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王宮の獣護 ―日常―  作者: 夜夢子


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惨劇

【登場人物】

フーリェン…主人公。第四軍隊長。

ようやく新兵と話せるようになってきた。

リオン…ドジっ子新兵。「年齢操作」の能力を持つ。

アンナ・シュナ・リンリィ…第四軍の中堅兵。

ランシー…陽気な獅子。面倒見がいい。

ジンリェン…フーリェンの兄。弟には過保護。

ルカ…第四王子。フーリェンの主。

シュアンラン…狼男。双子の良き理解者。

冬の前にしては、日差しの暑い日だった。

王宮に併設された訓練場には、兵たちの掛け声と剣戟の音が響いている。フーリェンはいつものように相手を務めて兵士たちの技量を確かめる。目の前の若い兵が打ち込んでくる木剣を軽く受け流し、そのまま手首の角度を直してやる。


「力み過ぎだ。肘をもっと緩めろ。……ほら、こうだ」


ひょいと手本を見せてやると、兵は汗をにじませながら頷く。その時も、そんな日常の一幕に過ぎなかった――はずだった。


背後から、悲鳴に近いどよめきが響いた。

訓練中のざわめきとは違う。その声に、何事かとフーリェンは振り返った。兵たちが一箇所に集まっている。目を凝らしてその中心へと視線をやると、人集りの隙間から栗毛が見えた。尻もちをついている後ろ姿は、軍に入ったばかりの頃を思い起こさせるほど頼りない。


「どうした」


――そう声をかけようとしたフーリェンは、しかし一歩を踏み出したところで立ち止まった。


もともと幼さを残す顔立ちの少年が、さらに幼く――小さくなっている。着ていた訓練服はぶかぶかで肩がずり落ち、裾は地面に引きずるほど。握っていた木剣も、もう持ちきれずに足元に転がっていた。


そこにいたのは、明らかに十歳前後の子供の姿。


兵たちが困惑と興味をないまぜにした目を向ける中、フーリェンはただ一つの可能性に行き当たった。


この国でも他に類を見ない、彼だけが持つ稀有な能力。自身のみならず、触れた相手の年齢すら変えてしまう、年齢操作の力。


「たいちょぉ……」


小さな声が、耳に届いた。

涙で目を潤ませながら自分を見上げてくるのは、リオンだった。


フーリェンは深く息を吐き、子供の姿になった彼の前に膝を折った。驚きも呆れも表には出さず、ただ冷静に、落ち着いた声をかける。


「落ち着け。戻れそうか?」

「……はいぃ」


頼りなげな声が返る。

どうやら自力で制御はできそうだ。


「取りあえず、立てるか?」


フーリェンはそう言って、静かに手を差し出した。

おずおずと伸びてきた小さな手が、それを掴む。


「すみません……」


涙声まじりに彼が呟いたその瞬間――


悲劇は、起こった。






一一一一


陽射しが、やけに眩しく感じられた。

フーリェンは、反射的に目を細めながら自分の手を見下ろす。


――小さい。


指も掌も、すっかり縮んでしまっている。


視線を上げれば、そこには血の気を失った顔で自分を見下ろすリオンが立っていた。つい先程まで幼子に戻っていたはずの少年は、もういつもの年頃に戻っている。しかし今度は、自分の方が彼よりも小さくなっていた。


「……た、隊長……?」


フーリェンは声を返そうと口を開いた。だが喉から出たのはかすれた息だけで、言葉にはならなかった。頭の中で浮かんでは溶ける言葉の断片が、何ひとつ形を結ばない。


代わりに、彼はゆっくりと視線を巡らせる。


周囲には兵士たちが集まっていた。つい先程まで木剣を振っていた若者たちが、まるで石像のように立ち尽くし、こちらを凝視している。口を開けたまま動かない者、信じられないものを見たように目を瞬かせる者――誰一人として、声を発しようとしない。


フーリェンは自分の尻尾に視線を落とした。雪のように白かった毛並みが、幼い体に合わせて縮んでいる。


「……り、おん……っ」


喉の奥からようやく声が零れたが、それは思っていた以上に高い声で、耳に届いた瞬間、自分自身でさえ驚かされた。


兵士たちのどよめきが、押し殺したように広がっていく。


フーリェンは、再びリオンを見上げた。

少年は、泣き出しそうな子供のように唇を噛みしめている。


――さて、どうするか。


「だ、誰か呼んでこい! 早く!」

「で、殿下に報告を…っ」


我先にと数人の若者たちが駆け出していく。残された兵士たちは、未だ固まったままのリオンの肩を掴み、がむしゃらに揺さぶった。


「おい! 戻せないのか!?」

「隊長を、元に戻せ!」


リオンは必死に口を開くが、声が言葉の形を結ばない。


「あ、あの……ぼ、僕……ちがっ……えっと……」


混乱でぐちゃぐちゃになった頭が、まともな説明を許さない。


フーリェンはその様子を見て、胸の奥に冷たい重石を抱えた。自分が来ていた隊服は小さな体には合わず、ぶかぶかの布がずり落ち、上着は外套のように肩からずり下がっている。袖は床を擦り、裾も靴を覆うほどだった。


……まずは、リオンを落ち着かせないなければ。

頭ではそう理解してはいる。でも、喉は思うように働かない。声を紡ごうとしても、震える空気だけが喉を掠めて消えていく。その代わりに鋭敏になった耳が、否応にも周囲の音を全て拾ってしまう。足音、鎧のきしみ、兵士の荒い呼吸――すべてが重なり合い、頭の中に容赦なく叩きつけられる。


「どうすればいいんだ!?」

「リオン、早く!」


兵士たちの声が、頭上から降ってくる。

その声はただの焦燥でしかないはずなのに、耳に届いた瞬間、胸が強くざわめいた。


――怖い。


どうしてか分からない。

ただ必死に自分を見て、言葉を投げかける彼らの姿が。

リオンの震える肩を掴み、すがるように叫ぶその声が。

視線が。


すべてが、恐ろしいものに見えてしまった。


小さな心臓が、喉元までせり上がるほどに速く脈打つ。息を吸うたび、胸がきゅうと締めつけられた。


恐怖が喉を塞ぎ、肺の奥を灼くように苦しい。

兵たちの声が、視線が、全部自分を追い詰める檻に思えて――胸の奥で何かが弾けそうになった、その刹那。


「おい、フー! 大丈夫か!」


鋭く、自分の名を呼ぶ声が響いた。

大股で駆け込んできた獅子の姿は、見慣れているはずなのに。


その大きな声も、その迫る気配も、今のフーリェンにとっては恐怖を煽る楔でしかなく――。


「……っ」


足が勝手に動いた。

小さな体は、思わず一歩、後ろへと退く。

隊服の裾が、石床を擦って揺れる。


ランシーの鋭い声が、場に響いた。


「落ち着け!」


だがその呼び掛けは、今の彼には逆効果だった。

小さな狐はぴくりと肩を震わせ、耳をぺたりと伏せ、さらに身をすくめてしまう。


怪訝そうに眉を寄せ、ランシーは足を止めた。

今にも泣き出しそうな顔をしている子狐を前に、視線を横へやり、隣に立つリオンへ問いただす。


「どういうことだ?」


リオンは喉を上下させ、必死に言葉を選びながら、事の経緯を早口で伝えた。その間、ランシーは黙って聞き、やがて「なるほどな」と低く呟く。その目には、ほんの少しの哀れみが浮かんでいた。


「……よし」


彼は膝を折り、子狐の目線に合わせる。

威圧を避けるように、ゆっくりと声を落とした。


「おいフー。ランシーだ。分かるか?」


小さな狐は、こくこくと首を縦に振る。

しかし尻尾は小さな身体にぎゅっと巻きついていた。


「よし、認識はできてるな」

「…ほら、その小ささだと怖いんだろ。自分から来い」


そう言って、ランシーは両腕を広げる。促されるように、子狐は小さく息をつき、よろよろとたどたどしい足取りで近づいた。その姿を受け止めるように、ランシーはそっと抱き上げる。


「…落ち着いたみたいだな。お前、喋れるか?」


胸に抱えながら問いかけると、フーリェンは困ったように口を開いた。ぱくぱくと口を動かすが、出てくるのは掠れた小さな声だけ。言葉にはならない。


「……こりゃ駄目そうだな」

「隊長……申し訳ございません……」


そう言いながら無意識に近づくリオンに、ランシーは慌てて距離をとる。「これ以上小さくなったらどうする…っ」と怒気をはらんだ声でランシーが牽制すると、栗毛の青年はあわあわと距離をとった。



「り、……おん……」


その声に、リオンはびくりと肩を震わせ、顔を上げた。子狐が自分を見ている。その目が責めでも怒りでもなく、ただ自分を落ち着かせるために向けられたものであることが、余計に胸に突き刺さる。


「これ、どれくらいで解けるんだ?」

「い、いち、日もあれば……!」


ランシーの問いかけに、リオンは即座に答える。



「ご、ごめんなさい……人の身体を変えるのは、すごく難しくて……特に、戻すのは……」


その声は次第に尻すぼみになり、周囲の空気までどんよりと沈んでいく。


ランシーが眉を寄せるのを見て、彼の腕の中にいる小さなフーリェンが、ふうっと小さく息を吐いた。


「……だ、……いじょ、ぶ」


途切れ途切れに、それでもはっきりと。小さな声で言葉を紡いだフーリェンの耳はまだ伏せられたまま、しかしその瞳だけは真っすぐにリオンを捉えていた。


「取り敢えず、情報共有だな……。殿下か……いや、先にジンか……?」


ランシーが頭をがしがしと搔きながら呟く。片腕にしっかりとフーリェンを抱いたまま、困ったように周囲を見回した。兵士たちも皆、同じように困惑した顔をしている。ざわめきかけた空気を押しとどめるように、後方から一人の影が静かに前へ出てきた。


「隊長」


落ち着いた声に呼ばれ、フーリェンは小さく首を巡らせる。幼子の姿で振り返ったその仕草に、言葉をかけたアンナは一瞬だけ息を呑んだ。不謹慎ながら、その姿があまりに可愛らしく、自然と表情が緩んでしまう。それでも表情を引き締め、言葉を続ける。

 

「この後の訓練は、私たちで何とかします。ですから、ゆっくり休んでいてください」


その声に後ろで控えていたシュナとリンリィが勢いよく頷いた。

 

「お忙しいのに、時間があれば顔を出してくださるのは嬉しいですけど」シュナが言えば、「たまにはゆっくりしてくださいよ」リンリィが隣で笑みを添える。


三人の言葉に、フーリェンは小さく、こくこくと頷いた。その仕草だけでも、幼い子狐はどこか愛らしく、新兵たちは思わず顔を綻ばせる。ランシーはそんな兵士たちの様子を横目で確認すると、フーリェンに声をかけた。


「行くか」


ランシーはさらに、後ろに残るアンナたちへ振り返り、軽く片手を振る。


「じゃあ、取り敢えず後は任せたぞ」


子狐を抱えたまま、訓練場を後にする。向かう先は南門。確かジンリェンは今日王都警備の日だったはず。この時間なら、そろそろ戻ってくる頃だ。


しばらく木陰に身を潜め、ランシーはフーリェンと共に南門を見守っていた。何人もの兵士たちが行き来する様子を眺めていると、視界の端に、目当ての人物がゆっくりと現れる。


白の隊服を身にまとい、長槍を手に取り、癖のようにくるりと回す姿。その動作だけでも、日常の訓練の延長であることが伝わってくる。


「おい、ジン」


ランシーは、まるで目の前にいる人と話すかのように、小さく名を呼んだ。耳の鋭いジンリェンは、その声を正確に拾い上げた。狐耳がぴくぴくと小刻みに動き、視線はすぐにランシーへと向けられた。そしてそのまま、腕の中に抱かれた子狐へと滑る。


遠目に見てもわかる。大きく見開かれた瞳、思わず固まる肩。手に持った長槍はその場で止まり、相方の兵士に声をかける余裕すらない。子狐を目にした瞬間の驚きと困惑が、急いで駆け寄ってくる姿からも伝わってくる。


「……は? え、……フー……?」


ジンリェンは信じられないという思いで、自分の頬をそっとつねる。目の前にいるのは、どう見ても自分の弟――しかし幼く小さくなったフーリェンだった。


ランシーが腕の中の子狐を抱えながら呆れた声で告げる。


「安心しろ。現実だ」


それでも、動揺するジンリェンにフーリェンは落ち着けず、耳がぴくぴくと揺れる。小さな瞳は不安に揺れ、時折ランシーではなく兄の顔を見上げては、微かに眉を寄せる。


 ジンリェンはその様子を見て、胸がぎゅっと締め付けられるのを感じた。大丈夫だ、と思いながらも、あまりに幼い弟の姿にどう接していいか迷う。一度呼吸を整え、努めて優しい声音で問いかける。


「フー……お前、大丈夫なのか?」


その問いかけに、フーリェンは小さく頷くと、耳を伏せたまま、ふるふると身体を小さく震わせる。すると、幼い両腕を自然に兄に向かって伸ばした。

 

ランシーはそっと彼をジンリェンへと手渡す。ジンリェンの大きな手が、柔らかく小さな弟の身体を抱き上げた瞬間、子狐は安心したように身を委ねた。小さな耳が少し立ち、細く巻かれたしっぽが体にくるりと巻きつく。


「……ジン」


小さく漏れたその一言で、ジンリェンの胸の奥がじんわりと暖かくなる。幼くなってしまったフーリェンを抱きしめながら、この後をどう過ごすか自然と考えが巡る。


「かなり巻き戻ってるな……10……歳くらいか?」

「そういくか? 多く見積っても7だろ」

「いや、こいつ小さい頃は結構小柄だったんだ。…俺よりふた周りくらい幼い感じだったから、…多分見た目よりは上だと思う」


ランシーが突っ込むが、ジンリェンは首を振る。

 

そんな中、フーリェンはジンリェンの腕の中で、少し目をしょぼしょぼさせている。急な身体変化で疲れているのだろう。先ほどよりも元気がないその様子に、兄は自然と抱きしめる腕を強くした。


 



一一一一

ジンリェンとランシーは、ルカの執務室へと静かに歩を進めた。腕の中で寝息を立てるフーリェンを起こさないよう、慎重に足を運ぶ。


「しかしリオンの能力か……」


ジンリェンは困ったように唸る。

弟の寝顔を見下ろしながら、心の中では以前フーリェンから相談を受けたときのことを思い出していた。


リオンの年齢操作という能力は、フーリェンの変化の能力と似通っている。その危うさに彼がどれほど気を使っていたかも知っている。


「身体と一緒に記憶まで巻き戻らなくてよかったな」

「全くだ……」


ランシーの言葉に、ジンリェンもまたほっとした息を漏らす。


二人は小さな声で言葉を交わしながら、静かに歩を進めた。幼いフーリェンを抱えたままの慎重な歩みも、いつしかルカの執務室の扉の前まで届く。


ジンリェンは深く息を吸い、一度心を落ち着け、平静を装ってドアをノックした。


執務室に入ると、書類に追われていたルカが顔を上げた。その目が次の瞬間には丸くなり、ジンリェンの腕の中ですうすうと眠る小さな子狐へと釘付けになる。


「そ、そのこ……どうしたの」


その動揺を隠しきれない声に、二人は苦笑する。


「…フーです」


やや諦めがちにジンリェンが告げると、隣のランシーもまた神妙な面持ちでこくこくと頷いた。


ルカは少し言葉を選びながら立ち上がり、ゆっくりとジンリェンに近づく。腕の中の子狐を覗き込み、しばらく沈黙ののち、静かに漏らす。


「だよ、ね…。うん。見覚えがある気がしたんだけど……というか見覚えしかないけど」


そのまま腕の中の子狐の顔を覗き込むルカ。小さな寝顔を確認してから、呟くように言った。


「リオンか……」

「察しの通りです…」


困った表情で小さく呟くルカに、ジンリェンは淡々と返す。

 

数刻後、執務室の中は静まり返っていた。ソファーの上に寝かされたフーリェンは、頭をジンリェンの膝に乗せ、薄く掛けられたジンリェンの隊服の上着に包まれてすやすやと眠っている。小さな胸の上下に合わせて呼吸が揺れ、幼い姿が一層際立っていた。


「1日もあれば元に戻るそうですよ」


ランシーの声が穏やかに響く。念のため、明日の護衛任務は代わりを立てることにします、とも続けた。


ふいに、フーリェンの耳がぴくりと動き、ゆっくりと目を開けた。まだ夢現のような、ぼんやりとした瞳が周囲をキョロキョロと見回す。


「こりゃ赤子だな」


ランシーの声が笑みを含んで零れ、その声に呼ばれるように、フーリェンはようやく覚醒した。その目が幼子にしては素早く周囲を確認する。まず頭上の兄、次に声の主であるランシーに目を向け、最後に自分の主であるルカへと視線を移す。


おっかなびっくり、目を見開くフーリェンに、ルカは柔らかく微笑んだ。


「フー、おはよう」

「……お、はよう、ござい………ます」



フーリェンはしばらく目をぱちくりとさせた後、掠れた小さな声で返した。そのまま視線は兄とランシーに向かう。少しだけ抗議めいた眼差しを向けるが、言葉にはできず、静かに胸の中に留めたままにしている。

そんなフーリェンの様子に、ルカは安心したように小さく笑みを浮かべ、言葉を漏らした。


「私のことも分かるみたいだし、よかったよ」


その言葉に返事をしようと口を開くが、思うように声は出ない。一生懸命に言葉を紡ごうとしていることは伝わるが、結局うまく言葉にならず、フーリェンは少し苛立ったように、すんと鼻を鳴らした。


「こんな姿で申し訳ございません、と言いたいんだと思います」


ジンリェンが通訳するように言うと、フーリェンの目はぱちりと大きく見開かれた。なぜ分かる、とでも言うかのように、ジンリェンをじっと見つめるその目には、少し驚きと疑問が混ざっている。


「お前の考えていることくらい分かる。兄弟なんだから」


その顔にジンリェンは苦笑し、そっと小さな頭に手を乗せた。


取り敢えず、全員がここに居ても仕方がない。そう判断したジンリェンは「夕方の巡回当番が終わるまではここで過ごさせてもらえ」と言い置き、ランシーと共に執務室を後にした。


扉が閉まると、部屋には一気に静けさが戻ってきた。残されたフーリェンは落ち着かず、小さな尻尾が椅子の上でせわしなくパタパタと動き続けている。とはいえ、この小さな身体ではどうしようもできないのだから、大人しく座っているしかない。


ルカはそんな彼の様子に、微笑みながら声をかけた。


「フー、もしよかったらサインした書類をまとめてくれる?」


思いがけず任された仕事に、フーリェンの瞳がぱっと明るくなる。尻尾はますます勢いよくパタパタと揺れ、嬉しそうに頷いた。


小さな手が、ルカから差し出された書類の山を受け取る。両腕で抱え込むようにしながら長机まで歩いていき、一枚一枚を丁寧に並べ始めた。背伸びしなければ届かない机の上に、ちょこんと置いていく姿はまるで小さな助手のようで可愛らしい。ルカはその後ろ姿を見守りながら、机の上に視線を落とし、静かにペンを走らせる。


――穏やかな午後のひととき。


戦場の緊張も、日々の喧騒も遠く、ただ紙をめくる音と小さな尻尾が揺れる音だけが、執務室にやさしく響いていた。


気づけば窓の外は茜色に染まりつつある。

ルカの机上からは書類がすっかり姿を消し、フーリェンの方も全てをまとめ切って、長机の上には丁寧に揃えられた束がきちんと並んでいた。


「助かったよ。ありがとう」


ルカがそう労うと、フーリェンは一瞬きょとんとしたのち、少しだけ、ほんの小さくにこりと微笑んだ。


ルカは大きく背伸びをして、凝った肩を回す。ちらりとフーリェンを見やり、何か考え込むように眉を寄せる。少しの逡巡のあと、遠慮がちに口を開いた。

 

「フー、ちょっとこっちに来てくれる?」


その呼びかけに、小さな子狐は尻尾をぱたぱたと揺らしながら歩み寄ってくる。


「…るかさま」


拙い声で名を呼ばれ、ルカは「えっと」と言い淀む。何かと葛藤するように一瞬目を伏せたが、やがて決心したように膝を折り、フーリェンと同じ目線にしゃがみ込んだ。驚いたように瞬く子狐へとそっと手を伸ばし、遠慮がちに、けれどしっかりと小さな頭に掌を置いた。ふわふわとした柔らかい毛並みが、指先をくすぐる。


「ふふ、可愛いなぁ」


自然と笑みが零れ、ルカはそのまま子供特有の温かな髪を撫でる。不意を突かれたフーリェンは、目を丸くして固まってしまった。けれど嫌がる様子はない。


「昔は、なかなかこうしてあげられなかったからさ」


懐かしむように呟きながら、ルカの手はなおも優しく動く。目の前の幼いフーリェンに、かつて自分が救い出した子狐の姿が重なる。


「……そろそろ、ジンも戻ってくると思うのだけれど」


名残惜しげに手を離しながら、壁に掛けられた時計へ視線を向ける。針は思っていたよりも進んでいて、ルカは眉を寄せた。この時間になってもまだ来ていないということは、きっと何かあって対処に追われているのだろう。彼の性格を思えば、すぐに報告に戻れぬ理由があるに違いない。


そんな考えがよぎったその時――控えめに、コンコンと扉を叩く音が響いた。


二人は揃って扉の方を向く。


「どうぞ」


ルカが声を掛けると、ゆっくりと扉が開いていく。

ひょこりと現れたのは、予想していたジンリェンではなく――灰銀の狼だった。


室内に足を踏み入れた彼は、次の瞬間、視線の先に子狐の姿を見とめて――その場に固まった。フーリェンもまた、ぱちぱちと瞬きをしながら、突然現れた狼を見つめ返す。


「……少し、問題があって迎えに行けないとのことだったので、代わりに迎えに来たのですが……」


なんとかそこまで言ってから、彼の赤い瞳はまじまじと子狐の姿を追う。


「本当に……かなり小さく、なったなお前……」


驚きと戸惑いの色を隠しきれないその視線に、当の本人は――もはや本日四度目の反応ともなれば慣れたもので、特に狼狽えるでもなく、すん、と鼻を鳴らしてみせるだけだった。


そんな二人の様子に、ルカは思わず「あはは」と笑い声を洩らす。軽やかなその笑みに場の空気も和らぎ、ルカは目の前の子狐へと向き直った。


「お迎えが来たみたいだし、行っておいで」

「……はい」


寄ってきたフーリェンの小さな手を、シュアンランは自然に取る。


「では、俺はこれで」


ルカに一礼してそう告げると、灰銀の狼は子狐を伴い、執務室を後にした。


廊下へ出ると、シュアンランは歩調を落とし、隣を歩く小さな存在に合わせてゆっくりと足を進めた。ちらりと視線を横にやれば、小さな歩幅で並んで歩くフーリェンの姿がある。


――反射的に手を繋いでしまったが、大丈夫だっただろうか。


中身はいつものフーリェンのはずなのに、この小さな手の感触に、どうしても戸惑いを覚える。


しかし、当の本人は特に嫌がる様子もなく、大人しく手を繋がれていた。周囲の気配を探るように耳をぴくぴくと動かし、大きな琥珀色の瞳でシュアンランを仰ぎ見る。時折、廊下ですれ違う兵士たちは、隣を歩くフーリェンの姿を見つけると、思わず顔を緩ませた。


王宮における噂の早さは火の回りより速い。第四軍の隊長がリオンの能力のとばっちりを受けて小さくなった――その事実は、この半日のうちに、すでに宮中の者たち全員に知れ渡っていた。兵士たちは驚きや戸惑いを見せるよりも、小さな姿に目を細め、口元に笑みを浮かべて通り過ぎていく。


フーリェンはといえば、そのたびに耳を伏せ、やや気まずそうに顔を曇らせていた。声を掛け返すことも、否定することもできない。上手く声が出ないらしく、言葉を発しようと口を開いても、喉の奥で小さな音が掠れるだけだ。だからフーリェンは、なるべく目立たぬように、繋いだ手を少しだけ後ろへ引き、シュアンランの背に身を寄せた。まるでその大きな影に隠れるようにして、通り過ぎる視線をやり過ごそうとしている。


シュアンランはちらと横目にそれを感じ、繋いだ手をほんのわずかに強めて握った。


やがて二人の足が止まったのは、シュアンランの私室の前だった。扉を開けながら、軽く肩を竦めて子狐へと言葉を投げる。


「ジンはまだ時間かかりそうだし、先に飯食うか」


差し出された言葉に、フーリェンは小さくこくんと頷く。その反応を確認してから、シュアンランは繋いでいた手を軽く引き、部屋の中へと促した。


「ランシーが食堂に行ってくれてる。多分そろそろ来るだろ」


そう呟く声に導かれるように、フーリェンは部屋の敷居をまたぐ。中は落ち着いた色合いの調度でまとめられており、使い込まれた長椅子が一つ。シュアンランはそこへフーリェンを座らせ、壁際の明かりを灯した。


その直後、コン、と扉が再び開き、ランシーが両腕いっぱいに食べ物を抱えて入ってきた。


「おう、もう戻ってたか!」


陽気な声が室内に響く。

ちょこんと長椅子に座る子狐姿のフーリェンを見て、ランシーはほんの少し肩の力を抜いたように笑う。


「すっかり慣れたみたいだな」


そう声をかけながら、彼は両手に抱えていた包みを長机の上へ次々と並べていく。香ばしい匂いがふわりと部屋に広がった。


「大きいと不便かと思ってさ」


そう言って、懐から取り出したのは掌に収まるほどの小さな木製のスプーンだった。軽く振ってみせ、「ほら、これ使え」とフーリェンに差し出す。フーリェンは一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに両手で受け取り、「ありがと、う」とぽつりと声を落とした。


幼い響きの残るその礼に、ランシーの顔は満足げに綻ぶ。彼はそのまま長机を挟んで向かいの床に胡座をかいた。シュアンランは棚から人数分のカップを取り出し、飲み物を注いでからフーリェンの隣に腰を下ろす。


小さな手で器を押さえ、一生懸命スプーンを動かすフーリェン。ひと口ひと口、丁寧に口へ運び、時折眉をひそめながらも食べ進めていく。その真剣な様子に、ランシーは思わず笑みを漏らした。


「こうやって見てると、可愛いな」


苦笑しつつも否定しないシュアンランの横顔を見やり、フーリェンは小さくむすっとする。


「うるさい……」


舌足らずな声でそう呟く小さな口元に、ランシーとシュアンランは思わず目を見合わせる。姿は幼くなったけれど、中身はやはりいつものフーリェンそのもの。そのちぐはぐさに、二人はくすりと笑いをこらえながら見守り続けた。


ランシーが冗談を飛ばせば、フーリェンはむすっとしながらも拙く返し、隣に座るシュアンランは時折彼の袖を直してやる。


そんな穏やかな食事を終えた頃には、窓の外はすっかり夜の色に沈んでいた。


なかなか帰ってこない兄のことを思ってか、フーリェンは言葉こそ発さないが、不安そうに視線を揺らしていた。


「少し見てこようか」


そう言ったシュアンランの大きな手が、フーリェンの手をそっと取った。


「ほら」


促すように引かれ、フーリェンは何かを言いかけるように口を開いたが、すぐに閉じてしまう。そのまま大人しく、彼の手に導かれて歩き出した。


前を行く二人、そのすぐ後ろをランシーが歩く。

静かな回廊には人気がなく、兵舎もひっそりとしている。


「いねぇなー」


小さくぼやきながらフーリェンの手を引くシュアンランに、小さな狐は黙ったまま従っていた。そんな二人の背中を見ながら、ランシーがふと呟いく。


「……なんか、すごい、しっくりくるな」


「何が?」と問うシュアンランに、ランシーは言葉を選ぶように続ける。


「いや、なんかさ。手繋いで歩いてるのがさ――」

「あぁ…」


納得したように短く声を漏らし、シュアンランが微笑んだ。


「昔、ジンがいない時はよくこうして手を繋いでたんだ。……繋いでたっていうか、ほぼ俺が連れ回してた感じだけど…」


どこか照れくさそうに言う彼の言葉に、ランシーの脳裏には、小さな子狼と子狐が並んで王宮を歩く姿が浮かび上がる。


――あぁ、想像できる。


その時ーー

遠くから聞こえてくる足音に気づいたフーリェンの耳がぴんと立ち上がった。誰よりも早く気配を察したその視線に釣られるように、シュアンランとランシーも同じ方向へと目を向ける。


やがて、角を曲がって姿を現したのは探していたジンリェンだった。急ぎ足で歩いてきた彼は、三人の姿を見つけるとわずかに表情を和らげ、すぐさま駆け寄る。


「すまん! 遅くなった」


その姿を目にした瞬間、フーリェンは繋いでいたシュアンランの手をすっと離した。ためらうことなく兄のもとへ駆け寄ると、その隊服の裾をぎゅっと握りしめ、するりと背後へと回り込む。


「迎えに行けなくてごめんな」


ジンリェンは、後ろに隠れた小さな弟の頭をそっと撫で、低く優しい声で囁いた。


その声にフーリェンはふるふると首を横に振り、すぐに先程まで自分と一緒だった二人へとへ視線を向ける。


「シュアンとランシーが、いたから」


その小さな声に、ジンリェンは一瞬きょとんとしたが、次いで安堵に似た柔らかな笑みを浮かべた。


「ジンも戻ってきたし、俺らはそろそろ行くよ」


ランシーが軽く手を上げる。


「じゃあな、おやすみリェンリェン」


――双子を略したふざけた呼び方に、ジンリェンは呆れたように目を細める。


「まったく……」


苦笑しつつも否定はせず、シュアンランも踵を返す。


「明日には戻ってるといいな」


そう言い残し、二人は回廊の奥へと消えていった。

ジンリェンは足元で見上げる小さな弟を抱き上げ、その顔を覗く。


「戻ろう」


フーリェンはその胸の中でこくんと頷き、ぽつりと呟いた。


「おつかれさま、ジン」


ジンリェンは一瞬目を細め、ふっと笑みを零した。


「お前もな」


夜の静けさの中、その言葉だけがやわらかく響いた。





ーーーー

翌日――訓練場には、いつもの白狐の姿があった。


短剣を軽やかに構え、次々と新兵たちの相手をこなしていく。まるで昨日の惨劇など初めから存在しなかったかのように淡々としているその様子に、ジンリェンは、僅かに肩の力を抜いた。


「……大丈夫そうだな」

「フー、戻ったって?」


そこへ、背後から聞き慣れた声が届いた。

振り返れば、シュアンランとランシーが並んでやってくる。ジンリェンは軽く顎で訓練場の方を示した。

二人も視線をそちらへ向け、軽やかに動く白狐を目にする。


「元気そうだな」

「ほんとだなー」


思わずシュアンランが呟くと、ランシーが口の端を上げて同意する。二人は並んでジンリェンの隣に立ち、肩を並べるようにして訓練場を見つめた。


やがて、訓練場の端に並んで立つ三人に気づいたフーリェンは、短剣を収めて指示出しをアンナへ任せると、軽やかな足取りでこちらに歩み寄ってきた。


「身体は大丈夫か?」


シュアンランの問いかけに、フーリェンはこくんと頷く。視線を改めて二人に向け、淡々と口を開いた。


「昨日は、ありがとう」


その声音には、幼さも拙さも微塵もない。


「気にすんな」


ランシーがにっと笑えば、シュアンランも無言で頷く。


だが、ふとランシーが顎に手をやり、面白そうにフーリェンへ問いを投げた。


「なあ、お前。昨日のこと、全部覚えてる……というか、中身はしっかりお前だったんだよな?」


その言葉に、フーリェンの顔がぴしりと強張った。

苦虫を噛み潰したような表情。適当に誤魔化そうかと一瞬迷ったが、やがて観念したように小さく呟いた。


「……お陰様で、しっかり僕だったよ」


声音は低く、まるで「忘れてくれ」とでも言いたげな雰囲気だった。


「っははははっ!」


ランシーの笑い声に「おいおい……」とシュアンランが苦笑交じりに宥めるが、止めるつもりは毛頭ない。ジンリェンに至っては、口元を僅かに歪めながらも視線を逸らして笑いを堪えていた。


三人の反応に、フーリェンはむすっと頬を膨らませ、じとりとした目で睨みつける。


「……おい、笑い過ぎだろお前ら」

「だってお前、あんまりに幼いもんだからさ」


ランシーは涙目になりながら笑い続ける。

三人の脳裏に浮かぶのは、昨日のフーリェンの姿。

大人しく腕に抱かれ、気付けば兄の腕の中で寝息を立て、もぐもぐと食事をし、シュアンランに手を引かれて、そして兄の不在に不安になり、一目散に抱きついた――あの子狐の姿だった。


「……仕方ないだろ」


フーリェンがぼそりと、小さな声で反論する。その声音には、言い訳めいた響きと、少しの苛立ち、そして居心地の悪さが混じっていた。


「……心の中では、もっと色々思ってたんだ。でも、なんでか言葉にできなくて」


淡々とした口調の裏に、照れと苛立ちが同居している。


「発した言葉も、拙かった……。あれでも、結構頑張った方なんだ」


フーリェンは、笑い続ける三人に向かってむすっとした顔で吐き捨てるように言った。


「……お前らも味わえばいい」

「おいおい、物騒なこと言うなよ!」

「悪かったって。笑ったのは謝る」


三人のやり取りに、ジンリェンは小さく息を吐き、口元にかすかな笑みを浮かべる。


「……まぁ、お前が元気そうでよかったよ」


その言葉に、フーリェンは気のない仕草で肩を竦める。


「正直、二度とごめんだけどね」


こうして栗毛の少年兵から始まった惨劇は、幕を下ろしたのだった。

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