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記憶の底で名前が疼く

「L’Eclipse」の夜は、静かに始まった。

ソファの革が微かに鳴る音。

グラスの氷が溶けるリズム。

会話の笑い声が交差しながら、夜の都市に馴染んでいく。

店内スタッフがひそひそと耳打ちした。

「くろさん、滝沢さんご来店です」

「あら、あの騒がしいサラリーマン?……退屈はしなさそうね」

くろは笑みを浮かべ、ドレスの裾をひらりとなびかせて席へ向かった。


「うっわ、今日もレベチな美人っすね〜!

おれら場違いすぎてヤバない?」

「……相変わらず品がないこと」

くろはシャンパンの栓を抜きながら、さらりと流す。

「今日はどんな話題で笑わせてくれるの? 恋バナ? 下世話な噂話?」

「ま〜たそんな攻め口調。くろさんと喋ってると、俺、Mに目覚めそうで怖いわ」

「今さらでしょ?」

言いながら、くろはワイングラスを傾ける。

何人かで囲む中で、話題は職場のことや仕事の愚痴、最近の失敗談などで盛り上がっていく。

「てか、あれだよ、うちの理央――あっ、綾瀬って後輩がさ、

最近やたら真面目で……」

その瞬間。

くろの中に、薄く沈んでいた記憶の欠片が、ふわりと浮かび上がった。

その名を耳が拾ったとき、ワイングラスの脚に触れる指が、わずかに止まった。

“綾瀬――理央”

興味があったわけじゃない。

でも、その名前に、何か温度が宿っていた。

「へぇ…理央くん、最近どうなの?」

自然な流れで、くろは訊いた。

あくまで、笑ったまま。酔いに紛れた言い方だった。

滝沢は気にも留めず、グラスを掲げながら答える。

「ん?あいつ? 相変わらず女遊びゼロ。てか、こっち系全く興味ナシよ。

それどころか、社内の地味な子に本気っぽいのよ。

弁当持参の清楚系?あいつ、そういう“安心感”タイプ好きそうだしな〜」

「ふぅん……そうなのね」

笑顔は崩さなかった。

けれど、その笑顔の裏で、くろの心は、わずかにざらりと軋んだ。


そのあとも接客は続いた。

いつものように男たちは彼女に酔い、グラスを重ね、夜は深まっていく。

けれど、どこか感覚が鈍っていた。

笑い声の裏で、くろは別の声を探していた。

“家庭的な女”に惹かれてる男

自分を一瞥もせず、連絡も寄越さなかった男

――なに、それ。……つまらない。

営業後。

控室で鏡越しに自分の表情を見つめる。

「……なんで、あたしがあの男の話なんか、気にしてるのよ」

化粧を落としながら、自分に問いかける。

問いに答える者はいない。

けれど、心のどこかでは知っていた。

あの男が、誰か他の女を“ちゃんと見てる”と知った瞬間。

胸の奥に、名前のない棘が刺さった。


部屋に戻ってシャワーを浴びたあと。

スマホを開く手が止まる。

メッセージ欄。

送信履歴。

既読になって返ってこなかった画面。

綾瀬理央

その文字列が、

なぜか胸の奥で疼いた。

「……ムカつく」

ベッドに身を沈めながら、低く呟いた声だけが、部屋に残った。

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