼんやりしている。
「ジンは、あんまり強くないよね」
フーリェンがさらりと言う。
ジンリェンが小さく咳払いをしながら、微妙な顔で肩をすくめた。
「……飲めないわけじゃない。ただ、ペース間違えると眠くなるんだよ」
「眠くなるだけならまだマシだよなー」
ランシーが笑いながら、マグの残りを煽る。
そしてふと、隣を見る。
「おい、シュアン。……大丈夫か?」
そこには、マグを両手で包むように抱えたまま、目元がとろんとしたシュアンランの姿があった。
「ん……大丈夫」
シュアンランはそう答えたが、その声にはいつものきびきびした調子がなく、どこか柔らかく濡れていた。
「やっぱり弱いな、お前」
ランシーが茶化すように笑うと、シュアンランは頬を膨らませて反論する。
「飲めてるだろ……?」
「うん、飲めてるけど、そのペースでそれって、結構やばくないか?」
笑いながら首を振るランシー。
その様子を見て、フーリェンがぽつりとつぶやいた。
「ここで飲んでよかったね」
「それはマジで正解」
ジンリェンもまた、ぼんやりとしながらも同意する。
もしこれが他の場所だったら、彼を担いで帰る羽目になっていたかもしれない。
シュアンランの体が、ふわりと傾きかける。それを支えるように、隣にいたフーリェンがさりげなく手を伸ばした。
「……ありがと」
弱々しく返されたその声に、フーリェンは少しだけ口元を緩める。
「……寝るなら、ちゃんとベッド行ったら?」
「もうちょっとだけ……」
そのまま、マグを膝に置いて目を閉じるシュアンラン。部屋の中には、焚き火のはぜる音と、かすかな吐息、そしてほのかなワインの香りが漂っていた。
時間が、ふわりとやわらかく溶けていく。
誰も急がず、誰も責めず、ただそこに“いる”という感覚。
そんな夜だった。
「ほら」
フーリェンが瓶の中からひとつ摘んだドライフルーツを、ランシーの方へひょいと差し出す。それをランシーが口を開けてそのまま受け取り、親指を立てて無言の礼を送る。それを見ていたジンリェンが、ふと笑った。
「……お前ら、意外と波長合うよな」
「え、なんだよ今更。な、フー」
そう言ってランシーがまた次のドライフルーツに手を伸ばすと、フーリェンはくいっと瓶を引っ込める。
それに不満そうな顔をするランシーに、ジンリェンが苦笑を漏らした。
「フー、それは正解。調子乗らせると延々食うぞ、こいつ」
「こら。俺だって遠慮くらい――」
と言いかけたランシーの言葉が、突然止まった。
ジンリェンもまた、ぴたりと会話をやめ、視線を向けた先――
それは、フーリェンのすぐ隣にいるシュアンランだった。彼の肩に額を預けていたシュアンランが、突然そっと体を起こす。そして、ためらいもなく――フーリェンの開いた首元に、くい、と歯を立てた。
「……っ」
反射的に肩がわずかに揺れる。だがフーリェンはそれ以上何も言わず、ただ目線を落としてため息をひとつ吐いた。
「……シュアン、やめなよ」
その言葉も、どこか日常の一部のようだった。
叱るでも、怒るでもなく、ただ“いつものように”静かに言っただけ。
「んー……」
ぼんやりした返事と共に、シュアンランが名残惜しそうに口を離す。フーリェンの首筋には、小さな赤い噛み跡が、ひとつ。
それを見たジンリェンとランシーは、言葉を失っていた。目が合いかけて、気まずそうにそらす。
そんな二人の視線に気付いたフーリェンが、ようやく口を開く。
「…よくあることだから、気にしないで」
驚くほどあっさりと、まるで“欠伸”でもしたかのような気軽さで、フーリェンは言った。
「酔うと、噛みつく癖があるみたいで…」
ジンリェンが一瞬眉を上げ、ランシーは「へえ……」と微妙な間で相槌を打つ。それでも、どこか表情は読めない。ジンリェンがマグを持ち直しながら、ぽつりとつぶやいた。
「……知らなくてもよかった気がするな、その情報」
「同じく」
ランシーも苦笑混じりに同意する。
特に責めるでもなく、ただ“今後その光景を見てしまったときの処理に困る”というような、そんな微妙な反応だった。「だろうね」とフーリェンも笑うが、どこか照れたような、でも本当に気にしていない様子。
誰もそれ以上深入りはしなかった。だが確かに、この夜のワインとともに、一つ“知らなくてもよかったこと”がテーブルの上に静かに置かれたのだった。
「……起きてるんでしょ」
小さな声が、耳元で囁かれる。それは誰にも届かないように、そっと落とされた言葉だった。
ぴくりと、シュアンランのまつげが揺れる。
そしてゆっくりと瞼が開き、薄暗がりの中で琥珀色のの瞳と視線が重なる。
「……なんでわかった」
低くくぐもった声。フーリェンは答えず、代わりにふわりと自分の尻尾を動かして、そっと彼の背中を撫でた。毛並みの柔らかな感触が、薄布越しにじんわりと体温を伝えてくる。ぬくもりは、言葉よりもあたたかく、でもどこか切なさを含んでいた。
そのぬくもりに、抗うように。
シュアンランはゆっくりと手を伸ばす。
指先は――迷わず、フーリェンの首筋へと。
さっき自分が噛み跡をつけた、そこへ。
だが、触れる寸前で。
フーリェンの手が、そっとその手を払った。
「……だめだよ」
柔らかく、でもはっきりとした拒絶。怒っても、拒絶してもいない。ただ、まるで子どもを諭すように。
その言葉に、シュアンランの肩がかすかに落ちる。
「……ごめん」
ぽつりと落ちたその言葉に、フーリェンは何も返さなかった。
シュアンランは、のそりと上体を起こし、自分の前に置かれたマグを見下ろす。底には、赤いワインの名残がわずかに沈んでいた。
「……飲みすぎたな」
苦笑混じりのその声に、向かいのジンリェンがマグを取り上げる。そして、用意してあった水差しから、何も言わずに水をなみなみと注いだ。
「ほら、こっち飲んどけ」
淡々とした口調の中に、ほんのわずかな温かさ。
シュアンランは素直にマグを受け取り、小さく「……ありがと」とだけ言った。その横で、フーリェンの尻尾がまだそっと背に触れていた。
静けさを切るように、ぽん、とマグを置く音がした。
「……なんかあれだな、子供がすねてるのを、なだめてるみたいな構図だな」
突然のランシーの発言に、ジンリェンが吹き出しそうになりながらも、どうにか水を飲み込む。
「おい、誰がすねてるって?」
少しだけ眉を寄せてシュアンランが言うが、ランシーはまったく悪びれた様子もなく、へらりと笑って肩をすくめる。
「いやぁ、すねてるっていうか……わかるよ、俺だって酔うと甘えたくなるしな」
その言葉に、フーリェンがシュアンランの横でちょこんと目をそらす。無言ではあるものの、尻尾の動きが少しだけ落ち着かなくなったのを、シュアンランは背中で感じ取る。
「……甘えたいなら、ちゃんと言えばいいのに」
ぽそりと、フーリェンがこぼすように言った。
その言葉に、思わず場が静かになる。
ジンリェンが、片眉を上げる。
「フー、お前それ……」
「いや、なんでもない」
すぐに誤魔化すように水を口に運ぶフーリェン。
だが、その頬がほんのり染まっているのを見逃した者は誰もいなかった。
「へえ……へえ~~~……?」
ランシーがからかうようににやつきながらフーリェンを覗き込むと、フーリェンが真顔で空になったマグを持ち上げる。
「ランシー、もう一杯どう?」
「ごめんなさい調子乗りました」
即答で謝るランシーに、ジンリェンが吹き出す。
「……ほんと、お前らいると飽きないな」
シュアンランもようやく落ち着いたらしく、苦笑しながらマグの水を一口飲む。
柔らかな灯りに照らされた四人の輪は、夜が更けても崩れることはなかった。酔いとぬくもりと、少しの恋しさを混ぜた空気の中で、それぞれが、今ある関係を大切に思っていた。笑い声が消え、温かな灯りがひとつ、またひとつと消えていく。
フーリェンが立ち上がり、静かに空いたマグを片付け始める。ランシーもまた、ぐらついた椅子をきちんと直し、散らばった小皿をまとめていく。
「じゃあ、またね」
ぽつりとフーリェンがランシーに声をかけると、ランシーも軽く頷く。
ジンリェンはすでに自分の部屋へと戻っていた。
やがて部屋には、シュアンラン一人。
ぬくもりとほんの少し残った酔いに包まれて、静かに微笑みを浮かべる。
冷めない酔いは、ただ心をほぐしてくれる。
誰にも邪魔されず、ただ自分の時間を噛みしめるように。
夜は深まり、部屋の外からは、遠くで響く鐘の音。
それは、いつもと変わらぬ、静かな秋の夜の終わりを告げていた。