それでも、くろはくろ
カフェ「halo」が開いて3ヶ月が過ぎた。
日々の波は、思った以上に穏やかで、
けれど決して平坦ではなかった。
滝沢にとって、“くろの変化”は、
まるで毎朝見る空の色が、
少しずつ違って見えてくるような、
そんな静かで確かなものだった。
最初のころ、
くろは厨房の裏から滅多に出てこなかった。
足音を忍ばせ、
声は聞き取りづらいほど小さく、
視線を合わせることもなかった。
けれど――今は違う。
「いらっしゃいませ。
今日は……オレンジの香りの紅茶、入りましたよ?」
ある日、そう言って
笑顔を添えた彼女の声に、
滝沢は思わず手を止めた。
(……くろ、今、自然に笑ったな)
くろの声が明るくなったわけではない。
笑顔がはっきり増えたわけでもない。
けれど、彼女の発する言葉や仕草の奥に、
かつて銀座で見せていた“黒瀬くろ”の
洗練された気配りと、落ち着いた余裕が
すこしずつ、すこしずつ、戻ってきていた。
ある日、常連の男性客にこんなふうに声をかけられていたのを、
滝沢はこっそり厨房から聞いていた。
「くろさんって、なんか……すごく不思議な感じするよね。
すごく綺麗で、遠くにいそうなのに、
急に“そば”みたいに感じる瞬間があってさ」
「……それ、たぶんあたしが“夜の女”だったからだと思います」
「え?」
「……ふふ、冗談ですよ」
その時のくろの笑い声は、
あの銀座の店で、
酔った男たちを手のひらで転がしていた“くろ”と同じ響きを持っていた。
だが――そこに、苦味も皮肉もなかった。
ただ、柔らかく、包むような“冗談”。
滝沢は、それを見ていた。
(……黒瀬くろに、戻ってきている)
でもそれは、
あの冷たくて、誇示的で、
誰にも触れさせなかった黒瀬くろじゃない。
ちゃんと、“ここで生きている”くろだった。
くろが店に立つ時間は、日に日に長くなり、
調理の補佐も、オーダーのタイミングも、
完璧とまではいかないが、常に“気が利いて”いた。
それは彼女が“夜の蝶”として築いた技術であり――
今やそれが、“昼の居場所”で優しく咲きはじめていた。
ある雨の日。
滝沢が閉店後の伝票整理をしていると、
カウンターの奥で、くろが静かに言った。
「ねぇ、滝沢。
わたし、やっぱり“黒瀬くろ”だったんだね」
「……うん。
俺もそう思うよ」
「でも、今のわたしは、“ただのくろ”でいい?」
「もちろん」
くろは、その言葉に目を細めて、
ふっと力を抜いたように微笑んだ。
(“黒瀬くろ”を否定するんじゃなく、
受け入れて、
“そのままで今を生きていく”――)
滝沢は、その変化を、
ただ、尊く思った。
彼女の笑顔はまだ時々、曇る。
過去の影が差し込んで、
足元が揺れることもある。
けれど、
今の彼女は、それでも前を向こうとする。
それが――
滝沢の誇りだった。
店の看板を閉じる最後の瞬間、
滝沢はくろに言った。
「今日の“くろ”、
ちょっと黒瀬くろだった」
くろは、肩をすくめて笑った。
「ふふ、
じゃあ明日はもうちょっと“くろ”に戻るかもね」
二人の笑い声が、
夜の静けさに、ゆっくりと溶けていった。




