ほどけた声
それは、梅雨入り直前の曇り空の日だった。
普段より涼しく、雨の前の重たい空気が街に広がっていたが、
なぜかその日、「halo」には開店直後から人が集まり始めていた。
「なんか、地元情報誌に載ったみたいだよ」
「レアチーズケーキが絶品って書いてたわ」
「店内落ち着いてるし、穴場だってさ」
口々に交わされる声。
あっという間にテーブルは埋まり、
滝沢はレジとカウンターと接客を
文字通り一人で縫うように走り回っていた。
くろはいつも通り厨房の裏手にいた。
ホールの空気がざわついているのがわかる。
コーヒー豆を挽く音、グラスを置く音、
そして滝沢のやや早口になったオーダーの声。
彼の声が、ほんの少しだけ――
疲れていた。
「……あたしが、外に出ればいい……?
でも……また“あの時”みたいになったら……」
心臓が早鐘を打つ。
手が湿る。
足が固まる。
(無理――無理無理無理)
そう思ったその時――
チリン――
テーブルの呼び鈴が鳴った。
厨房の奥から、その音がはっきり聞こえた。
滝沢が今、向かっているテーブルではない。
「――っ」
しばらく、誰も来なかったのか、
また呼び鈴が、小さく、でもはっきりと鳴った。
「……っ、」
くろは、無意識に一歩、踏み出していた。
震える手でエプロンの裾を握り、
もう一歩。
さらに一歩。
(行く。行くしかない。
いま、滝沢をひとりにしてはいけない)
くろが客席に出た瞬間、
目の前のテーブルに座っていた二人の女性客が
少しだけ驚いた顔を見せた。
「あ……あの、失礼します。
お呼び……で、した、よね……?」
声は震え、消え入りそうだった。
でも確かに、言葉になっていた。
「……あっ、はい!ごめんなさい。注文お願いしてもいいですか?」
「……も、もちろんです……」
その声が返ってきた瞬間、
くろの背中に、ぞわりとした感覚が走った。
“拒絶”ではなかった。
“無視”でも、“見下し”でもない。
――ただ、“普通に返された言葉”。
それだけなのに、
なぜか、涙がにじみそうになった。
震える指でメモを取り、
厨房に戻り、ドリンクとケーキを丁寧にトレーにのせて
再びテーブルへ向かう。
足はまだぎこちない。
手も震えている。
それでも、トレーは落ちなかった。
「失礼します。アイスコーヒーと、レアチーズケーキです」
丁寧に置いたその瞬間、
女性客が、ふっと笑って言った。
「ありがとうございます。
なんか、すごく丁寧で嬉しかったです」
くろの目の奥に、
涙が広がった。
声を出してはいけないと思い、
口を引き結んだまま頭を下げる。
でも――
胸の奥で、
“ギュッ”と固く縛られていた何かが、ほどけた。
その後、厨房に戻ったくろは
カウンターの端に座り込み、
手を口元に当てて――静かに、泣いた。
泣きながら、思った。
(わたし、まだ“人に何かを届けていい”って、
思っていいんだ……)
その日、店が閉まった後。
くろは滝沢に、
いつも通り、厨房の隅で小さく言った。
「……あの、ありがとう。
今日は……少しだけ、頑張れたかも」
滝沢は、
まっすぐくろの目を見て、微笑んだ。
「……うん。
今日は、最高に助かったよ。
ありがとう、“くろ”」




