わたしはまだ、扉の向こうにいる
カフェ「halo」オープン初日。
朝の光が、店のウィンドウをやわらかく照らしていた。
外には、
チラシを見た地元の人たちや、
通りすがりの親子連れ、
興味深げな年配のご夫婦などが
開店を待つようにちらほらと集まっていた。
「……くろちゃん、大丈夫?」
滝沢が、厨房の奥に目をやる。
くろは、
エプロンを握りしめたまま立ち尽くしていた。
入り口に向かって数歩進んでは、
足が止まり、
震え、
顔を伏せて動けなくなった。
「……やっぱり無理」
くろは小さく吐き出すように言った。
「こんな場所に、“わたし”が出ていっていい顔なんて、
持ってないの……
“ありがとう”も、“いらっしゃいませ”も――
わたしには、もう言えない……っ」
滝沢は、
くろの言葉をただ聞いていた。
そして、何も言わず――
厨房の照明を点け、
店の扉を静かに開けた。
「いらっしゃいませ。ようこそ“halo”へ」
滝沢の声は、やさしく、あたたかかった。
扉の向こうの人々は、
その声に微笑みながら、店内へと歩を進めていった。
厨房の隅。
くろは背中を丸めるようにしゃがみ、
そのまま、目を閉じていた。
心臓が、痛いくらいに高鳴っていた。
でも、滝沢は――
振り返らなかった。
何も責めず、ただ“そのままでいていい”と
背中で示してくれていた。
やがて昼下がり。
ランチの混雑も落ち着き、
ゆったりとした音楽が流れる店内。
常連になりそうな若い女性客が、
カウンター越しに声をかけた。
「このお店って、お兄さんひとりでやってるんですか?」
滝沢は、ふっと笑って、
そのまま視線を厨房の奥へ一瞬やった。
そして――
少しだけ声を張って、
“ある誰か”にも届くように、言った。
「いえ、僕一人じゃありませんよ。
奥にね――
俺のことを支えてくれる、大切な人がいます。
普段は裏方ですけど……
このお店は、ふたりで始めたんです」
その言葉が、
厨房の隅にいるくろの心に、
まっすぐ突き刺さった。
息が止まりそうになる。
目を大きく開いて、
唇を震わせた。
(……支えてくれる“人”……?
わたしが……?
滝沢にとって、
わたしが――“大切な人”?)
そして次の瞬間。
くろの頬に、涙が溢れ出した。
音もなく、静かに、
けれど止めようのない涙。
体が震え、
胸が締め付けられる。
誰も責めなかった。
誰も押しつけなかった。
ただ、彼は、そう言っただけだった。
それだけなのに――
くろは、
声を殺して、泣き崩れていた。
厨房の隅、
誰にも見られないその場所で、
くろは肩を抱きながら、
泣き続けた。
それは、
“過去のわたし”をようやく受け入れた、
祈りにも似た涙だった。




