明日、少しだけ外へ
その夜、
営業を終えたカフェ「halo」は、
いつになく、静けさの中にあたたかさが残っていた。
店内の片付けを終えた滝沢は、
いつものように厨房の奥にいるくろに声をかけず、
そっと、店内に一杯の紅茶を置いて立ち去った。
くろは、その湯気の立つマグカップを両手で包み込むように持ちながら、
ぼんやりと目を伏せていた。
(結局、何もできなかった)
けれど――
(それでも、滝沢は何も言わなかった)
彼はただ、
“ここにいていい”という場所を守り続けてくれていた。
あの時の、
「支えてくれている大切な人がいます」という言葉が、
今も耳の奥で、消えずに残っていた。
「……支えてる、なんて……
そんな器、あたしにはないのに」
くろはそう呟きながら、
それでも、胸の奥がほんの少し温かくなるのを感じていた。
その夜、ベッドの中で、
くろは久しぶりに“明日”のことを考えていた。
いつもなら、
布団にくるまったまま、
ただ過ぎていく時間をやり過ごすように眠りにつく。
けれどこの夜は違った。
脳裏に浮かんだのは――
“入り口のベルが鳴る音”
“滝沢の「いらっしゃいませ」の声”
“カウンター越しに見える、あたしの椅子”
(……明日、
少しだけ……)
朝。
くろは少し早く目覚めた。
鏡の前に立ち、
軽く髪を整えた。
メイクは……しない。
けれど、リップだけは薄く色を乗せた。
エプロンに手をかけて、
ゆっくりと結ぶ。
震えていた手は、昨日よりも少しだけ、まっすぐだった。
開店の時刻。
「halo」の入り口に、小さな鈴の音が鳴った。
くろは、厨房の奥からその音を聞いていた。
深呼吸をひとつ。
ふたつ。
そして――
「……滝沢」
彼の背中が振り返る。
「うしろの棚、あれ……上の段、取ってくるね」
ただそれだけの、自然な言葉。
けれどそれは、
“ここにいる”という意思表示だった。
滝沢は、
驚いたように、でもすぐに優しく笑って、
「ああ、頼んだ」
と、言った。
その瞬間、
くろはふと気づいた。
心の奥に、
小さな光が灯っていることを。
それはきっと、
“自分で選んだ居場所”にしか現れない光だった。




