視線ひとつの暴力
金曜の18時半。
銀座の通りは、街灯が灯り始めるにはまだ早く、
夕方のくすんだ光に照らされていた。
くろは、長めのトレンチコートに身を包み、
同伴客――常連の医療コンサルタント、志賀と並んで歩いていた。
「今夜は、少し奮発して寿司かな。
くろさんと一緒に過ごす夜なら、財布の紐も緩むよ」
「ふふ、それは光栄ね。お魚も喜んでくれるわ」
いつもの軽口。
愛想も、色気も、完璧に整っている。
だが、どこか身体の芯が冷たい。
笑いながら、くろはどこか遠くを見ていた。
その時だった。
前方、交差点の信号が青に変わり、人波が動き出した。
その中に――
綾瀬理央の姿があった。
白シャツにグレーのステンカラーコート。
手には小ぶりな紙袋。どこかの帰りか、差し入れか。
くろの呼吸が、わずかに止まった。
無意識に志賀の話す声が耳から滑り落ちる。
理央は、こちらを見た。
ほんの、一瞬。
その瞳が、くろの顔をとらえた――はずだった。
しかし。
会釈も、笑みも、立ち止まる素振りもない。
彼は、ただ“無”の顔で、視線をすべらせた。
そして――
くろを空気のように通り過ぎた。
まるで、そこに“何もなかった”かのように。
人波の向こうに、理央の背中が遠ざかっていく。
雑踏に飲み込まれ、
もう二度と振り返ることはなかった。
「……あれ?くろさん?大丈夫?」
志賀の声に、はっとして、くろは顔を戻す。
「……うん、ごめんなさい。ちょっと人違いだったみたい」
作り笑いはうまくできた。
だが、足元のアスファルトが少し沈んだ気がした。
食事の間も、ワインの香りにも、志賀の話にも、くろは集中できなかった。
理央の顔が、焼きついて離れない。
一度だけ、見た。
けれど、その目は――何も感じていなかった。
“気づかれていない”より、“気づかれて無視された”ことの方が、何倍も堪える。
それは、「お前は何者でもない」と告げられたのと同じことだった。
その夜の営業中も、くろはいつもより声が低かった。
笑顔はあった。だが、どこか空白を孕んでいた。
「あれ?くろさん、今日ちょっと元気ない?」
「ふふ、疲れがたまってるのかもね。でも、笑わせてくれるなら元気になるかもよ?」
軽い冗談で場を繕いながらも、
くろの内側では、確実に何かが軋んでいた。
帰り道。
ドレスのまま、ロングコートの襟を立てて歩く。
足元のヒールの音が、いつもより硬い。
理央の顔。
理央の視線。
理央の――無関心。
「……私が、誰かの“何者でもない”なんて、ありえないのに」
それを、あの男は平然とやってのけた。
見て、気づいて、そして――無視した。
それが、くろをもっとも苛立たせた。
部屋に戻ると、くろはドレスを脱ぎ捨てた。
鏡の前で髪をほどき、口紅を拭いながら、
もう一度、スマホの連絡帳を開く。
綾瀬理央――
そこに登録されたままの名前を、
削除することも、呼び出すこともせず、
ただ、見つめていた。
「……無視されたこと、
私は絶対、忘れない」