夜明け前、わたしはまだ泣いていた
カフェ「halo」のオープンを翌日に控えた夜。
くろは、まだ灯りの落ちた店内のカウンター席に座っていた。
誰もいない店内。
けれど、ほんの少しだけ、コーヒーの残り香が漂っていた。
窓の外、月明かりが看板の文字を照らしていた。
“halo”――光の輪。
「……昔のあたしなら、
こんな名前、笑い飛ばしてたと思う」
ぽつりと呟いた声は、
空気を揺らすこともなく、すっと天井へ吸い込まれていく。
指先でカウンターの木目をなぞる。
新品ではない、少し傷のあるテーブル。
でも、そこには誰かが“生きてきた跡”が刻まれていた。
かつてのあたし――“黒瀬くろ”は、
愛される価値を、数字でしか測れなかった。
シャンパンタワーの高さ。
ボトルの銘柄。
指名の数。
滝沢が最初に店に来た日、
あたしは彼を“見込みのある財布”としか思っていなかった。
「優しそうで押しに弱い、寂しがりのサラリーマン」
――その程度。
口角を上げれば勝手に惚れて、
触れればすぐ落ちる。
何も望まず、お金だけ置いていってくれる――
そういう男のカテゴリーに入れてた。
でも、
その男が、
最後まであたしの“中身”を見続けてた。
崩れ落ちたあたしを、拾わなかった。
ただ、黙って隣にしゃがんだ。
あの時、逃げ出さなかった。
沈むあたしの手を握って、
「ここにいる」って、言い続けた。
だから今、
怖くて仕方がないの。
明日、カフェが開いて、
“お客”が来て、
新しい時間が動き出す。
だけど――
それは、
もう“黒瀬くろ”じゃない、
ただの“くろ”として生きる時間。
笑えない日もある。
声が出せない朝もある。
それでも、「いらっしゃいませ」を言わなきゃいけない日も来るかもしれない。
“滝沢が隣にいる”という事実も、
あたしにとっては“怖さ”の一部だった。
“好き”って言葉の重さを知ってしまったから。
誰かを信じるということが、どれほど勇気の要ることか、
身に染みてしまったから。
なのに――
どうしてか、いまは思ってる。
「この人を裏切りたくない」って。
涙がひとしずく、カウンターに落ちた。
静かに、滲んで広がっていくその輪が、
まるで“halo”のように見えた。
「……あたし、もう“黒瀬くろ”じゃない。
笑えなくても、愛されなくても、
誰にも選ばれなくても――
それでも、ここで生きていく。
滝沢と一緒に、この場所を守っていく」
ふと、背後で足音がした。
「……くろちゃん、まだ起きてたのか」
滝沢だった。
肩にはブランケットを持っている。
「あったかくしろよ。風邪、ひくから」
彼は何も聞かず、
隣の席に座って、
ただ静かに、くろの肩にブランケットをかけてくれた。
「……ねぇ、滝沢」
「ん?」
「明日、
もし誰も来なくても、
それでも、ここにいてくれる?」
滝沢は、くろの横顔を見て微笑んだ。
「……もちろん」
その一言だけで、
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
くろは静かに目を閉じて、
祈るように小さく呟いた。
「明日、
新しい“わたし”に、ちゃんと会えますように――」




