笑わなくていい場所
「……あたしには、無理」
滝沢がカフェの提案を口にした翌日、
くろはキッチンの椅子に座ったまま、
カップの淵を見つめながら静かにそう言った。
滝沢は、驚いた様子はなかった。
「……理由、聞いてもいい?」
「理由?簡単よ。
わたしはもう、人前に出られるような人間じゃない。
笑えない。声も張れない。
それに――誰かを“癒す場所”なんて、笑っちゃうわよね。
一番壊れてるの、あたしなのに」
声に棘はなかった。
ただ、淡々と“諦め”だけが滲んでいた。
滝沢はしばらく黙って、
湯気の立つマグカップを見つめていた。
そして、やわらかく口を開いた。
「……じゃあ、接客は全部俺がやる」
「は?」
「俺がカウンターに立って、オーダーも取って、コーヒーも出す。
くろちゃんは、無理に笑わなくていい。
裏で豆を挽いてもいいし、レシピ考えるだけでもいい。
それとも、ただ座っててくれるだけでもいい」
「そんなの、意味あるの?」
「ある。
俺には、ある」
“無理に笑わなくていい”
その言葉が、くろの心の奥で、
静かに響いた。
銀座の頃――
「笑っていれば指名が取れる」
「媚びていればボトルが入る」
「選ばれるには、常に完璧でなければならない」
そんな日々の中で、
笑顔は“戦うための仮面”だった。
でも、今の彼女は――
もう、戦う気力すら持てなくなっていた。
「……ただ座ってるだけで、
“意味がある”って、
本気で言ってるの?」
「言ってる」
滝沢の目は、まっすぐだった。
「俺、もう“黒瀬くろ”っていう女じゃなくて、
“いまここにいる、ただのくろ”と一緒に生きていきたいんだよ。
それだけなんだ」
沈黙が流れた。
でもそれは、苦しい沈黙ではなかった。
くろは目を伏せ、
マグカップのコーヒーを一口だけ飲んだ。
まだ温かかった。
そのぬくもりが、
ほんの少しだけ――胸の内に染みていった。
夜。
ベッドに入りながら、くろは目を閉じて考えていた。
(カフェ……)
客の前に出なくていい。
無理に笑わなくていい。
でも、
滝沢の“隣”には、居てもいい。
それが、彼の望みなら――
(……少しだけ、なら)
翌朝。
キッチンに立つ滝沢に、
くろはぼそっと呟いた。
「……店の名前とか、もう考えてるの?」
滝沢は、振り返らなかった。
でも口元だけ、やわらかく笑った。
「うん。いくつかね」




