感情のヒールが折れた夜
金曜の夜。
銀座はいつにも増して浮ついた熱に包まれていた。
週末前の高揚感、誰かを誘う視線、重なるグラスの音。
「L’Eclipse」の空気も華やいでいる。
くろはその日も、完璧だった。
ドレスは背中が大胆に開いたディープネイビー。
香りはローズとジャスミンのブレンド。
髪は流れるような巻き髪に、深紅のリップ。
「黒瀬くろ」――銀座で名前を出せば通じる、圧倒的ナンバー1。
けれど、その夜のくろには、一つだけ欠けていたものがあった。
“安定した心”
「ねぇくろちゃん、最近ちょっとツンデレ感増してない?え、俺にデレ来る?そろそろ?」
「うるさいわね。あなたに“デレ”が来るのは、寿命が尽きる5秒前かしら」
冗談交じりの言葉。笑いが起こる。
シャンパンが開き、チョコレートが運ばれてくる。
男たちはくろの毒舌に酔い、店の空気はいつも通り――だった、その瞬間までは。
「でさー、俺さ、こないだの綾瀬と飲みに行こうと思ったら、
“今日はその子の手作り弁当の日だから無理”だってよ。やばくない?どんだけ惚れてんのって話」
何気ない、ほんの何気ない会話。
だけど、その“名前”を耳が拾った瞬間、
くろの中に封じ込めていた何かが、弾けた。
「……っ、くだらないわね」
グラスを手にしていた指が止まった。
言葉が、口から滑り出た。自分でも止められなかった。
「手作り弁当で男を釣るような女が、“いい女”だって?
あんたら、どんだけ想像力貧困なのよ」
空気が――凍った。
男たちは言葉を失い、笑いも止まった。
氷の音だけが、グラスの中で細く響いた。
数秒の沈黙のあと、くろはすっと立ち上がった。
「……ごめんなさい。
少し、疲れてるのかも」
彼女は笑った。
でもその笑みは、どこか崩れたように見えた。
バックヤードに戻り、くろは鏡の前に立つ。
赤いリップが、少しだけ滲んでいた。
「……最低」
ぽつりと、唇からこぼれた。
“ただの名前”に、こんなに乱された。
“あの男の片想い”なんて、どうでもいいはずだったのに。
なのに、なぜこんなにも腹が立ったのか。
なぜ、自分の中に“イライラ”が残っていたのか。
――私のことなんか見もしなかったくせに、
誰かをちゃんと見てるの?
マネージャーに声をかけ、
くろはその日、早退を申し出た。
理由は言わなかった。
ただ、
ヒールの音だけが、誰よりも静かに
銀座の夜から離れていった。
帰り道、風が肌を刺すように冷たかった。
くろは一度も振り返らなかった。
けれど、
スマホの中にまだ残る“綾瀬理央”の名前が、
まるで傷口のように疼いていた。