来なかった男
「かんぱーい!くろさん、お誕生日おめでとう〜〜!!」
店内が、祝福の声で満ちていた。
ラウンジ中が沸く。シャンパンの滝が、煌めきながらグラスに注がれ、
無数のフラッシュがくろを囲んでいた。
紫とゴールドの装花、
ラベルにくろの笑顔が刷られたオリジナルボトル、
数十万円を超えるルイ・ロデレールの開栓。
それはまさに、女王の夜だった。
「今日の主役はくろちゃんよ〜!」「うちの嫁にしたいレベル」「女の完成形!」
男たちは次々に席に着き、
くろは完璧な微笑で応じていった。
笑う。
注ぐ。
触れる。
誘う。
甘える。
挑発する。
すべてが完璧だった。
――けれど、その視線だけは、時折、店の扉をちらりと見た。
ほんの一瞬。
誰にも気づかれないように。
でも、確かに何度も――視線は“入口”を探していた。
「……理央、来るよね?」
自分でも気づかぬうちに、くろの胸の中でその問いが膨らんでいた。
この店の女王の夜を見逃すはずがない。
あの冷めた目の奥に、少しでも好奇心があるなら――
来る。絶対に来る。
そう信じていた。
だが、
イベントは佳境に入っていく。
席替えが繰り返され、ボトルが次々に空き、
記念撮影が続いても――
理央の姿はなかった。
午前1時すぎ、最後のシャンパンが開かれた。
男性客たちの笑い声は最高潮に達し、
「くろ!愛してる!」「結婚しよう!」というお決まりの冗談さえ飛び交った。
くろは、微笑んで応えた。
ドレスを整え、グラスを掲げた。
でも、心のどこかがずっと、
“あの顔”を探していた。
“来なかった”ことに、気づいていた。
営業終了後。
控室に戻ったくろは、足元のヒールを脱ぎ捨て、ソファに崩れ落ちた。
笑顔が剥がれる。
化粧もそのまま、視線は天井を彷徨っていた。
「……ほんっと、バカみたい」
一人ごとのように呟く。
自嘲がにじむ。
これだけの人に愛された夜に、
来てほしかったのは――たったひとりだった。
スマホを開く。
綾瀬理央
その名前をタップする。
ふざけたスタンプのひとつでも、皮肉でも、
何か言ってやりたかった。
「どうせ気になってたくせに」
「なんで来なかったの?」
そう打ち込んで、
送信ボタンを押そうとした――その時。
画面に表示された文字。
「このユーザーには送信できません」
一瞬、意味がわからなかった。
通信エラー?不具合?スマホの不調?
……違う。
くろの瞳が揺れた。
「……ブロック……されたの?」
しばらく画面を見つめていた。
何も言葉が出てこなかった。
鼓動が、遅れて痛みを伴って響く。
拒絶された。完璧な自分が、無視されたどころか――“遮断”された。
「……冗談でしょ」
声が震えた。
ドレスの胸元を握る。
崩れないように作り込んだ女王の顔が、音もなく剥がれていく。
「……一度も褒めなかったくせに、
最後まで、目を逸らしたまま――
なに、それ。
なによ……あんた」
画面を閉じても、
“ブロックされた現実”は消えなかった。
シャンパンの香りも、拍手も、
今日受け取ったすべての祝福が――
今は、空っぽだった。